居場所のパラドクス
居場所が必要な人ほど居場所がなくなるというパラドクス。 居場所が必要だが「ない」人とは簡単にいえばトキシックな人である。トキシックな人とは「一緒にいられる時間が短い人」「我慢できなくなるまでの時間が短い人」と言い換えることができる。 そうした人は行き場がないので、限られた場所に出現するしかない。が、トキシックなので、長時間いるとその居場所から人が減っていってしまい、居場所自体が崩壊してしまい、居場所がなくなる。
たとえばつまらないタレントをそれでもどうやってテレビに映すか、という問題に似ている。つまらないタレントを映すほど、視聴率は下がるし、それでも写し続ければ番組は終了してしまう。結果、そのタレント自身も活躍の場をなくすし、次の機会もチャンスもなくなる。
それでも我慢して居場所にいさせる、テレビ映すと、ホスト、MC、管理人のストレスも尋常じゃない。それでも耐えていると途中でとんでもなくイライラしてきてしまい、「お前はもう来るな」「出禁だ」宣言をするハメになってしまう。 言われた当人もトラウマに。しばらくは居場所にいられただけに、また何か具体的に悪いことをしたのかと悩んでさらに拗らせてしまう。これといった行動が悪いわけではなく、ただ、ずっと一緒にいるのがキツい人間というのはおり、それがあなただというだけなのだが、「私のXという具体的な言動が悪かった」という風に誤って学んでしまう。実家に帰ると3日目にはイライラするのと同じ。 あきひろ.icon あらゆる人間を受け入れるコミュニティというのは、他に所属できるコミュニティがない者の最終処分場みたいなものなので、必然的に治安が最悪に近づいていくという問題はある気はしている。
(あらゆる人間を受け入れた結果、治安が悪くなっていくと、他に引っ越せる場所のある人間はどんどん移住していく。最後まで残るのは他に行く当てがない奴らだけという)(Twitterもかなりそういう濃縮が進行しているという話は過去にやりましたが)
虚しい話ですけど、あらゆる人間を排除せず、受け入れようとするコミュニティであろうとするほど、その『公共性』というのは『公衆便所』における『公衆』めいた意味へと近づいていく。これは誰かと話した記憶あるな。
うんざりするような話ですけど、万人の社会的包摂と治安との間には恐らくトレードオフがある。何者かを排除・疎外することによって成り立つ『治安のよさ』『公正さ』『優しさ』がある(もちろん排除や疎外をしたら治安がよくなるという話ではない)(排除や疎外をした上に治安のクソ悪い社会もある) moriteppei.icon 「だれでも」受け入れるコミュニティには、「どこにも」受け入れられないような人が来る。「どこでも」行ける人たちは、わざわざそんなところにとどまらないから、別の場所に行き「ここしか」受け入れられない人だけが残っていくのだが、そんな場所は維持できないのでそのような場所は潰れ、「どこにも」「だれでも」受け入れるコミュニティは消えていってしまう。 対策
番組が終了したり視聴率が大低下する前にカメラを切り替える、出演部分をカットするしかない。居場所であれば出現箇所を分散するしかないのだが、そもそも出現できる箇所が少ないのため、特定の場所に集中してしまっているのだから……以下略。
あるいは「つまらない」をネタにする、そうした機能として使う。「ちょっと一緒にいづらい人ですよね」ってことを本人が傷つかない程度に、エクスキューズとして発動させる。すなわち、周囲によるツッコミ翻訳を噛ませるしかないのだが、これは場に対する感受性、トークに対する感受性がない人からは「いじり」と混同されて否定される。ツッコミといじりの区別が現代ではますますできなくなっている。