図は文章にしろ/ 文は図示しろ
たとえばA型で図解すると、一応はいかにもわかったような気がする。 ところが、 図解の意味を口のなかでつぶやいてみるとときどき説明がつながらず、 行き詰まる。そのときに図解の誤りを発見し訂正するきっかけができる、ということは暗示的である(「III発想をうながすKJ法」参照)。なぜなら、 つぶやくということは、一種の鎖状発展の関係認知法だからである。 また、つぶやきとか会話と同様に、文章を書くというのも、その鎖状発展である。 さらに数式なども、一種の文章にほかならない。したがってB型で文章化したならば、 図解のときにもっともだと思った理解のしかたについて、ときどき誤りを摘発することができるわけである。 逆もまた真である。 文章を書くとたいへんもっともな意見のように思われ、自分自身も他人も瞞されるけれども、 その考えを図解してくれといわれると、 はたと行き詰まることがある。このように、 図解と文章化とが相互にチェックしあう力をもっていることも、この二つの方法がもともと別種の能力に基づいており、さらにその上である種の連合を生じていると解すれば、 まことに自然なことであろう。川喜田二郎 発想法 改版 (p.10). Kindle 版. 125ページ
それでは一方的に、 文章化の方が図解化よりもものごとの関係認知の方法としてすぐれているかといえば、けっしてそうではない。 文章化は今のべた点で図解化にまさるかわりに、ものごとを前から後へと鎖状にしか関係づけられないのである。 この点は、 「話す」 こととも共通である。古来、後から前へと話した人はない。 また後から前へと書かれた文章は、暗号以外にはあるまい。 じっさい文章にするといかにももっともに思えたことを、逆に図解化してみると、 その誤りとか欠陥に気づくことがしばしばあるのだ。 それゆえ図解化と文章とは、ひとしく関係認知の方法だといっても、その性質がちがうのである。このちがいのゆえに、この両者は、互いに他方の欠陥を補強する力を持っているのである。 川喜田二郎 発想法 改版 (p.10). Kindle 版. 100ページ
図解と文章化とを対比してみると、 図解の長所は、瞬時に多くのものごとのあいだの関係が同時的にわかることである。この長所は文章とか会話にはない。 しかし他面、図解のなかのものごとのあいだの関係は、「関係がある」ことはわかっても、 その関係の鎖の、メカニズム(たとえば因果関係)、性質、強さなどは、 かならずしもあきらかではない。 もちろんこれらの関係のメカニズム、性質、強さなども、 わかってからあとでは図解上に表現することはできる。 それにもかかわらず図解化という手続きは、それを鮮明にあきらかにするためには最適の方法ではない。 すくなくとも、文章などに劣るのである。 川喜田二郎 発想法 改版 (p.10). Kindle 版.100 ページ
ここで文章化についての重要な問題を指摘したい。バラバラの紙きれを図解すると、 われわれは一見ものごとの相互関係がよくわかったように思える。 しかしそれをさらにB型で文章化すると、ときどきわかっていたはずの話がうまくつながらないという経験をする。 図柄の上では関係が深いかのように線でつないでみて怪しまなかったのに、意外なことに文章化するとその文章がつながって叙述できなかったという行き詰りの生ずることが、しばしばある。 これは困ったことに相違ない。にもかかわらず、このように困ったときこそ、 じつはその結果新しい発想が飛び出すときなのである。 つまり 「このように図解したのは誤りであった。 改めてこのように図解を改訂すべきであった」 ということを、 せっぱつまって発見するのである。このように、まず文章化は図解のもっている弱点を修正する力をもっている。 もっと平たくいえば、その誤りを見破って、発見し、かつ修正の道を暗示する力をもっている。 これが一つの経験的に重要な点である。川喜田二郎 発想法 改版 (p.10). Kindle 版. 99ページ
文章でやたら書く人(簡単に言うと文章が長い人)には「ペライチの図でまとめて」
図でそれっぽいパワポ資料にしてくる人には「同じこと言語化するとどうなる?」