巡礼
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普段小説を読んでいて、そうなることはほとんどないのだけれど、泣いた。心がぞわぞわして、どうしていいかわからなくなった。
近所にできたゴミ屋敷。そこにテレビ局が取材にやってくるところから物語はスタートする。この冒頭がとにかくつまらなく、退屈で、読みにくい。登場人物に「顔」がないためだ。「顔」がない、というのがそれら登場人物の顔だったりするのだが、とにかくそんな感じで「顔」なき人物たちが「やんなっちゃうわ」「やんなっちゃうよ」「まったくね」「ほんと」などと会話している。ちょっとこれは、読むの失敗したかと思った。
けれども、橋本治がすごいのはここからで、この後、なぜ男はゴミ屋敷をつくったのか、今もゴミを集めつづけるのかを、すべて説明しきってしまうのだ。しかも、冒頭で「なぜゴミを集めるのか男にはその理由はわからない」と「答え」を明示したあとに、それをする。戦後の日本の変化をゴミ屋敷の男の一生に重ねて説明しながらそれをする。難しいことは特にない。ド直球の正攻法でそれをしきってしまう。
普段私たちは理由がわからない愚行をする人間に対し、あいつはバカだ、おかしい、狂ってるなどといって外在化し、自分と切り離して、理解を拒もうとすることがほとんどだと思う。でも、どんな悪いやつにだって、どんなおかしなやつにだって、共感ができなくたって何だって、そこにいたる理由はある。 (編集済)
根本敬のいう「意味はないけど理由はある」。読みおわったとき、ゴミ屋敷の主人にすらわからなかった「ゴミを集める理由」が読者にはわかってしまう。わかりおえてしまうと「なんでわからなかったんだ」「想像もできなかったんだ」と思う。言ったらなんだが、本作がやっていることは橋本の批評活動としっかり通じてはいる。でも、この仕事は小説でしかできないだろう。小説であることに意味がある。
上手い下手といった巧拙の問題ではない。いや、もちろんテクニックはあるんだろうけど、でも、そういうことじゃなくて。これが書かれなければいけない、書かれないまま、ゴミ屋敷がゴミ屋敷のまま、意味がないことが単に意味がないというそれだけのこととして扱われ続けてはならない理由がある。
「敵」ばかりを認定して、誰に対しても、ろくに想像力を働かせることがない。その上で、自分たちの常識や正義ばかりを認めろッ!と迫る。家父長性や資本主義。産業社会や戦後民主主義。時代の流れ、人生の流れ。相手もその犠牲者であるかもしれないのに。
私たちは自分らがいかに想像できてないかを忘れるからなあ……。自分の頭に入ってないものに思いを馳せることすらしない。だから簡単に元若者であった、元少年であった父や、元少女であった母の無理解に憤る。逆。ぼくらの歴史への無理解だってあるはずなのに。
年寄りに道を譲る必要はない。けれども、年寄りが「そこに立っている」理由を理解はできるはずだし、理解した上でそれと戦うこともできるはずだし、理解した上で戦うことこそが「戦う」ってことだと思う。