青山忠成と内藤清成
青山忠成(一五五一―一六一三)と内藤清成はともに三河国岡崎の出身で、徳川家康に仕えた。二人は家康の関東入国時に先発して入国のための環境を整え、入国後の 文禄元(一五九二)年には、本多正信(一五三八―一六一六)を加えた三人が関東総奉行に任じられ、領国経営にあたった。江戸幕府が開かれた後、三人は老中として幕府で重要な位置を占めた。青山と内藤は、慶長十一(一六〇六)年に家康の怒りに触れて、秀忠によって関東総奉行の職を停止され失脚するが、のち許された。青山は原宿村を中心に赤坂から上渋谷村に至る地に、内藤は四谷から代々木村に至る地に、それぞれ広い屋敷地を与えられた。ともに、家康から馬で乗り回した土地を全て与えると言われて、馬でその地域を一巡して広大な土地を得たという、囲い込み説話が残されている。その後、内藤家の屋敷は存続するが、青山氏は、忠成の子忠俊の代に改易され屋敷が没収された(根岸前掲論文、一一八頁)。 このように、青山忠成と内藤清成は、現在の渋谷区域が近世初頭に町や村として整えられる始まりの時期に重要な役割を果たした人物であり、人物であり、史実としてだけではなく、地域の由緒を語る言説の点でも大きな影響を与えていたのである。