トマス・アクィナス『神学大全』を読む
https://m.media-amazon.com/images/I/511XBpE7TXL._SL1500_.jpg
ちなみに、『神学大全』は、全三部から構成されている本で、第一部が神論、第二部が人間論(倫理学)、第三部がキリスト論です。感情論がまとまって展開されているのは、第二部の人間論になります。第二部は更に二つの部に分かれていて、第二部の第一部は倫理学の総論(概論)で、第二部の第二部は倫理学の各論です。  そして、各部は百個くらいの「問題(quaestio)」に分かれます。更に、それぞれの「問題」は、いくつかの「項(articulus)」に分かれます。この「項」というのが『神学大全』の最小単位になるわけです。「項」の長さは箇所によって違いがありますが、だいたい日本語訳で四ページ程度です。それが全部で二六六九個集まって、『神学大全』という一冊の書物になるのです。 山本芳久. 世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義―(新潮選書) (p.49). 新潮社. Kindle 版.
まず最初に項の「タイトル」が来ます。これから読む項で言えば、「愛は感情(passio)であるか」というものですね。  次に「異論」が来ます。「異論」というのは、トマス自身の見解とは異なる論のことです。たいてい三つの「異論」が紹介されます。それぞれの「異論」のなかでは多くの場合、伝統的に受け継がれてきた重要な見解が引用されます。頻繁に引用されるのは、聖書やアリストテレス(前三八四~三二二)やアウグスティヌスの言葉です。もっとも、トマスはギリシア語を読むことはできなかったので、アリストテレスについてはラテン語訳に基づいて引用しています。ともあれ、こうした仕方で引用される言葉を「権威・典拠(auctoritas)」と言います。  その次に来るのが「反対異論」です。「反対異論」では、「異論」と対立する見解が紹介されます。論理的に考えれば、「異論」と対立する「反対異論」が必ずしもトマスの見解に近くなるとは限らないわけですが、『神学大全』では、基本的にトマスの見解と近い誰かの見解が紹介されます。「反対異論」においても、多くの場合、「権威・典拠」が引用されます。 「異論」と「反対異論」を受けて、次に来るのが「主文」です。「項」の中心とも言えるこの部分において、トマス自身の見解がまとめて述べられます。  最後に来るのが「異論解答」です。「主文」において述べられたことを踏まえると、最初に挙げられたそれぞれの「異論」に対してこのように答えることができますよ、ということが示されます。「異論解答」を読むさいに気をつけなければならないのは、それぞれの「異論」が全否定されることはほとんどないということです。そうではなく、「異論」の述べていることのなかで、もっともな部分は肯定され、間違っている部分は修正され、一面的な部分は補われ、全体的によりバランスの取れた見解が提示されるという仕組みになっています。そのさい、引用された「権威・典拠」自体が否定されるということはほとんどなく、「異論」とは異なる解釈が「権威・典拠」に対して与えられることによって、「権威・典拠」の述べていることの真理性がすくい取られることになります。山本芳久. 世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義―(新潮選書) (pp.50-51). 新潮社. Kindle 版.
第一問題 聖教について―――それはどのような性質のものであるか、またその及ぶところ如何
神学大全 第一問 第一項 哲学的諸学問のほかになお別個の教えの行われる必要があるか
神学大全 第一問 第二項 聖教は学であるか
神学大全 第一問 第三項 聖教は単一な学であるか
神学大全 第一問 第四項 聖教は実践の学であるか
神学大全 第一問 第五項 聖教は他の諸学に優位するものであるか
神学大全 第一部 第六項 この教えは智慧であるか
第七項 神がこの学の主題であるか
第八項 この教えは論議を行う性質のものか
第九項 聖書が比喩を用いるのは然るべきことであるか
第十項 聖書は一つの字句のもとに幾つかの意味を含むものであるか