「媒体特殊性」の説明やり直し
『こえのビー面談話室(仮)』2024/8/7のスペースにて
僕が「媒体特殊性」をまともに説明できなかったために、西脇さんのなかで「媒介可能性」という新たな概念が展開していたのですが、あの時はキャパ的に訂正できずに流してしまいました。
正直この概念を川柳で扱うにあたってわからないことは多いのですが、9月のスペースにて再びこの用語が取り上げられたので、改めて現時点での僕の理解を書き出してみようと思います。
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仮定のツリー
川柳の媒体は一次的には言葉です。小説も自由詩も同じく、言葉を素材としています。
一次的に区別される媒体は絵画であれば絵具、彫刻であれば木材や石材、音楽であれば音です。
二次的な特殊性として、川柳は短詩です。ここで小説や自由詩と区別されます。
川柳とその他短詩との媒体特殊性の差は四次以降の階層で枝分かれすると想定されます。
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具体例で比較してみます。
媒体特殊性が弱い句の例
https://scrapbox.io/files/66e5416ee5f75a001cded4b5.png
(第一回川柳句会ビー面2022年1月)
評で指摘されている通り、この句は容易に映像に置き換えられます。川柳にすることで初めてアクセスできるような回路は開かれていなくて、あくまで視覚媒体で完結した光景の記述にとどまっています。
では、次の句は視聴覚媒体で再現できるでしょうか。
六面体の梅雨の一面だけが声/飯島章友
「六面体」と「梅雨」はそれぞれ難なく浮かびますが、「六面体の梅雨」はこの文字列を受け取って初めて構築されます。
ガラス製の六面体のなかに梅雨が降っている、という視覚像を想像してできないことはありません。ところが想像をパスした矢先、「一面だけが声」という指定で覆されます。さっきまで六面体のすべての面に、均一な模様のように同じ梅雨を想像したけれど、そうではなかった。一面だけが異なる。それも声であって梅雨の雨音でもない。六面のうちの一面が梅雨であって、他の五面は見えるのか、聞こえるのか、匂うのか。指定されていません。
連鎖的に解体された六面体の残る一面の声は、このような未指定とずらされた指定とによって再現しがたくされています。
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言葉の媒体特殊性とはたとえば、その他の複合媒体で再現しようにも困難な共感覚のあたりに潜んでいるような気がします。
ただしこの見当は依然として「言葉の」であって、「川柳の」媒体特殊性を捉えるにはまだ広義すぎるので絞り込んでいく必要があります。
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西脇さんは媒体特殊性を「その句を読むことでしか得られない経験であるかという度合い」といった趣旨で解釈して、おそらく無意識に「媒介可能性」と改変されていました。
「句ごとに得られる経験」というのは句と読みに注目した話で、それはまさしく「句が読み手を媒介する可能性」といったコンセプトになるのかもしれません。
ですが、僕の伝えたかった媒体特殊性はそうではなくて、句と句が所属する集合(川柳/短詩/言葉)との関係に注目した話でした。その集合に所属する必然性とはなにか、という話ですね。
以上、遅ればせながら訂正を書き残しておきます。