主体
言ってしまえば、’80年代のポストモダニズム的な気分のなかでは、主体性みたいな鈍重な問題についてウダウダ考えることより、浮遊感覚のなかで消費社会的な自由を謳歌することの方が人々にとってとりわけ魅力的に映ったのではないか。しかし’90年代以降の状況のなかでそうした気分や自由は徐々に縮小していき、自意識の不安……それこそ、自らの実存の意味や主体のあり方についての葛藤が、再び身近な問題になっていったのではないか。そしてそこでは戦後民主主義的な世界観はすでに、そうした問題に対応しうる力を相当に失ってしまっていたのではないでしょうか。
もちろん、そもそも主体云々という問題設定自体がおかしい、詐欺的である、という言い方はあるでしょうけども。ただ、右翼のように国家を根拠に選ばないのならそれはそれで、自分の主体性の在り処みたいなものを何がしか模索しなければ、冷笑の無限反復や防衛的自意識から逃れられなくなる気がどうしてもします。