篤胤関係の史料整理の状況(および全集などの刊行)
初出は、
遠藤「平田篤胤の学問と門人組織―再評価・新発見された史料による近年の研究状況―」(國學院大學 教養講座たまプラーザキャンパス公開講座、2014年 9月15日)配布資料
1. (戦前)篤胤および気吹舎
明治期
明治初年、平田家資料のある部分が修史局へ(渡辺金造、後述)
秋田県立図書館への平田家資料の一部の移管(図書館の購入による)(1909年2月)…草稿、写本など(現在、秋田県公文書館所蔵「貴重書」のなかに約90点含まれている。)
(田中義能『平田篤胤之哲学』1909年:特に事蹟に関する特徴的研究はない)
明治末年から大正期
([第一次]平田盛胤・三木五百枝校訂『平田篤胤全集』(1911〜1918年)刊行)
昭和前期
([第二次]上田萬年・平田盛胤・山本信哉編『平田篤胤全集』(1931〜1939年)刊行)
渡辺金造『平田篤胤研究』(1942年 )
(同書「平田篤胤伝記資料に就いて」pp.1-2)「平田家に秘蔵されて居た篤胤関係文書は、明治初年頃曾て修史局に差出し、長いこと留め置かれ、数年の後に又平田家に差戻され、爾来筐底深く襲蔵されて居たのである。之が為井上頼囶や久保季茲は必ず一閲したことゝ思はれるが、餘り世には知られてゐなかつた。
此等の文書の中で最も貴重なのは別掲の日記で、其の外篤胤及同夫人の家信や、篤胤自筆の文書草案等が、伝記の根本資料として大なる役目を果すのである。私は此等の文書に拠つて「大壑君御一代略記」の誤りを正し、又新に発見した事実などは其都度学界に発表した。夫れ等を集めて概ね順序を整へ、茲に伝記資料として収録したのである。将来平田篤胤伝を立てる人が出て来るならば、此等は必ず大なる参考となることを疑はない。私の既に発表した篤胤関係の論文は尚他に数十篇あるが、紙数などの関係もあつて省略を余儀なくされた。併し平田家に存する篤胤関係文書と、篤胤夫人の沢山な家信と、気吹舎門人帳とは、他日世に発表する機会を庶幾ふものである。」
書簡の翻刻
(同書「気吹舎書簡集 解説」)「私は古人の書簡を集めるのが道楽で、二十余年間の蒐集は数千点に達するが、其の中篤胤の書簡は僅に五六通に過ぎない。私の蒐集経過から推測すれば、篤胤の手紙の伝世は稀少であると結論せざるを得ぬ。私の二十余年間に寓目しただけが此処に掲載した百四十五点であるのを見ても分ることと思ふ。
何故篤胤の手紙は稀少であるかといふに、彼は余り多くの手紙を書かなかつたと見る外はない。それは彼は学問の研究講習に繁忙で、一般文人の様に風雅の道に遊ばなかつた、従つて要用以外の謂はばムダの手紙は一切書かなかつた。今一つは彼は例の悪筆で、之を世に残すことを欲しなかつた、従つて大抵の手紙は鐵胤に代筆さてゐる。鐵胤は達筆で且書に巧みであつたから、進んで養父の代筆を買つて出たらしかつたのである。かやうの訳で篤胤自筆の書簡は少ないのである。」…篤胤以外、例えば銕胤による書簡への関心は?
「気吹舎日記」の一部翻刻
(同書「気吹舎日記 解説」)「気吹舎日記は原は何巻有つたのか明かではないが、現在は平田家に蔵せらるゝ四巻のみである。即ち
一、文化十四年九月――文政七年十二月
ニ、文政八年正月――文政十年十二月
三、文政十一年正月――文政十二年十二月
四、天保十二年四月――天保十三年八月
之を年齢でいへば、篤胤四十二歳の秋から始まり、五十四歳の暮迄十三年間と、六十六歳の夏から六十七歳の秋迄の約一年半ばかりである。/第一冊は文化十四年九月二十八日以降、篤胤の記して置いた日記原本の中から、重要の記事のみを、養子の鐵胤が、後日に抄録したものである。/第二冊は文政八年正月元日から、鐵胤が自らの記帳した平田家の日記である。/第三冊も第二冊に引続き鐵胤の記帳したものであるが、文政十二年十二月三十日を以て終つてゐる。之から後の分も必ず有つたに相違ないと思ふが、平田家には現存しない、恐らくは紛失したものであらう。/
第三次全集(冨山房)の編纂(山田孝雄・平田盛胤監修、実務に伊藤裕)
「古史成文」四巻以降の捜索→伊藤の調査で、秋田県立秋田図書館に巻四〜巻七(写本)の所在を確認。
終戦とともに、刊行中止。
山田孝雄『平田篤胤』(宝文館、1940年 )
(同書「序 附言」)「本著をなすに至りしは秋田県学務部より平田篤胤に関する講義の依頼を受けたることに端を発す。而して吉田慶助氏の主としてその事に当られたれば同氏の助力によりて秋田県立図書館の蔵書を資料としたること少からず。秋田に於ける実地の踏査は主として小島好治氏の嚮導による。小島氏は亦余に代りて種々の調査を行ひつゝ報告せられたること少からず。平田盛胤先生、陸軍中将榊原昇造閣下、小川彌太郎氏等よりも諸種の教示助言を受けたること少からず。以上、これを記して感謝の意を表す。」…
2. (戦前)地方門人の調査・研究
伊東多三郎
『国学の史的考察』大岡山書店、1932年…
(戦後も継続的に…)『草莽の国学』羽田書店、1945年…、など
市村咸人
- 『伊那尊王思想史』下伊那郡国民精神作興会、1929年、など、
3. 戦後の史料調査(篤胤関係)
伊藤裕『大壑平田篤胤伝』(1973年)
(小林健三「はしがき」同書、p.4)「著者は山田博士[山田孝雄]の高弟で戦前『玉襷』(青葉書房)を山田博士とともに校訂して出版されたが、第三次全集の編纂主任であり、令名高い学者である。氏は、年来の蘊蓄を傾け、首尾一貫、新史料を百方に駆使して、本書を成した。本書の強味は、著者が長年平田翁の記録文書に習熟され、平田学の全容をよくつかんでおり、とくに平田家の秘庫にある未発表の史料を通して、篤胤像の真実に迫っていることである。長く権威をもった銕胤の御一代略記も、著者の慧眼によって何ほどか修正された点が少なくない。とくに「生いたち」のところで、篤胤の幼少年時代と江戸独行に至る動機の探究は、新見にみちみちて他の追随を許さぬ。しかも全体を通して、御一代略記の順を追って敬虔な態度で厳正に叙述を進めているところに、著者の奥ゆかしい人柄を偲ばずにはいられぬ。本書を恩師山田博士の霊前に供しようという真摯な心が映るからであろう。」
本書における、篤胤の「生いたち」の記述の典拠
「大壑君御一代略記」
〈平田家蔵の篤胤自筆の系図覚書〉
銕胤筆「御諱本生御系図」
〈篤胤退去後、江戸の銕胤に送った手紙〉
〈「うぶかみ」の包の写し〉(平田家蔵)
「平田篤胤自聞受書」(原本、西宮家蔵)
「平田篤胤性行調査書」
「篤胤宛書簡断簡」
「天保十三年十一月二日付書翰」
『仙境異聞』
他の記述における典拠
「御系譜御草稿」(自筆)
「毀誉相半書」
〈銕胤手記〉
〈銕胤の覚書〉
(後世の著述)〈井上頼囶が先考から聞伝えた物語〉(『国学三遷史』収載)
「霊能真柱初稿断片」
書簡類
篤胤の著書での記述
翻刻などの活動と底本
『新修平田篤胤全集』の刊行(1976年11月〜1981年6月)
「気吹舎門人帳」の翻刻(『新修平田篤胤全集』別巻、1981年)
高木俊輔「気吹舎門人帳について」(『新修平田篤胤全集月報』21、1981年)
1. 平田家誓詞帳 8冊(東京・平田家蔵)
2. 門人姓名録 6巻3冊(東京・無窮会図書館蔵)
3. 門人姓名録 写本6巻3冊(東京・国立国会図書館蔵)
4. 平田先生授業門人姓名録 写本3冊(愛知・羽田野文庫蔵)
5. 平田先生授業門人姓名録 写本3冊(長野県上伊那郡辰野町小野・倉沢氏蔵)(『新編信濃史料叢書』20、1978年、所収)
6. 授業門人姓名録 写本2冊(長野県飯田市・下伊那教育会館内 市村文庫蔵)
7. 授業門人姓名録 写本(長野県飯田市山本・太田氏蔵)
8. 授業門人姓名録 写本(長野県下伊那郡豊丘村・菅沼氏蔵)
9. 平田先生門人録 写本(岐阜県中津川市・市岡氏蔵)
10. 授業門人姓名録 写本(岐阜県恵那郡福岡町・安保氏蔵)
11. 授業門人姓名録 写本(松沢義章本 長野県諏訪市・所在未確認)
* 高木の紹介する以上のほか、(後掲)市村咸人『伊那尊王思想史』では、「飯田町、櫻井文治郎氏所蔵本」を紹介している。
気吹舎門人(平田国学者)および門人組織の研究
芳賀登、高木俊輔、…
銕胤から門人への書簡(まとまったもの)…高玉家宛書簡(國學院大學図書館蔵)
相馬の神職、高玉家宛の平田銕胤・延胤らによる書簡(約160点)
平成5年度に高玉治氏から國學院大學に提供された。現在、國學院大學図書館所蔵。
近世社家文書研究会「相馬地方における平田銕胤書簡―解題と翻刻―」(『國學院大學日本文化研究所紀要』89、2002年)以来、國學院における解読と翻刻、研究
地方門人と気吹舎の交流が具体的にわかる。
特徴的な点のひとつは、書籍の販売が頻繁に行われていること。
のち、平田家蔵の書簡が公開された(国立歴史民俗博物館)ので…。