ニコラス・ルーマン
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ハーバーマスにとっての問題は、発達した社会システムが生活世界を制御しすぎて荒廃させてしまうことである。ルーマンにとっての問題は、そうしたことではなく、我々がいまだに、機能分化という、人類史における未曽有のカタストロフィックな変化について適切に言葉にすることができていないことの方であった。ここに再び、ルーマンの付き合いにくさの理由の一つがあるだろう。「制御」が問題なら「制御に対してどう対抗するか」といった課題を立てることができる。しかし「理解」を問題とすることからは、「理解が達成されたらなんだというのか」、「理解のあとに何をすべきか」という問いに対する回答は直接には出てこない。そこから出てくるのはせいぜい「理解による洗練」といったほどのことであって、実際、ルーマンが珍しくなにか処方箋めいたことを記すときには、多くの場合そうしたものになっている(『福祉国家における政治理論』最終章では政治文化の洗練が、『リスクの社会学』最終章においては抗争的コミュニケーションの洗練が語られている。そして、社会工学者も批判論者も等しく、このようなものを処方箋だとは認めないだろう)。「それはいったい何のための議論なのか」という問いには、あらかじめ因果図式や手段目的図式を使って議論を組み立てておけば答えやすいわけであるが、ルーマンの議論はそうなっていない。その意味でもルーマンの企図はわかりにくい。https://socio-logic.jp/lectures/201808_Luhmann.php