屈辱と恥辱
佐々木中は恥辱(honte)と屈辱(humilation)は異なる、屈辱とは「お前らが悪い」。恥辱とは「自分たちが悪い」ことだと区別し、屈辱からは決して革命は生まれない、恥辱からこそ、自己の変革と世界の変革が起こると主張する。
では、屈辱とは何か。これは簡単です。われわれはムスリムなのに、欧米的な価値観に侵されているとか、憲法第九条は押しつけであるから再軍備して日本男児の誇りを取り戻せとか、そういう感情です。屈辱は自分が男である、この社会でこうして生きている男であるということに「恥ずかしさ」を覚えていない。結局その辱めは、他人のせいにしてしまえるものでしかない。これが「屈辱」です。一方、恥辱というのは、みずからの生自体を変革することを孕んでいる。 仝(どう): selected lectures 2009-2014pp.207-8
東電が悪い、政府が悪い、自民党なり民主党が悪い、官僚が悪いマスコミが悪い、それは間違っていない。間違っていないけれども、それは結局は「屈辱」でしょう。自分たちの手だけは汚れていないと思っているわけでしょう。だが、絶対に屈辱からは革命は起きない。反動、暴力、差別、そして現状追認と諦めしか起きない。革命を起こすのは常に恥辱である。われわれの手は血で汚れている。汚されてしまっている、しかしそれをわれわれ自身黙認してきた、----こんなことは赦されない。それが恥辱という政治的情動です。仝(どう): selected lectures 2009-2014pp.208-9
恥辱(honte)は、屈辱(humiliation)とは違う。恥辱は、どこまでも「われわれ」の恥辱である。自分はそうであるところのものに対する恥辱である。屈辱はそうではない。たとえば「第九条は押し付け憲法だ! 日本人がこうなっているのは中国人のせいだ!」とか言う人たちが感じているのが「屈辱」です。それはいつも、「誰か」のせいなんです。
屈辱を感じている人たちは、自分を変える気がない。自らを、自らの世界を変革しようとする、その動機となるのは常に「恥辱」である。屈辱は何も変えません。それが生むのは、弱者への暴力と差別だけです。仝(どう): selected lectures 2009-2014pp.236-7
屈辱からは「絶対に」革命は起きないのはなぜなのか。根拠がわからなかった。
原発もそうだし、ジャニーズ事務所の性加害の問題なんかもまさにこれ。
事務所が悪い、メディアも共犯っていうけれど、じゃあテレビを見ていた自分たちは?っていう。