風が強く吹いている
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初めての三浦しをんさんの本。
600p超えのかなりボリューミーな小説だが、あっという間に読み終えることができた。
箱根駅伝の話で箱根駅伝についてなにも知識はなかったけど、次の駅伝をちゃんと見てみたいと思えた。
”走る”小説なので読んでいて、とても走りたくなる。
時々青春も入る。
何と言ってもタイムの競い合いをする競技なので、ハラハラしながらページを捲ることになる。
なにか自分にとって勇気をもらえるようなそんな小説でした。
いまとなっては、誰が何をいうわけでもないのに、走は毎日トレーニングを欠かさない。身についた習慣だからだ。ゴミを道に捨てることも、どうしてもできない。いけないことだと、幼い頃から言われてきたからだ。
清瀬が走を竹青荘につれてきたことへの疑念がまたもやこみあげ、嫌な気分になった。走はもう、記録のために走らされたり、チームメイトの嫉妬や競争心に振り回されたりする世界とは、できるだけ無縁でいたかったのだ。
「そう、駅伝。目指すのは箱根駅伝だ」
「そして、走がアオタケに来た。十人揃ったんだ。箱根は蜃気楼の山なんかじゃない。これは夢物語じゃない。俺たちが襷を繋いで上っていける、現実の話だ!」
清瀬の「投降への呼びかけ」は、走に対しても無言のうちに続いていた。このところ毎日、夕食に酢の物が出るのだ。しかも走の小鉢にだけ、たくさん入っている。走は昨夜もいやいやながら、ワカメときゅうりの酸っぱい和え物を飲み下した。清瀬の計画への参加を表明しない限り、酢の物攻撃は続くのだろう。
誰かと一緒に走るのは、ずいぶん久しぶりだ。だけど結局、一人になってしまう。速度とリズムは誰とも共有できない、自分だけのものだからだ。
清瀬は基本的には、住人たちの好きなように走らせていた。練習の方針を丁寧に伝え、必要とするものに少しアドバイスするだけだ。そうやって巧みに、住人たちのやる気を引き出す。走は魔法を見るような気持ちがした。強要せず、罰則を設けず、走る気になるまで執念深いほどじっと待つ。そんなやり方があることを、走はこれまで知らなかった。
「いいか、過去や評判が走るんじゃない。今の君自身が走るんだ。惑わされるな。振り向くな。もっと強くなれ」
よくわからない。でも清瀬は、走を信じると言った。
ずっと凍りついたままだった胸に、小さな火が灯ったのを感じる。それは走の中でいつも渦巻いている暴力の奔流をせき止め、走を暗い場所へ駆り立てる誘惑の声を遠ざける。清瀬の言葉は、静かな力に満ちていいた。走の中の怖れと怯えを吹き払うかのように。
竹青荘の住人たちに合わせて夢物語を追っているうちに、自分がどんどん速度の世界から取り残されてしまうのではないかと、走は怖くなった。
「すみません、ハイジさん」
「きみが謝る必要はない」
やっぱり怒ってるのかなと思い、走は逡巡してから、言葉を選び直した。
「ありがとう、ハイジさん」
「どういたしまして」
カーブを曲がって、人影が現れた。葉菜子は思わず絶叫した。言葉にならない。
走だった。
藤岡は強い。走りのスピードも並ではないが、それを支える精神力がすごい。俺がただがむしゃらに走っているときに、きっと藤岡は目まぐるしく脳内で自分を分析し、もっと深く高い次元で走りを追求していたのだろう。
「八位、寛政大学」
空耳かと思った。キングが飛びかかってきた。清瀬が珍しく前回の笑顔で両手を空に上げた。ムサと神童は、ヘナヘナと芝生に腰を下ろした。ニコチャンとユキがハイタッチを交わし、双子と葉菜子が喚きながら、走の体じゅうをはたいた。
もみくちゃにされながら、走は見た。掲示板に「寛政大学」の文字が燦然と輝いているのを。王子が輪の外で、一筋の涙を流したのを。
それから後、チームの存亡などは、箱根駅伝を走る瞬間に考えるようなことではない。
一番最初に、東京都箱根を駅伝で往復しようと考えつき、実行にうつした人々。彼らはきっと、走ることが好きだったから、そうしたのだ。チームがどうなるか、次の年も同じようにレースが開催されるか、何も保証はなかった。それでも、走ることに夢を感じだから、箱根駅伝を始めずにはいられなかったのだろう。走りに共感するものたちが、後に続くと信じて。
仲間という言葉に、走の心は揺らいだ。幸せな夢を見ている途中で、急に肩を掴まれて起こされたみたいに。まだ夢の続きにいるような浮遊かんと、現実に還って来たことを残念に思う気持ちと、親しい人の顔が開けた目に写った安堵と。色々な感情が湧き上がって、頭受け止めればいいのかわからずにたじろいだ。
一人ではない。走り出すまでは。
走り始めるのを、走り終えて帰ってくるのを、いつでも、いつまでも、待っていてくれる仲間がいる。
駅伝とは、そういう競技だ。
「王子、今日まで無理に付き合わせてすまなかった」
と清瀬は言った。応援部の奏でる音楽がいっそう大きくなる。「選手はスタートラインについて」と、係員の呼ぶ声がする。
「ハイジさん。僕はそんな言葉を聞きたいんじゃないよ」
王子は笑った。「鶴見で待ってて」
「さっき、大手町できみに言ったことは取り消す」
清瀬の声が、すぐそばでした。「俺は君に、こう言いたかったんだ。ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「合格」と王子はつぶやいた。
いつハジしたのか定かではないが、ジョータに向けて差し伸べた拳には、寛政大の襷が握られていた。
葉菜ちゃん、きみはいつも、「頑張って」とは決して言わないね。もうこれ以上
頑張りようがないほど頑張っていると、君はちゃんとわかってるからだ。どうしてそんなに、俺たちを応援してくれるの。
鶴見中継所にいる清瀬も笑顔だろうということが、見えもせず聞こえもしないのに、電波に乗って伝わってくる。
キングは小心であるがゆえに、プライドが高い。傷つけられることを恐れて、人と親しく交われない。そんな臆病な本性を、誰かに知られることすら許せないから、表面上は人づきあいのいい明るい人間を装う。
「あ・・・」
走が思わず発した声は、掠れて誰の耳にも届かなかった。
体の底で、何かが鋭く破裂した。一点で弾けた力が身体中に指の先まで拡散していく。拡散ではなく、集合しているのか?エネルギーの流れがあまりにも速すぎて、どちらの区別がつかない。渦巻いて身の内に充満する。
音が一気に遠のき、脳髄が冴え渡った。走る自分の姿を、もう一人の自分が俯瞰しているみたいだ。呼吸が急に楽になった。舞い散る雪片の一つ一つが、ひどく鮮明に視界をよぎる。
何だろう、この感覚。熱狂と紙一重の静寂。そう、とても静かだ。月光が射す無人の街を走っているようだ。いくべき道が、ほの白く輝いて見える。
「頂点が見えたかい?」