増上寺
江戸名所図会
三縁山増上寺(さんえんざんぞうじようじ)
広度院と号す。関東浄家の総本寺、十八檀林の冠首にして、盛大の仏域たり。百一代後小松院〔一三七七―一四三三〕の御願にして、開山は大蓮社酉誉上人、中興は普光観智国師なり(十八檀林は、武・総・常・野等に存在す。阿弥陀仏六八本願のうち、第十八をもつて最勝とするに因み、御当家御称号、松平氏の松や千歳を閲歴し、よく雪霜にをかされず、また、君子の操ありて、しかも、太夫の封を受く、その字や木公に従ふ、細かにわかつときは十八公なり。よつて、これを弥陀の十八願にかたどりたまひ、精舎十八区を建てて、永く栴檀林とし、多く英才を育して、法運無窮の謀を設けたまひ、御子孫永く安からんことは、霜雪の後、松樹ひとり栄茂するごとくとの盛慮に従ひ、源家の御代を、浄家の白旗流儀により、千代万代までも守護し奉るべき旨を表したまふなりとぞ。以上『浄宗護国〓』〔観徹、一七一〇〕・『新著聞集』〔神谷養勇軒編、一七四九〕等の意を採摘す)。
本堂本尊、阿弥陀如来(恵心僧都〔源信、九四二―一〇一七〕の作にして、座像御長四尺ばかりあり。あるいはいふ、仏工運慶〔?―一二二三〕が作なりと)。
額「三縁山」、廓山上人〔一五七二―一六二五〕真蹟(上人は当寺第十三世なり。甲州の産にして、高坂弾正〔一五二六―七八〕の子なりといへり)。
御経蔵(本堂の前、左の方、塀のなかにあり。ある人いふ、ここに納むるところの一代蔵経は、宋板にして、その先、豆州修善寺にありて、平政子の寄附なりとぞ。後、彦坂九兵衛尉、台命を奉じ、当山にうつすとなり。菊岡沾涼〔一六八〇―一七四七。俳人〕いふ、昔は方丈にありしを、寛永九年〔一六三二〕照誉上人了学大和尚、経蔵を創立したるとなり。いまは官造に列す)。
開山堂(同所左にならぶ。当寺開山以下、累世大僧正の肖像、および霊牌等を置かれたり)。
開山酉誉上人、諱は聖聡、大蓮社と号す(鎮西正統第八世の祖とす)。貞治五年〔一三六六〕七月十日(『千葉系図』貞治二年〔一三六三〕六月三日とあり)、北総の千葉に生まる。父は千葉陸奥守氏胤、母は新田氏なり。童名を徳寿丸といふ(一書に、徳千代とあり)。加冠して胤明と称す。出離の志深く、釈典を慕ふ。九歳にして、つひに同国千葉寺に入りて落飾し、はじめて密教を学び、後、冏公〔西蓮社了誉聖冏〕に投帰して浄宗に入り、智道、ますます熾んなり。その後、武州豊島郡江戸貝塚の光明寺に住せらる(いまの増上寺これなり。『江戸名勝志』〔藤原之廉、一七三三〕にいふ、「増上寺の旧地は、糀町一丁目越後やしきといふ辺なり」とあり)。この寺、始めは真言瑜伽の道場なりしが、つひに光明寺を改めて、三縁山増上寺と号し、宗風をも転じて、浄業の精舎とす。永享十二年庚申〔一四四〇〕七月十八日寂す。歳七十五、臘六十七(『東国高僧伝』〔高泉性〓、一六八八〕に、「応永二十四年〔一四一七〕に寂す。寿詳らかならず」とあり)。
中興開山、勅賜普光観智国師、諱は存応、字は慈昌、貞蓮社源誉上人と号す(平山左衛門尉季重の後裔なり。『伝灯系図』にいふ、「姓は由木、または、金吾校尉源利重」云々)。天文十三年〔一五四四〕(『護国〓』十年に作る)武州由木に生まる。始め、衣を片山の宝台寺に〓ひ、十八歳感誉上人に帰して、登壇受戒す。天資聡悟にして、顕密の教を究む。上人没後、上簔に到りて長伝寺を創し、おほいに法席を開く。人呼んで、教海の義竜、蓮苑の祥鳳といふ。天正十三年〔一五八五〕雲誉上人〔?―一五八四〕の会下にあり。同十七年八月、璽書を伝承して、増上寺第十二世となる(当寺第十二世たり)。同十八年、天下安靖なるに逮んで、おほいに大神君〔徳川家康、一五四二―一六一六〕の眷顧をたまひ、しばしば営中に請ぜられて、法要を聴受したまひ、崇信他に異なり。つひに、増上寺を修営せられ、植福の地となしたまへり。また、後陽成帝〔一五七一―一六一七〕、師を宮内に徴して、道を問ひたまふ。盛んに浄教の深旨を陳ず。叡感ありて褒章を加へ、新たに宸翰を染めたまひ、とくに、普光観智国師の号を賜ふ。ときに、慶長十五年〔一六一〇〕七月十九日なり。元和六年〔一六二〇〕、師微恙を示す。嗣君大将軍みづから臨んで、忝くも疾ひを問はせたまふ。十一月二日、諸徒に遺誡し、辞世の偈を書して曰く、「仏話提撕心頭の塵、末後の一句ただ仏と称す」と、筆を〓ちて端座合掌し、仏号を唱へて化す。世寿七十有七、僧臘六十(『護国〓』世寿八十とあり。いづれか是なることをしらず)。門葉〓々として、学徒流れに浴す。撰述するところ『論義決択集』『阿弥陀経直譚』等、おほいに世に行はる(以上『浄土高僧伝』『浄宗護国〓』『伝灯系図』等に出でつ)。
大銅鐘(本堂の右の方にあり。鐘の厚さ尺余、口の渡り五尺八寸ばかり、高さ一丈ほどあり。銘に曰く、「新たに洪鐘を鋳て、三縁山増上寺の楼に掛く。二十六世森誉上人歴天大和尚、延宝元癸丑年〔一六七三〕十一月十四日。神谷長五郎平直重、須田次郎太郎源祗寛、鋳工椎名伊予吉寛」云々。その声洪大にして、遠く百里に聞こゆ。一撞の間の響き、もつとも長くして、行人一里を歴るとて、諺に一里鐘と称す。風に従ひて、当国熊谷の辺に聞こゆることあり。かしこは江戸より十六里を隔つ。また、安房・上総へも聞こゆるといへり)。
熊野三所権現祠(同所にあり。すなはち当寺の鎮守にして、護法の神と称す)。
黒本尊の堂(本堂の後、蓮池より奥の方にあり。本尊阿弥陀如来の像は、恵心僧都〔源信、九四二―一〇一七〕の作なり。御長二尺六寸、相向円備にして、生身の仏体に向かふがごとし。世人呼んで黒本尊と称せり。多くの星霜を歴て、金泥ことごとく変じて黒色となる。ゆゑに、この称ありとも、あるいは源九郎義経〔一一五九―八九〕奉持するところ、ゆゑに九郎本尊といふの意なりとも。始め、参州〔三河国〕桑子の明眼寺にありしを、某の邑の調をもつて寺産に充つ。この霊像を得たまひて、つねに御念持仏となしたまひしが、つひに当寺に遷したまふとなり。元禄八年〔一六九五〕、増上寺御修営のとき、桂昌一位尼公〔一六二七―一七〇五。徳川綱吉の生母〕、重ねて仏龕を新たにし、宝帳・玉扉、構飾精巧を極むと。以上『浄宗護国〓』に載するところなり。毎歳正月十六日・四月八日・同十七日、諸人ここに参詣することをゆるさる)。
三門(元和九年癸亥〔一六二三〕御建立。あるいはいふ、八年なりと。楼上に釈迦・文殊・普賢、および十六阿羅漢等の木像を置く。正月・七月の十六日、二月・八月の彼岸の中日、また、二月十五日・四月八日等に登楼をゆるさる)。
安国殿(本堂構への外、南の方にあり。四月十七日は、御祭礼にて、参拝を許さるるゆゑに、詣する人多し。来由はその憚りあるをもつて、これを略す。御別当を安立院と号す)。
五層の塔(同所御仏殿の地、蒼林のうちにあり。酒井雅楽侯の建立なりといへり)。
涅槃石(同所にあり。御彫物師吉岡豊前作なりといへり。羅漢石とも号く)。
曼荼羅石(同所にあり。後藤祐乗・得乗の作なりとぞ。来迎石とも名づく)。
鷹門(同所にあり)。
極楽橋(同所前の溝に架するところの石橋をいふ)。
宗廟(御当家御代々の御霊屋なり。当寺院中より御別当を務む)。
御常念仏堂(涅槃門の方にあり。恵照律院と号す。浄土律にして、当山の別院たり。横蓮社縦誉心岩上人開基す。同巻、赤羽心光院の条下に詳らかなり。当院に上人真筆の涅槃像の印板あり。有信の輩に授与す。他の図に異なり)。
性寿庵(方丈の後ろの方にあり。尾州清須の城主、松平薩摩守忠吉の霊牌を置く。ゆゑに、俗に薩摩堂とよべり。側に、小笠原監物を始めとして、殉死五人の石塔あり。柳の井といふは、同所南の坂通りにある名泉なり)。
飯倉天満宮(天神谷にあり。当山の地主神なり、昔、飯倉の神明もこの地にありしとなり。社地に梅樹を多く栽ゑて、二月の頃、一時の荘観たり。宝松院別当す)。
茅野天満宮(同所南の方松林院にあり。神像は菅神〔菅原道真、八四五―九〇三〕の直作とぞ)。
円光東漸大師旧跡(山下谷明定院にあり。これも当山の別院なり。明定院、前大僧正定月大和尚、明和七年〔一七七〇〕に建立せらる。六間四面の堂にして、戒壇造りなり)。
円座の松(同所にあり)。
円山(同所にあり)。
弁財天の祠(赤羽門の内、蓮池の中島にあり。本尊は智証大師の作なり。右大将頼朝卿〔源頼朝、一一四七―九九〕、鎌倉の法花堂に安置ありしが、星霜を経て後、観智国師感得ありて、当寺宝庫に納めありしを、貞享二年〔一六八五〕、生誉霊玄上人、このところに一宇を建てて、一山の鎮守とあがめられ、宝珠院別当たり。中島を芙蓉洲と号く。このところ、門より外は赤羽にして、品川への街道なり)。
子聖権現の社(山下谷にあり。清林院別当す)。
産千代稲荷(観智院にあり。昔は普光院と号すとなり。当寺は合蓮社明誉檀通上人の旧跡なりといへり)。
阿加牟堂(東の大門の通り、常照院にあり。常念仏の道場なり)。
大門(東に向かふ。当山の総門なり。外に下馬札を建てらる)。
御成門(北の方、馬場に相対す。このところにも下馬札あり)。
涅槃門(切り通しの上にあり。恵照院に涅槃像あるゆゑなるべし)。
柵門(山下谷より赤羽へ出づるゆゑに、また赤羽門ともよべり)。
当寺、旧古は貝塚の地にありて、光明寺と号せし真言瑜伽の密場にして、後小松院〔一三七七―一四三三〕の御願によつて、草創ありし古刹なりしに、至徳二年〔一三八五〕、酉誉上人移り住するの後、つひに了誉上人(伝通院三ケ月上人のことなり)の徳化に帰し、寺を改めて、三縁山増上寺と号し、宗風を転じて浄刹とす(『事跡合考』〔柏崎具元、一八世紀中頃〕に出だせる『三縁山歴代系譜』に云く、「当寺草創の地は、貝塚今糀町辺、中頃日比谷辺に移る。後慶長の初め芝に移る」云々。日比谷より芝へ移りしは慶長三年戊戌〔一五九八〕八月なり。『武徳編年集成』〔木村高敦、一七四〇〕に、「慶長三年戊戌、去る天正十八年辛卯〔一五九〇〕、平川口へ移されし増上寺を、芝の地にうつす」とあり。平川・日比谷、古へ地を接す、ゆゑに混じていふか)。
東照大神君〔徳川家康、一五四二―一六一六〕、天正十八年〔一五九〇〕はじめて江戸の大城に入らせたまふとき、州民鼓腹し、老幼相携へて、道路に拝迎し奉る。幸ひに寺門の前路を通御あるにより、観智国師もこれを拝せんとし、出でて寺前にあり(これ、すなはち比々谷の地にありてのことなり)。ときに、師の道貌雄毅、尋常ならざるを見そなはしたまひ、その名を問はせられ、すなはち、寺に入りて憩ひたまひ、その後当寺をもつて植福の地となしたまひ、永く師檀の御契約あり(御崇敬あつく、しばしば師を営中に請ぜられ、法要を聴受なしたまひ、待するに礼を殊にし、これを親王に比せられ、師をして、乗輿して殿階に昇ることを得せしむ。もつて永式とす。いまに至り、歴代の住持、みなこの栄をうく)。ときに寺境隘狭にして、しかも大城に接近す(これ、すなはち比々谷にありしときのことなり)。よつて、いまの地に移され、おほいに資財を喜捨し、殿堂房室に至るまで、ことごとく営建したまひ、もつとも宏壮の大梵刹となる(『事跡合考』に、「慶長十年乙巳〔一六〇五〕、本堂・回廊等、御造営ありて大伽藍となる」云々)。これにおいて、浄家の宗教一時に勃興し、念仏の声天下に洋々たり(以上、『浄宗護国〓』に出でたり。慶長十年、一朝門前の老翁、師にいつて云く、今夜祥夢を感ず。師微笑して云く、〓その夢を鬻げ、われ買はんとて、青銅二十疋を〓ふ。すでにして翁云く、増上寺の軒端の垂木繁るらん。師曰く、吉徴なり、慎しみて人に語ることなかれと。果たして、翌日、伽藍営復の命ありて、つひに宏構鉅材、天下の壮観となれる由、『浄土高僧伝』に出でたり)。
そもそも、当山は、関東浄刹の冠首にして、竜象の聚まるところ、実に霊山会上布金紺園にも比すべけん。数百戸の学寮は、畳々として軒端を輾り、支院は三十余宇、靡々として甍を連ねたり。三千余の大衆は、つねにここに集まる。なかにも、能化は一代の法蔵を胸間に貯へ、所化は十二の教文を眼裡に晒せり。三心即一の窓の前には、五念四修の月を弄び、事理〓頓の林の中には、実報受用の花を詠ず。仏閣の荘麗たる、七宝荘厳の浄土も、また、ここを去ること遠からずとぞ思はれける。
御忌参り(正月二十五日)。
涅槃会(二月十五日)。
誕生会(四月八日)。
開山忌(七月十八日に修行す。一山惣出仕、ならびに、近在の末寺より出でて、大法会を修す)。
十夜法会(十月六日より同十五日まで修行す)。