『安楽』への全体主義
それは、私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動きである。苦痛を避けて不愉快を回避しようとする自然な態度の事を指して言っているのではない。むしろ逆に、不快を避ける行動を必要としないで済むように、反応としての不快を呼び起こす元の物(刺激)そのものを除去して了いたいという動機のことを言っているのである。> 藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5234-5237). Kindle 版.
今日の社会は、不快の源そのものを追放しようとする結果、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対極として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5258-5261). Kindle 版.
単に苦痛や不快を避けるのではなく、そもそもそれらとあらかじめ出会わないようにするのが「安楽」の追求。
むろん安楽であること自体は悪いことではない。それが何らかの忍耐を内に秘めた安らぎである場合には、それは最も望ましい生活態度の一つでさえある。価値としての自由の持つ第一特性である、他人を自由にし他人に自発性の発現を容易にするからである。しかし、或る自然な反応の欠如態としての「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心価値となって来ると事情は一変する。それが日常生活の中で四六時中忘れることの出来ない目標となって来ると、心の自足的安らぎは消滅して「安楽」への狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立った不安が却て心中を満たすこととなる。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5265-5271). Kindle 版.
「安楽」追求が唯一の価値になってしまう。「安楽」でないと気が済まなくなりむしろそこから苛立ちや不安が生まれる。
こうして能動的な「安楽への隷属」は「焦立つ不安」を分かち難く内に含み持って、今日の特徴的な精神状態を形づくることとなった。「安らぎを失った安楽」という前古未曾有の逆説が此処に出現する。それは、「ニヒリズム」の一つではあっても、深い淵のような容量を以て耐え且つ受納していく平静な虚無精神とは反対に、他の諸価値を尽く手下として支配しながら或る種の自然反応の無い状態を追い求めて止まないという点で、全く新しい新種の「能動的ニヒリズム」と呼ばれるべきであるのかも知れない。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5271-5276). Kindle 版.
安らぎを失った安楽というパラドクス。めんどくさいはめんどくさいを呼ぶみたいな話で、不快を許さないようにするとちょっとした不快ですら許せなくなる=耐えられなくなってくる。
しかし、次々と使い捨てていく単一効用を「享受」する楽しみは、そういう自然な接続の内にあるものではない。事の性質から見て当然のことであるが、それはただ一回的な「享受」に過ぎない。次の瞬間にはまた別の一回的な「享受」がやって来るだけである。時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない。かくて苦しみとも喜びとも結合しない享受の楽しみは、空しい同一感情の分断された反復にしか過ぎない。その分断された反復が、激しく繰り返されればされる程空しさも又激しい空しさとなってますます平静な落着きから遠ざかっていく。此処にも又「能動的ニヒリズム」が顔をのぞかせているようである。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5299-5305). Kindle 版.
全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会は、このようにして、「安楽への隷属」を生み、安楽喪失への不安を生み、分断された刹那的享受の無限連鎖を生み、そしてその結果、「喜び」の感情の典型的な部分を喪わせた。そしてその「喜び」が物事成就に至る紆余曲折の克服から生まれる感情である限り、それの消滅は単にそれだけに停どまるものではない。克服の過程が否応なく含む一定の「忍耐」、様々な「工夫」、そして曲折を越えていく「持続」などの幾つもの徳が同時にまとめて喪われているのである。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5312-5317). Kindle 版.
リズムとは、半世紀以上も前に或る哲学者が下した鮮やかな定義によると、「或る繰り返しの枠内で違いが運ばれていくこと」に他ならない。強弱や長短や濃淡や緩急や集散や昇降や苦楽や……等々の起伏の相違が、何らかの繰り返しの枠の中で、すなわち幅のある一貫性の中で運ばれていくこと、それが一言でいうリズムの存在なのである。藤田省三セレクション藤田省三 (Kindle の位置No.5325-5328). Kindle 版.