セブン(映画)
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自分はこういう映画が一番ダメ。個人的に「残虐な殺害シーン」がとにかく苦手で......。皮を剥がれたとか、性器に刃物をブチこまれたとか、鼻を削がれたとか......そうした描写が何度も出てくるのだが、それが耐えられないんですよね......。でも個人的な「苦手」は決して作品としての質の低さや低評価を意味しない。逆だ。作品の質は「素晴らしい」の一言。とにかく脚本、そのディテール、細かい伏線が見事。何気ない会話が、何気ない会話のほうがぜんぶ後に効いてくる。 実は本筋というかラスト自体は、よっぽどボーーっと見ていなければ「何が起きるか」だいたい予想がつく。
以後ネタバレしまくるので気になる人は見ないでほしいのだが、暴食(gluttony)、強欲(greed)、色欲(lust)、憤怒(wrath)、怠惰(sloth)、傲慢 (pride)、嫉妬(envy)の7つの大罪に見立てた7つの殺人が7日間で行われる。モーガン・フリーマン演じるウィリアム・サマセット刑事と、ブラッド・ピット演じるデビッド・ミルズ刑事は犯人を突き止め、事件を解決できるのか?くらいの筋だ。 7つの大罪へのなぞらえ殺人で、これは『セブン』というタイトルの映画なのだから7人まで死ぬのはほぼ確定だし(少なくとも6人までは死ぬだろう)、2人の刑事の捜査自体もわりかしポンコツで、犯人がワザと残してくれたヒントを元に犯人を追跡しているが、そのおかげで次の犯行が明るみに出るのも高知能で計画性の高い犯人の思い通りなのだから、ゲームをコントロールしているのは完全に犯人のほう。日曜日になっても被害者はまだ5人、その段階で犯人から自主してきて逮捕されてるのだから、最後で2人死ぬか、1人だけ死んで食い止められるかくらいの状況になるのは、多くの視聴者にとってはだいたいわかってる。
さらに映画の中盤ではミルズの妻のトレイシー(グウィネス・パルトロー)がウィリアムに妊娠したことを相談する。この時点で「ああ......」である。広げられた風呂敷は映画が終わるまでにはすべて畳まなければならない。このシーンを「わざわざ入れる」ということはどういうことか。残りの二人で誰が殺されることになるのか、だいたいわかってしまう。 しかしこの「被害者が誰かだいたいわかってしまう」は作品の欠点ではない。逆だ。「トレイシーが殺されるんだな」とわかっているから、映画を最後まで見てどうなるか知りたい=「結末が早く知りたい」とはやる気持ちと「その時が来てほしくない」=「結末が来ないでほしい」という気持ち、この2つの極端に視聴者は引っ張られ、宙吊り=サスペンドされる。だから、後半、あの長い長いタメ、ひっぱりがあっても、視聴者は見るのをやめられないどころか、スクリーンに釘付けにされてしてしまうのである。
途中、ミルズはウィリアムに「銃で撃たれたことはあるか」と聞く。このシーンも上手い。ウィリアムは幸いその経験はないといい、「銃を抜いたことは3度だけだがある。発砲したのは一回だけだ」と答える。ウィリアムがミルズに同じ質問をすると「撃たれたことは一度もないが、撃ったことなら一度ある」とミルズは答える。何気ないささいなやり取りだが、これがあるのとないのではまったく話が変わってくる。リアルな刑事はそんなに銃を簡単に撃ったりはしない。だからラストでのミルズの「撃つべきか撃たざるべきか」の決定が安易なものではないという、非常に優れた説明になっている。
犯人輸送中のミルズと犯人との会話。これもすごい。ミルズは一度犯人を追跡中に取り逃し、逆にやられて顔を殴られて倒れている。そのことでミルズを挑発する犯人。「私はお前のツラをブン殴った」「わざと殺さなかったんだ」「情けでな」「鏡で顔を見るたびに思い出すがいい」「今後一生......私のお陰で救われたこれからの一生を」。
大枠では犯人の思い通り、すべて犯人の書いた筋書き通りに話が進む本作だが、未来を変えることができる分岐点が実は2つだけある。1つはミルズと犯人とのチェイスシーンだ。ここで犯人を捕まえることができてさえいれば.....その後トレイシーが殺されることはなかった。先述したミルズと犯人との会話には、この「あったかもしれない分岐点」をもう一度視聴者の心に思い起こさせるという意味、効果がある。
もう一つの分岐点は、最後、ミルズが犯人に発砲するかどうかである。発砲さえしなければ我々の勝ちだとウィリアムは言う。ここでも、先の会話が効いてくる。犯人にこれだけ挑発されてもミルズは我を忘れきったりはしない人間なのだ。一見ミルズは無鉄砲で短気、直情型の人間のように見える。そう描かれている。だが、ミルズは、たとえ挑発され少しは激しても最終的には自分をコントロールすることができる、抑制の効いた人間だとこれでわかる。そんなミルズだからこそ、最後で憤怒 wrathに飲み込まれてしまうか逆にそれを抑え込むことができるのかという緊張が生まれるのである。
完全に犯人の思い通り、シナリオ不可避なら、たしかにその計画性に圧倒はされるが視聴者としては「そうか。ここまで仕組まれていたんじゃ仕方ないな」という気持ちになってしまう。けれども、分岐点は「あった」。そうならない可能性もあったし、それはミルズが「なんとかできた」ことかもしれないという可能性を、細かい会話のやり取りで(再)提示しているからこそ、後味の悪さ、後悔が残るのである。
そして何よりミルズとトレイシーの家でウィリアムが一緒に食事をするシーンだ。ミルズは不動産屋に騙されて、5分に1回地下鉄が通り振動するような部屋に住んでいる。このシーンは話の本筋にはまったく関係がない。けれども完全に満たされた、何不自由なく上手くいっている、ミルズ夫妻がそうした幸せな主人公だったとしたら? そんな主人公に妬み envyを持ってしまう犯人側に少しだけ感情移入しすぎてしまうのだ。ミルズ夫妻はすべてがそろっている完全無欠の夫婦ではない。確かに二人は愛し合っているし、子どももできた。けれども満足の行かない環境で、不自由な住宅事情にありながらも、日々を一生懸命、前向きに生きている、我々と同じ人間なのだ。
とまあこんな感じで、本作、本筋は読めたとしても、それを活かすディテールが、ディテールこそがめちゃくちゃ巧みで、作品の完成度、素晴らしさをこの上ないものにしている。一番苦手なタイプの映画なのだが、それでも楽しめてしまうのには理由があるのだ。