天現寺
毘沙門天(びしやもんてん)
同所四丁ばかり巽〔南東〕の方、渋谷川の北岸、多門山天現寺といへる禅刹に安置せり。本尊毘沙門天の霊像は、樟の丸木作りにして、聖徳太子の彫造なりといへり(その丈三尺一寸)。相伝ふ、多田満仲〔九一三―九七〕の念持仏にして、源家累代守護の霊像たり。伝通院殿〔お大の方、一五二八―一六〇二。徳川家康生母〕深く尊信ましまし、安部摂津守信春〔安部信盛か、一五八四―一六七三〕に御預けあり。その後仙石因幡守久信〔一六三八―九九〕の家に伝へ、また祥雲寺に収め、つひに当寺を開創し、はじめてここに安置せり(本尊来由の記は、林学士信充先生〔林榴岡、一六八一―一七五八。儒者〕の文章にして、当寺の什宝たり)。
武州豊島郡城南麻布邑多聞山天現禅寺毘沙門天王縁起
従五位下守大学頭林信充誌
毘沙門は北方の天王にして多聞と号すなり。西土は北方をもつて上となす。この王の福徳の名、四方に聞こえたり。北方の多聞の名、すなはち明著なり。四〓の水精〓を護り、まさに諸閲又衆無量百千とし、もつて眷属とすなり。一尊像ここにあり。相伝ふ、わが東照君尊母公伝通院殿、参州鳳来寺峯薬師に祈り、時に十二神の中の寅神、霊夢の祥に応じ、君寅歳をもつて降誕すなり。ゆゑに母公の訓命により崇尊す。けだし聖徳太子、楠木をもつて手づからこれを作る。その長三尺一寸、源家嫡流贈正一位満仲公より伝来するところの尊像なり。良くともにあるや、君の崇尊なり。慈眼大師〔天海、一五三六―一六四三〕、「東照大権現守御本尊」の九字を板木の傍らに書く。その筆痕、いまなほ存す。君攻城野戦に臨むごとに、この像を携行せずといふことなし。群を抜き類を超え、撥乱反正し、天下を掌握す。海内を安撫するは、すなはちこの像の威徳なり。唐天宝年中〔七四一―五六〕、西涼府の囲に危に臨み、仁王密語を誦し、神人五百員を見る。かつ金鼠敵の弩弦を咬むを見て、みな絶せらる。咸通〔八六〇―九四〕中、西川に僧相の天王と現ずるは、みなこの霊の成すところなり。倭漢異なるといへども、その信従するところの誠は同じ。君長久の業を伝へて、太平の基を開くは、人力の及ぶところにあらずといふべし。その後近臣安部大蔵信春、命を奉じて香華供養のことに預かり、信春また寅歳をもつてこれを護り奉るなり。嫡子弥市郎信包また寅歳にして、いよいよ恭仰尠なからず。信包かつて大坂城を衛護するの初年、その城内に鎮坐すなり。歴年の後、官命この像のことに及ぶことなし。ゆゑに江府品川の私第に、地を揄き堂を建つ。これにより摂州刺史に任じ、官禄増益す。齢九十旬を過ぎ、その曾孫信峯〔一六五九―一七〇六〕、丹波刺史に任じ、尚しくなほこれを伝ふ。しかれどもゆゑありて仙石壱岐守久信に贈り、これを伝へること尚し。平生志を祥雲寺怡谿和尚に通じ、はなはだ厚きなり。久信母遷座の霊夢を見ること数多なり。久信馳せて介をして怡谿に告げしめて曰く、「霊像しきりに霊夢あり、かつ俗家恐懼に堪へざることあるなり」と。怡谿その志に任せ、これを寺内に移す。法子良堂和尚、その像の重く、その験のおほいなることを感じ、新たに天現寺を建つ。この像一堂に安じ、もつて妙験を祈る。頃間僕にその来由を記さんことを請ふ。黙止することあたはずしかいふ。/毘沙門天王縁起終
光孝天皇〔八三〇―八七〕御陵の石灯籠(毘沙門堂の前、左の方にあり。御影石の灯籠にしてはなはだ古雅なり。いづれの頃にかありけん、金森家より寄附ありしといふ)。
近世の開帳
『武江年表』では数回の開帳が確認できる。
宝暦8年(1758)
文化12年(1815)
天保10年(1839)
弘化2年(1845)