アンブレイカブル
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大爆笑しながら見たのだけれども、大笑いした後で急に怖くなってきた。というのも、これはひょっとして笑って見る映画ではないかもしれない、という可能性に気づいてしまったからで、ひょっとするとひょっとして、こんなものを 真顔で鑑賞してしまってる人たちもまさかいる、というかそちらが「大多数」なのではないか。そんなわけがないはずなのだが。そう思わされてしまう映画。リアリティのレベルが「どこ」に設定されているのか、ふわふわしていてなかなかつかませてもらえないのだ。 ストーリー、というか、話の骨子は相当単純で、ブルース・ウィリス演じるデイヴィッド・ダン(おそらくはとんでもなく平凡な名前、って含みがあるんだろう)が乗っていた列車が死者130人の大事故に遭う。のだが、なぜかデイヴィッドだけ死亡どころか一切無傷で生還する。他方でサミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャ・プライスは生まれながらにして両手足を骨折。以来、何度も骨折を繰り返し(生涯90回。とかだった。適当。覚えてない)、友人からは「ミスター・ガラス」とあだ名される少年になる。そんなイライジャ少年だったが、ある時、母親から「プレゼント」をもらう。それはアメリカンコミックで、入退院を繰り返すイライジャにとってはこれが唯一の喜びとなっていく。 アメコミばかり読みまくったイライジャは、いつしか「ある信念」にとりつかれるようになる。「世の中はバランスを取って成り立っている。自分はこれだけの虚弱体質。ということは他方でもう一方の極の人間、一切ケガも病気もしない人間がいるのではないか」。そんな中、列車事故のニュースから無傷の生存者がいることを知ったイライジャはデイヴィッドへの接触を試みて......。 長々と説明したが、要するにアメコミばっか読んで成長した大人が「おれってアメコミの登場人物なのかも??」と思い込み、その現実を確かめようとする話なのだが、それをしみったれて辛気臭い、もったいぶった語りと、鏡や反射を使ったこりっこりのカメラワークで「もっともらしく」見せてしまう。もちろんのこと、森は映画に一切詳しくないので、このM・ナイト・シャマランという監督がどういうこと考えてて、何をしたいのかなどはまったく知らないのだが、これがこの監督のおそらくは持ち味なんだろう。「本当かどうかわからない」と「本当なわけないじゃん」のふわふわしたあわいを描くのが絶妙なのだ。 「本当なの?本当じゃないの?どっちなの?」。そこにとらわれてしまうと「なんだかよくわからない」になる。「あれ、どっちだったの?わかんなかった」「何したいのか全然理解できんかった」というわけだ。だけれど「どっちかよくわかんない」のが答えなんだから「"どっちかよくわからない"が上手く描けてる」とそのままとらえればいいだけで、本当は何一つ難しいことはない。そうなれば、むしろ「超シンプルな話をもったいぶって何やっとんねん」というツッコミさえそこには生まれるし、「本当なわけない」チープでダサさしかない「ふざけてんのか?」って映像を「本当だと信じ込んで真剣に険しい顔で見てる」人がいるこの状況自体がたいそうおかしく、腹を抱えて笑える構造になっている。
たとえていえば、というか、それがこの映画のテーマそのものなのだが、いわゆる中二病、「フィクションと現実の境が理解できなくなったオタク」である。「クッ、オレの左手に封じ込められし竜が......」って言ってる人が仮にいて。そいつが世界に起こる出来事をすべて自分の秘められた能力の証拠だと信じ込むように解釈していたらどうだろう。本人は真剣。だが、他人から見たらただただ滑稽、クソバカらしさしかない。けれども辻褄は合う。なぜなら論理が突飛すぎる上に、その論理を可能にする「信じ込み」の力がハンパないから。辻褄なんてもんは思い込みさえすれば合ってなくてもいくらでも「合う」のである。ネトウヨ見てればわかるでしょ。 「左手に封じ込められし竜」なら「バッカじゃね」と笑うだろうに、「デイヴィッドはケガも病気も一切しない超人かもしれない」という思い込みには「でも、本当かもしれない」「本当だったのだ」と人は簡単に信じ込んでしまう。われわれは「中二病」を、ネトウヨを、実はそう簡単に笑えない。先日、エマ・ドナヒューの聖なる証を読んだのだが「4か月間、何も食べずに生きる奇跡の少女がいる」と言われれば、そしてその「証拠」を語りが積み上げていけば、「本当かもしれない」と「ウソに決まってる」の間を読者はフラフラしてしまうのである。 作中、デイヴィッドがアンブレイカブル、つまり「ケガも病気も一切しない超人」だと信じようとする人は二人いる。デイヴィッドの息子ジョセフと、ミスターガラス、つまりイライジャである。
イライジャのアンブレイカブル仮説を聞いたジョセフは、自分のパパがスーパーヒーローであってほしいと思い、父親を銃で打って「確かめ」ようとする。「んなわけないじゃーん」「なのに何シリアスに語ってるんだよ」と笑ってみていたら、イライジャの信念に取り込まれたジョセフの突然の暴走に思わず固唾を飲むことに。「いいから早く撃ってくれ。そうすればデイヴィッドが本当にアンブレイカブルか確認できる」という真実を知りたい気持ちと、「撃ったらデイヴィッドが死んでしまう。殺さないで!ジョセフは人殺しにならないで!」と祈る気持ち。視聴者はこの2つの気持ちの間で見事宙吊りにされる。素晴らしいシーンだ。
最終的にデイヴィッドと妻オードリーの必死の説得が功を奏し、ジョセフは銃を置くのだが、その瞬間、視聴者は「ホッとした」はず。「ホッとした」ということは「デイヴィッドはアンブレイカブルなんかじゃない」とわかっているのである。が、その後も「証拠」を並べられると「やっぱりデイヴィッドはスーパーマンなんでは?」と思ってしまう。ここでの「確かめたい」「確かめよう」と思ってしまう、考えてしまう気持ちは、実は拳銃を撃とうとするジョセフとそっくり相似形になっていて、ここにこの作品の批評性が宿る。
映画レビュー / moriteppei.icon「あと少しで感想書きおわるところだったんだけど、体調崩してそのまま。あとで書く。」