文章が上手いという呪い
文章をほめられた人が、文章で評価されることを強く求めちゃって、それがコンプレックスになってる(認められたくて認められなくてストレス)、って人が周囲に結構いて。ぼくはお世辞で褒めることはなく(褒めろよ!)いいなと思ったらいいなと言うのだが、そんな自分から見ても「すっごい文章上手いじゃん」「読ませるじゃん」って人がいる。でも、なかなか評価されない。カネにならないし、フォロワーや読者が圧倒的に増えることもない。そのことを本人が重荷に感じちゃってたりするみたい。
でも、評価なんてされなくてよくない? そういう人に共通なのは、何がよくて、何がよくないか、その評価がなんか外在的なこと。文章なんて、まあ文章に限らずアウトプットなんて、まずは自分が見て/自分の基準でいいか悪いかではないだろうか。
たとえば自分の場合、書いたことがおもしろいかおもしろくないかは自分でわかるんだよね。自分で書いたものでもおもしろくないと自分が思うものはあるし、おもしろいと思うものもある。書いたあとは書いた内容を、なんなら書いたことすらマジで忘れるので、たまに自分の過去の記事を読むと「こいつめっちゃおもしろいこと書いてんなー」ってなったりする。逆に自分で書いてるけど「おもんなw」と思ってることもある。おもしろさとバズりの四象限マトリクス参照。 自分にとっては文章で他人から評価されたいって気持ちがマジで皆無なんだよね。むしろセンスないやつやおもしろがわかってないやつから的外れに褒められるくらいなら、自分もおもんないと思ってる自分の記事を「森さんのあれ、おもんなかったっすねw」って言われたほうが「それなw」ってなる。
そもそも現代社会って文章に限らず、アウトプットをいくらでも容易に、いくらでも好きなようにできるのがめっちゃいいことなのに。
逆に読者なんてバカなんですよ。ほとんどの読者はバカで、いいものと悪いものの区別もついてない。だから、基本他人が「いい」と言ったものを無難に「いい」と思いこんでるだけです。
一部の人間は「いい」と「悪い」をきちんと区別できます。でもこういう人はごく一握り。そしてほとんどの人たちが、こういう目利きの人が「いい」と言ったものを「いい」と言ってるだけで人生を終えます。それでいいんです。
もし本当に売れたい、たくさんの人に読まれたいというなら、①目利きの人の目に引っかかるようにする、もしくは②目利きでないバカにも届くようにする。どちらかしかない。それ相応の、文章とは別のところでの努力がいるんです。
でもそんなことなんでしたいんですか? 文章でメシを食っていきたい、とかならわかるんですけど。