寺院と青山家の関係
青山忠成が亡くなったのは慶長18(1613)年であるが、葬られたのは青山や渋谷の寺院ではなく芝の増上寺である。 渋谷周辺の寺院で青山家とゆかりがあるのは、玉窓寺である。 慶長6(1601)年、忠成の娘玉窓秀珎が亡くなった。
青山家の下屋敷に場所が設けられて葬儀が行われた。
慶長9年(1604)に位牌所が設けられ、やがて寺となったらしい。
寛永15(1638)年2月に将軍徳川家光が鷹狩の節に当寺を詰所とした。 天和2(1682)年11月、隣接する紀州和歌山藩徳川家の屋敷の教会の場所に替地を授かり移転となった。
『御府内備考続編』所収の「縁起」や『江戸名所図会』によれば、同寺の正観音には中将姫が香木によってこれを作ったという伝承があり、『武江年表』文化十四(一八一七)年の項には開帳の記事がある。 青山忠成の次男である青山忠俊(1578 - 1643)は、東福寺が別当を務めていた金王八幡社の整備を行った。 忠俊は、元和元(一六一五)年以来徳川家光の補導役となり、同二年に老中となった後も同役として家光の教育にあたった。
『新修渋谷区史』が『台徳院殿御実記』に依拠して説明しているところによれば、忠俊は慶長十七(一六一二)年に、当時九歳の家光が世子の地位につくことを家光の乳母春日局とともに願って、氏神として信仰していた金王八幡社に熱心に祈願し、同年九月には成就したことに感謝して忠俊は材木等を春日局は百両をそれぞれ奉納した。 そして、元和元年には同社の造営が行われたという(『寛政呈譜』〈『東京市史稿』市街篇第三、所収〉、および『渋谷学ブックレット 〈渋谷〉の神々』二八〜二九頁)。
一方、建立年代について、東京都近世社寺建築緊急調査の報告書である『東京都の近世社寺建築』(東京都、一九八九年)は、本殿および拝殿については、絵様から判断して「旧東福寺鐘銘」に記述のある元禄元(一六八八)年であると推測している。
忠俊は同九年に、家光の怒りに触れて改易となり、上総大多喜に減封となった。
寛永二(一六二五)年に遠江国小林に退居し、同九年には相模国今泉に移った。
同国溝郷(現・相模原市南区下溝)の龍淵山天応院(曹洞宗)の中興に寄与した。 同二十年に没した際はこの寺院に葬られた。
忠俊の四男である青山幸成(一五八六―一六四三)は、現在の青山の地に梅窓院を建立した。 幸成は寛永十(一六三三)年に遠江国掛川藩主となり、同十二年に摂津国尼崎藩に転封となった。
寛永二十(一六四三)年の逝去に際して、その菩提のため、現在の青山の地にあった幸成の下屋敷に、幸成の側室を大檀越として長青山宝樹寺梅窓院が建立された。
院号は幸成の法名[梅窓院殿前大府香譽淨薫大禪定門]から、山号は側室の法名から、それぞれ取られたという。
開山祖には、浄土宗大本山増上寺十二世である中興普光観智国師を勧請し、知恩院末である。 その後、現在に至るまで青山家の菩提寺となっている。
『武江年表』の記事によれば、宝永七(一七一〇)年十一月、梅窓院の鐘を改鋳しようとした際に、当時の住持である法蓮社寿誉鏡的上人の夢に龍女が現れ、「私は畜身であって仏果を得がたい、そのため一面の鏡を持参した。願わくは、これを加えて鏡[鐘カ]を鋳造していただければ、解脱を得る因縁となるでしょう」と述べた。夢から覚めてみると傍らに一面の鏡があり、上人は奇異に思って、この鏡を加えて改鋳したという。
このように渋谷に隣接する青山の地には青山家に関係する寺院が建立されるとともに、金王八幡社については、青山忠俊によって近世の隆盛の基礎となる整備が行われたのであった。