「わかる」とはどういうことか?
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脳の高次機能障害の臨床医である山鳥先生が、自身の経験(心像・知識・記憶)を総動員して、ヒトの認識のメカニズムを、きわめて平明に解き明かした名著。
感じたこと
名著
わかるとは、「区別ができて、運動化できる」こと。
知覚をもとに記憶と照らし合わせて、違いがわかる
そしてそれを、人に説明するなど、様々な運動に変換できる
参考になるレビュー
本書によると、人は「心象」という心理的イメージを心の中に思い浮かべて(りんご、挨拶、虹、時間・・・・・・など)、
それを一つひとつ積み上げながら思考している。
心象に浮かばないものについては、心は取り扱えない。
したがって、人は絶えず周囲にあるものを知覚して新たな心象を作り出す能力と、新たな心象を記憶として心の中に留めておく能力の二つを兼ね備えている。そうやって知覚した対象と記憶とを照らし合わせて「意味」を理解し、逆に記憶にない新たな知覚を学習することで、新たな記憶の心象が生まれる。この知覚心象と記憶心象の補完関係によって「わかる」の土台ができるというわけだ。そして、「わかる」ためにはその対象を指す記号が必要であり、それが「言葉」である。しかし言葉は記号にしか過ぎず、言葉と意味が一致して初めて心象として機能する。
勉強になったこと
事実は自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象。
一方で心像とは、心がとらえる主観的現象であり、我々の思考の単位となる。
我々は客観世界はそのまま受け入れることはできず、心像という形に再構築する。
この心像には、2種類がある
知覚心像
5感に入ってくる心像
現在、自分の周りに行っていることを、知覚し続ける心像
記憶心像
その心像が何であるかを判断するための心像
すでに心に溜め込まれている心像
hiroya_iizuka.iconフローとストックみたい。
フロー: 知覚心像
ストック: 記憶心像
知覚は現象を取り込み、その現象を心像という形式に再構成する。
心は事実を一旦5感に分解して脳(神経系)に取り込む。
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神経系で処理できる部分だけを、もう一度、組み立て直す
組み立て直したもののうち、意識化されるものが、知覚心像
知覚をもとに頭のなかでイメージしたもの。と言える。
この知覚心像を、記憶心像と照らし合わせて、「あ、これは〇〇」と知る。
このひとつのニューロンが、10000個くらいの接続点を持っている。
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この入り組んだニューロンのネットワークが、何かの刺激を見たり、聞いたり、触ったりするたびに活動する。
新しい繋がりができたり、既存のつながりが強化されたり。
この活動の心理的表れが、知覚心像となる。
一度入ってきた情報と似たような情報が入ってくるとする。
このとき、似たようなニューロン群が活動する。
これが繰り返されると、神経系には、繰り返される入力に対して、共通に反応するニューロンの網目を形成する。
この活動の心理的表れが、記憶心像となる。
目を閉じていても、耳を塞いでも、心が無になることはない。
色々な思いが、絶えず生まれたり消えたりする。
これは自分の心の中を見ており、記憶心像を持ち出して心を満たす。
お腹が減ると、食べ物の心像が浮かぶ
寂しいと、会いたい人の心像が浮かぶ
この知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要
脳損傷で、モノはちゃんと見えているが、何なのかわからないという状態が起こることがあります。
見えている証拠に、この人たちは見せられたモノをちゃんと写生することが出来ます。でも、写したものが何であるかわからないのです。
知覚心像がほかの心像(記憶心像)から切り離されてしまい、ほかの心像と関係づけることが出来なくなってしまっているのです。
たとえば
「目を閉じてください」などというごく簡単な言葉にも応じることが出来なくなる。
音は処理出来ますから、メトジルって?と繰り返すことは出来る。
しかし、繰り返してみても意味がわからない。
メに対応する記憶心像、トジルに対応する記憶心像が喚起されないから。
単語の意味を理解するためには、その記号音を、蓄積している記憶心像と照合する必要がある。
記憶心像はそれ自体では不安定である。
が、名前という音声記号をつけることよって、この心像が安定する。
言葉の本質は、任意の記号と、一定の記憶心像の結びつきである。
わかるの第一歩は、言語体験。
ある音韻パターンと、一定の記憶心像が結びついていれば
その音韻パターンを受け取った時、心にその記憶心像が喚起される
「わかる」とは、運動化できることである。
わかっていることは、話す、文を書く、絵を描くといった表現活動(運動)に変換できる。
わかっていないことは変換できない。
自分の言葉で説明できるのと、自分で対象物の絵が描けるのとは、同じことである。
話す、というのは行為であって、ちゃんと話すには内容の正確な把握が必要なのである。