対話の暴力性
実質的には平等ではないのに形式上は「ルールに従った対等なコミュニケーション」だと錯覚させ、実際にある不均衡を隠蔽する
答えを問いに引き戻す
本来であればとっくに答えが決まっていたり、疑うべきことではないことを「未決の争点」として何度でも問いに引き戻すことができる
例:アウシュビッツ否定論、セクハラ是か否か
対話のアジェンダ設定において「問うこと」を特定の方向に誘導する。
例:トランスジェンダーの女性スペースの利用は是か否か。
「問う」こと自体の暴力性
あるものにとって「ただの問い」は他のあるものにとっては「生存をかけた異端審問」になりうる。
性被害や在日特権といったテーマ
対話型ワークショップのような
そういう人って、対話って(自分のような)ファシリテーターと、事前の適当な「場のデザイン」があれば「成立する」と思ってそうなんだよな......。
でも本当は、場をつくった時点で、特定の人が対話から排除され、ある種の問いは問い返すことが非常に難しくなり、それなのにその場で何も決定や決断がなされなくても、空気のように「なんとなくの一致点」が無責任に発生し、参加した人たちに「対話した」というなんとなくの満足感だけを与えていってしまう、大変政治的で無責任で悪質なアクティビティなんですよね。