ビー面2024年7月 残暑見舞い
外から所感を書き留めます
川柳句会ビー面 2024年7月
現代川柳スペース★こえのビー面談話室(仮)7月号
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やさしさのない録画じっとする膝/城崎ララ
無記名一覧で眺めたときから、いまだにこの句に気後れしている。
録画機能そのものは自動的だからやさしさのあるなしを言われるのは妙な感じがするけど、録画する行為には意志がある。意志のやさしさについてなら言える。カメラワークとか、状況の演出とか。
(監視カメラの筋も残されてる。それなら設置は意志的だけど、撮影は手を離れて無意志的になる)
「じっとする膝」は動かないように指示されている被写体とも取れるし、録画の再生を見せられている人の膝とも取れる。(指定されていないけど、この句を読んだ人はほぼ体育座りか正座の、揃えた膝を思い浮かべたんじゃないかと思う)
音で聞くと「やさしさのない録画/じっとする膝」と切れているように聞こえて、録画のあとに一字空けがあったように記憶していたけどなかった。
「やさしさのない」という他責的な指摘があってから、「じっとする膝」で表記上ひと続きに受忍している。ワンオペの罪と罰。
たとえば、<撮影者も被写体も鑑賞者も同一人物の自撮り>?
この句にはなにかしらの責任の所在が見え隠れしているけど、特定の読み筋を結ぶとすればその責任は読み手のほうに生じる。
読みを読まされる隔たりから、いつまでも着地を斥ける上昇気流が吹き上げてくる。句の中で主客が定まらないまま、読み手は落とし所なく詰められていく。
川柳の省略、余地の不確定さにもとづく特殊性が発揮されている句だと思う。
*備忘
西脇さんの試したそのまま読み、「膝が録画する」について
これをするには
「やさしさのない録画(をする)じっとする膝(が)」と補完して、
「じっとする膝がやさしさのない録画をする」と倒置して読むことになるけど、
これって本当にそのまま=リテラルな=文字通りの読みなのか疑問がわく
そのまま読みの助詞補完問題
素材のままの愛し方習う/城崎ララ
スペースではこの句も「なんかへん」と評されていたけど、どこがというのはよくわからなかった。「ありのままを愛する」の慣用がすぐサジェストされて引っ掛からなかった。一句出しでそれ以上慎重に読もうという姿勢にはならないけど、膝の句と同じ作者が同じタイミングで出していると知った時点では読みのレンジが変動する。
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ミールスそれつー未来からのパラパラ/小野寺里穂
この「それつー」は「それ一つ」の並べ替えで、一つ(1)なのにツー(2)として読める発明だと思ったんだけど、コメントを聞いたかぎりそういった意図はなさそうで、このように読み手の作り方が読みを偏向する。
小野寺さんは今回「読み手に動きを誘発させることができるのはいい川柳」という評を残していて、その基準はかけ声から作られたというこの句の指向にも表れているかもしれない。
身体と言葉の主従関係を想定すると、言葉が身体にリードされている感じ。自分はどちらかといえば言葉を主にして従っているほうなので、そんなに身体優位で作れちゃうんだという驚きはある。
これをパラメーターと捉えて、もう少し身体に作らせてみたら読み方も変わってくる気がする。ということで、隙をみて吟行と即吟をしていきたくなった。
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待ち受けを真っ赤にしてる口裂け女/スズキ皐月
口裂け女の使い方に気を取られるけど、結構音で縛った句かもしれない。
ma, ti, ke, ma, ka, ti, ke,
待ち受けを(あいうえお)口裂けお(ういあえお)
怖くてそれ以上調べるのをやめたという口裂け女の話が気になってもやもや
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きなくさいきな粉で町を活性化/公共プール
きなこカルテル読みで一躍ハイライト。こういう読み方にリードされてしまうのは、評と読み芸を分けたいスタンスからすると面白いけどやましい。面白やましい。
南雲さんが指摘した「非公募川柳」というフレームはなるほどよく当てはまると思う。丸山進のサラリーマン川柳が擬/偽サラリーマン川柳であるような感じを思い出す。
あれはファムファタルの元サラダ
―公共プール川柳句集『プ』p92-93
この句がツボにはまったまま抜けない
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なしくずしの死カラメル乗せで/ササキリ ユウイチ
スペースでこの句の音の検討を具体的にしていたのがよかった。
音が悪いと感じるのは意味がよくないからでは、とか、前半が「し」の気息音が連なって無声化されてスピード感が出るのに後半が重い有声音になってるからでは、とか。
作者によれば「なしくずしの死」と「カラメル乗せで」は同じイントネーションで組み合わせているのだから、高低はいいはず。イントネーションだけをよくしていい音と感じられるか、という試みだったとのこと。なるほど。
字面を見ずに聴くと、「なしくずしのし」の音には梨のシャーベットを匙でくずすような感触がある。
下七がデザートメニューになってるからだけど、だけじゃなくて「死」の字を見なかったから連想が塞がれなかったんじゃないかという気がする。「し」が変換されなかったし、固有の書名という認識もなくて意味が透過された。
梨のシャーベットなら洋酒かけるか、カラメル乗せるならアイスクリームなんじゃないか、みたいな一般化された味覚の経験が、気息音と有声音のアンバランスさに対応してくる。
解'音'像度みたいなものが上がると、あえて音を悪くして内容と形式を一致させた句を作れたり、読めたりするのかもしれない。意図的な不協和音に聴き耳を立てていきたい。