瑞円寺
宝泉寺はもとは能登総持寺末で、寛文一〇(一六七一)年の宝泉寺末寺帳(藤沢市史二)によれば、総持寺から分れた五派の一「太源派」と称し、末寺一一一ヵ寺を有している(『日本歴史地名大系』)。後述するように、近世の社伝などでは、千駄ヶ谷八幡について、別当寺院の立場からの意味づけが行われていた。 同社については、別当である瑞円寺の僧侶天室叟が万治三(一六六〇)年九月に記した「鳩森正八幡宮略縁起」が「文政寺社書上」に引用されて今日に伝えられており(『新修渋谷区史』所収)、別当の視点からの神社の意味づけをみることができる。
これによれば、聖徳太子が十六歳のときに物部守屋退治のために誉田八幡宮に十七日間参籠して霊夢を見、退治が実現したのちに、そのとき霊夢に見た八幡神の姿を自ら彫刻したという。
また、渋谷金王丸はあるとき大軍に遭遇して命の危険に遭ったときにこの八幡に祈念したところ、無事に帰陣できた。その御礼に参詣したところ、境内で神秘的な体験をし、その後大軍を破ることができた。そのため、生涯身に着けていた恵心僧都作の守本尊である弥陀如来を千駄ヶ谷八幡宮に奉納して、本地仏としたという。
また『江戸名所図会』では「社記曰く」としてさまざまな由緒が語られるなかで、貞観二(八六〇)年に慈覚大師が東国遊化の際に、村民たちが慈覚に神体を求め、慈覚はそれに応じて宇佐八幡宮が山城国鳩の嶺に移ったという故事を思って、神功皇后・応神天皇・春日明神等の神体を作って、正八幡宮と崇めたと記している。