セックスワーク
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セックスワークに関するTwitterでの議論、無茶苦茶レベル低い気がするんだが、そう思うのは私だけ?
まず、自分の理解だけど、結局、性産業の問題は①当事者の搾取、当事者への加害②性産業以外へ影響する性差別構造を再生産してる。この二つをフェミニズムはずっと問題にしてきたわけですよね。
で、フェミニズムってのは学問でもあるが運動でもあるので。A)「何が問題か」(①と②)とB)「そのために何をどの順序(時間的な)で取り組むか」、どちらも考えねばならない。
なので論理的には、①②どちらも問題だと考える点で意見は完全に一致しているのに、B)の解放戦略の部分で相互を激しく罵倒しあうほど意見が割れることが出てきてしまう。
多くの男性がポルノを見ていて、そこでのセックスで欲望が造られており、その欲望の多くは女性を劣位に置き、客体化モノ化し、暴力を肯定するメッセージに溢れている。だから性産業は女性差別の本丸、元凶だという見方だってできるし、してるフェミニストがたくさんいるわけですよね。
でも、ポルノや性産業はただ性差別的なのか、そこで生まれた欲望は必ず否定されなければならないのか、特殊なものだから特別な規制をしなければならないのか?となると、いろいろ問題が出てきてしまう。
まず、a)既存とは別の枠組みということになるため、別の立論が必要になる。が、これが非常に難しいということがある。「いや、だって契約だよ?双方合意でやってるし」とか言われると困るし、ポルノはあれは表現じゃない、暴力だ!と言う路線も「すっごい曖昧だよね」と言われて否定されてしまう。
次にb)そのポルノや性産業を楽しんでるマイノリティだっている、という反論が考えられる。パトリック・カリフィアはポルノ規制論者のマッキノン&ドゥオーキンに対して「そのポルノで欲情している私はクズなのか」「SM的願望を持つことが悪なのか」と批判してましたよね。
以前、某アカウントが「多くの女性が今ではフェラを楽しんでる」と書いたら、ものすごく多くの批判がなされていた。あれを「女性は嫌いじゃないよね」と無条件で前提するのはおかしいが、愛好している女性が少なからずいても不思議じゃないし、男性を勃たせるときこそ自らが主体となっているのだ!私はフェラ大好き!といったフェミ的アジビラだって書けるのだが(『わたしは最悪。』という映画でまさにそのような描写が出てくる)こうした事例からもわかるように、欲望を問題にすると「正解がなくなる」。
正解がないからこそのリベラリズムであり、リベラリズムの不偏不党性あってこそのバイアスをフェミニズムは撃っているのだから、非常にややこしいところなのだが、こうした話も、Twitterではただ党派に分かれて敵陣を罵倒するだけに終わってる。
要するに「性産業は性差別の元凶か」に対しては、a)b)といった問題があるため、結構路線として難しい。他方で、②の問題ばかり扱っていると、①の問題が置き去りにされてしまうという別の問題もある。
性産業は悪だ!と叫んでる出身階層高い学者先生は論文がいくらでも書けていいかもしれないが、その間、ずっと具体的な暴力にさらされつづける性産業従事者は何も救われない。悪く言えば「論文のダシにしてるだけ」とも言えてしまう。
そこでa)やb)の問題とは別のルートで、②にはあえて踏み込まず、①から解決していきましょう!という流れで出てきたのがセックスワーク論だと自分は理解している。
「あ、いや、金もらって働いてるんで。労働者っすよね。ってことは就業中に暴力があればそれって労災になりますよね?」「契約にない接触や性的言動はすべてセクハラですよね?」などと、既存の枠組みをそのまま上手くリサイクルできるし、就業者の安全をとにかく最速で確保できるのではないかと。
実際、コロナ給付金、セックスワーカーには給付されなかったり、労働者としての差別があるのはもう間違いがない。また、犯罪化した場合には地下に潜ってさらに暴力が助長されるのが明らかなので、合法化するほうがいいという論拠もある。
セックスワーク論がおもしろいのは、これ、この通りに性産業の労働環境が改善されれば、ポルノの内容も変わっていかざるを得ないってこと。
要するに①の問題から解決することで②の問題を実は間接的に解決しようというのがセックスワーク論だと理解している。B)の戦略として①から②!って順序を取るってことね。
なので、実はA)の「何が問題なのか」と言う問題にもコミットしてないのも運動的に優れている。
現行のポルノはすべて悪!!風俗は性差別の温床!と思ってる人でも、戦略的にセックスワーク論に加担することだって論理的にはできるはずだし、説得力もあるはず。
ただ、これらすべてに反対している人たちは、おそらくこうしたセックスワーク論は「日和見」にも見えるというか、結局、性差別的であるポルノや性産業を認めている、おすみつきを与えていると考えているんだと思う。
そもそもポルノやセックスワークはこの世にあっていいものではない、んですよね。
でも、これをこのまま主張すると相当強い主張になりかねないので、本質的に性産業がいかに暴力的か加害的か差別的かを、実際のワーカーの体験から論じていくんだと思う。
ところがTwitter見てたら「セックスワーカーは望んでやってるかそうでないか」なんて「議論」をしてる。そんなの「人それぞれ」としか言いようがないし、どういう条件であれば「望んでやってる」と言えるのか自体が大変難しい問題を孕む。
ワーカーが「望んでやってます」「プライド持ってます」「楽しいです」と言っても「言わされてんだよ!」「そう言うしかねえ状況だろうがよ!」と言われればそうとも言えてしまう。
そうした不毛な議論=性産業の是非ばかりで、実際のワーカーの権利が置き去りにされてきたことの反省から出てきたのがセックスワーク論だろうに、また元の同じような話をしてしまう。
議論をするのであれば、相違を罵倒する前に、同意を探ることもできるはず。たとえば現状の性風俗の状況はまったくよくないだとか、性産業自体が性差別的ということにはどちらの立場でも同意できるかもしれない。
ところが罵倒が仲間を呼び、その仲間が罵倒をするループになってしまっている。......ということをSNSで指摘でもしようものなら、「ポルノでマスかいてるオスは黙ってろ!」「ソープ利用者黙れ」のように言われるだろうから、性産業従事者でもない男性がむやみに入ってよい話題だともまったく思わないのだが、入らないなら入らないで「問題を女性に押し付け、対立構造を眺めてる」「いっこうに改善しない世の中を尻目にポルノや風俗の悦楽を享受している」ってことになる。
正解としては「少しずつでも真面目に知って考えようとし、決して問題を放置しないが、安易にSNSで意見を出さない、出すのにも慎重になるべき」みたいなところに落ち着くのかなと.....
以上のまとめは適当なざっくり森の「見取り図」でしかないので、いや、ここがおかしいですよという人、どんどん補足、批判してくれたらありがたいですね。
これはいい本なんだけど、古いんだよな....と思ったけど、出たの、2018年か!