御嶽権現
『御府内備考続編』によれば、同社では、元亀年間(一五七〇―七三)に甲府の武田家家臣の臣下である石田茂昌が所持していた「尊像」を社の現在地に持参し、僧侶である衾無が宮を建立したことに始まると伝え、この衾無を「開祖」と位置づけた。当初「別当神主」のいないまま推移していたが、新地奉行寺社改の藤堂主馬や沖津内記による帳面には記録されていた。元禄十三(一七〇〇)年十二月十八日に当時の寺社奉行永井直敬から宮守を置くよう仰せ渡され、曹洞宗(『御府内備考続編』の記事によれば臨済宗妙心寺派)下谷正慶寺弟子希鈍を宮守としたという。希純は「中興開基」とされ、正徳四(一七一四)年十一月十八日に没した。
寛政元(一七八九)年八月、 宮守である智田が当山派修験目黒触頭学宝院祐弁を相続し、当社別当兼帯となった。学宝院は青山の鳳閣寺の末で、鳳閣寺は古義真言兼当山派修験で、三宝院御門主御直末諸国当山派修験宗惣触頭であった。
このように、近世の御嶽権現社では、「尊像」を僧侶が社の神体として祀ることにその歴史が始まったと伝え、途中記録が不明な時期を経て、寺社奉行の命によって臨済宗の僧侶を「宮守」として置き、やがて当山派修験の「別当」に代わるという経緯をたどった。祭祀対象として、『御府内備考続編』の調査の時点では、神体および前立の神体に加え、本地仏として不動明王、相殿として弁財天と千手観音が祀られていた。不動明王や弁財天、千住観音が、どの段階で祭祀対象に加えられたのかという点については現在のところ明らかにしえないが、「尊像」を起点としていることは近世の当社の神仏関係を考える上でも注意に値する。すなわち、奉仕者は、当初の僧侶から修験へと変わったが、「尊像」は当初からあくまで神体として祀られたのであり、これについては神仏の別が不明瞭であったわけではない。この「説明」自体が『御府内備考続編』の編纂された段階の修験による説明であるという限定性には配慮が必要かもしれないが、近世における神仏の区別を具体的に考える一つの例にはなるだろう。