わたしは最悪。
https://gyazo.com/65f7525cf701b53174330a9f284d829b
最悪、だというのは勝手な理想化を施されていない、という意味だから、そういう意味では「最悪」でもなんでもないし、その「最悪」とは他の多くの女性が共感する最悪なのだから全然最悪じゃない、とも言えるが、「何をしても長く続かない」「男を次から次へ取っ替え引っ替え」「次の男に会って仲良くなってから、別れたいのと切り出す」あたりが、行動としてだけ見た場合、最悪、と言える。
フェミニズムへの言及は明確には二箇所。主人公ユリアがブログに記事を投稿するシーンと、アクセルがラジオ討論?でフェミニストと対峙するシーンの二箇所。
後者は特にだけど、フェミニストをある面で「行きすぎれ「論理性が欠如してる」ようにも描いている。主人公は男根を固くするのがセックスで一番好きで、だからそんなオブセッションがいくつか出てくる。
この女優さんが大変素晴らしく、シーンごとに顔や印象がまったく違うから、最初、え、これ、誰?みたいになった。ブサイクな時はブサイクに、可愛く見える時は可愛く演じられてる。ここは見事。
主人公には父親との確執があり、妊娠への強い恐れがある(自分のような飽き性の人間が子育てできるとは思わない)。この後者については、ブーイングされそうだが、率直な感想を言わせてもらうと「なぜそこまで不安になる??」だったし、前者に対しても「これだけの描写じゃあとは想像で埋めてかないとそこまで問題視する意味がわからないな」という感じで。後者については、これは森が男性なのでやっぱり「軽く考えすぎてる」んだろう。前者についてはむしろそれぞれがそれぞれの状況を補足しやすい描写になってるんじゃないか。
別れ話中に盛り上がってセックス、終わった後フルチンフニャチンで立つアクセルのシーンがよかった。あと、これ、みんな気づいてる、というか、そういうふうに見るものなのだろうか。なんかベタで、マジに見てそうで怖いのだが、大恋愛や等身大の恋愛、いずれにせよ何か感動的な思い出の恋愛、のような映画【ではない】のだよな。
アクセルは途中膵臓がんにおかされ余命宣告を受けるのだが、それ聞いてアクセルに会いにいくユリア。人の生き死にがかかってる状況でも、人は生きる。だから振る舞いや思いが言ってみれば二人とも非常にゲスい。
妊娠して不安なので、アクセルから肯定だけしてもらおうとするユリア。もう死ぬから今とても大変だからとユリアに戻ってきてもらおう、なんならセックスさせてもらおうとするアクセル。アクセルの病室で彼と寝転ぶユリア。そこでアクセルがおなかに当てていた手(!!)を胸に乗せると、それをさっと戻すユリア。大好きなシーンだ。
結局、人が死の淵にたっても男は女とそういう関係になることを望んでいるし、女は自分の自尊心だったり現在を肯定してくれる彼氏以外の都合のいい存在であることを望んでる。これは恋愛関係周辺、カップリング感情辺縁の、ある種普遍の真理だなと思った。
最後にカメラマンとして独り立ちするユリアだけど、あれもアクセルの死後写真集を実績にしてですよね???
女って汚ねえなあ、男って汚ねえなあ。人間って汚ねえな。終局どこまでいっても「コレ」かぁ、というのをガツンと突きつけられたという意味で、笑ったし、感動したし、いい映画だったと自分は思うんですが、これってひょっとしてかなり意地悪な見方というか、みんな、えっと、まさか、あれでベタに泣いたりはしてないですよね??映画よりも他の視聴者の心がわからんす。
環境改善運動やフェミニズムに対してあれだけ批評的な、「おもろいやろ?」「なんな極端なんってあるよな?」って視点を取るような作り手が、【映画じゃあるまいし】、そんな映画を喜ぶ愚かな聴衆相手じゃあるまいし、かっての恋人にくだされた死の宣告!みたいな話をストレートにしてるわけないじゃん!と思うのだが……。
これ、ユリアが出ていかなければ病気しなかったかもしれないし、してもすぐ気づいて命に別状なかったかもしれない、もっといえばユリアが出ていったストレスで病気なったかもしれないんだよな。他方で「あのまま付き合ってたら未亡人になってた」「別れてよかった」みたいにも読める
あと、マジックマッシュルームの描写や急な停止映像。あれ、よかったですね。全12章とエピローグと言われ2章のとこで「トイレ行きたい」だったので絶望したけど笑
あと、この主人公、「わたしは最悪」だなんてこれっぽっちも思ってないですよね。思ってたら「最悪」でもないだろうし。原題は、worst personインザワールドですか。原題、ではないか。元はフィンランド語だし。いずれにせよ、「私は」なんて一言も言ってないんだよな。「彼女は」最悪。かもしれないのに「わたしは」にしてしまう。これだけで「わたしって最低」という自認に浸る女性を前提としてしまう。もうちょっと本当は「つきはなしてる」のではないか?
フェミニズムの描写、それもかなり戯画的な描写があるのもポイントで、それとの対比で「性差別的なコンテンツを生み出す男とのラブロマンス」という実際とフェミニズムとの乖離、納得のいかなさを描いてる、とも言える。これ、昨日、飲み屋で会った隣の人がなんか「そうじゃない」って感想だったので、自分の読みに自信がなくなってる。
なんかもっと「よい」「共感する」「感動する」に振れた理解だったから。自分はもっと文学的に理解してしまっており、「ま、女も男もこんなもんよ」という。実際の活動を少し離れたところから客観で描く、でも「こんなもん」って愛しいよな?って感じを得ました。
2022年9月30日