〈他界〉についてのウソとホント:死後世界研究への補助線
遠藤潤「〈他界〉についてのウソとホント ―死後世界研究への補助線―」(『國學院大學日本文化研究所報』192、1996年)
私が〈他界〉(死後世界)と近代社会の成立の関わりについてぼんやりと考えるようになってからしばらくのときがたった。はじめから大股歩きでというわけではなかったものの、最近は以前にもまして歩みが鈍っている。その理由はいくつかあると思われるが、なかでもっとも深刻なのは〈他界〉を問う、その問い方についてである。
この問題について考えはじめたころは問題をわりあい簡単に考えていた。それまで庶民に信じられてきた〈他界〉、おおまかにいえば〈民俗〉とでもよぶべき世界があって、それが上からの近代化によって破壊されてきたのだ、という感じに(かなり単純化してはいるが)。
ところがこの「ある」とか「信じている」というところがくせものだったりする。現代から考えてあまりに荒唐無稽なこんなものを「信じる」のはなぜなのか。こうした問いはだれの脳にもわくのだが、この問い自体がゆすられる地点がある。〈他界〉があったというがその「ある」「あった」ってどういうふうに、という問いが生じるのである。観念が頭のなかのできごとでしかないというわりきりが許されない今の私たちにとってこれは厄介である。いわば、観念がモノとしての属性をもちながらこの世に存在したこと、これを歴史にそくして明らかにすることが避けられなくなるのである。具体的には、ある時代や地域における〈他界〉について考えるためには、はじめにそれにまつわる表現をその性質のいかんを問わず数えあげる作業が必要となるわけである。これはちょっと大変だ。こうしたことは、民俗学をはじめとしてすでにたくさん行われてきたのだが、現実の表現形式にこれまで以上の注意を払うということが私たちには新たに課せられている。このことばは説教として語られた、説話として伝えられている、歌舞伎で演じられるなどなど。こうした形態自体が重要な意味をもつものとして浮かび上がる。
このように、あるハナシや物語が現実にどのように存在していたかという問いはついでによけいなものも連れてくる。つまり「きみはある観念をことばが表現しているなんて考えているんじゃあるまいね」とささやく悪魔(あるいは天使)である。耳元でこうささやかれると、私たちはうっとりどころかゲンナリしてしまうが、気をとりなおして再び考えると、〈他界〉を考えることの醍醐味はどうやらここらあたりにあるようなのだ。ことさらにいうまでもなく、ことばとモノのあいだには深くて暗い溝がある。ことばがつねに現実に存在するものを代理しているとはかぎらず、ことばには現実世界(そんなものが明確に存在すれば、の話だが)に対応物がない場合もある。そうしたときにそのことばがウソかといえば、必ずしもそうではない。〈他界〉をめぐることばのとらえどころのなさは、このようなウソともホントともつかないことばの性質と通じている。だから、ことばが「ある」のと同じような意味では〈他界〉も「ある」(かなり乱暴な話になってきたかもしれないが)。このことに関しては、虚構(フィクション)のはたらきをめぐって、文学研究の領域ではずいぶん前から論じられてきた。文学という、ある意味で必然的につくりごとの世界が前提となる場所では、ことばと現実や社会なるものがどのように接しているのかということは問題にならざるをえない。また作者の方でも、つくりごとを通して現実に接触する技法を自覚的に練ってきた。歴史に仮託して描かれた近世のいくつもの小説、あるいは戯作などをながめやるだけでもそうした態度の一端にふれることができるだろう。
そうした地点から自分のこれまでの〈他界〉研究の姿勢をふりかえってみると少しまぬけに見えてくる。〈他界〉が「実在」することを正面から論じたものばかり目にしていなかったか、あるいは、〈他界〉の「実在」を確信する人々をやみくもに探していたのではないか。
私がしばらく読んでいる平田篤胤は正面から〈他界〉の実在を確信していたと思う。現代の天文学者が新しい星の存在を証明するときのように〈他界〉の実在を明かそうとした。そのことばにはある種のきまじめさがある。ホントのことを語るホントのことばとしてのきまじめさである。ここで、このきまじめさ自体の是非を問うことはやめよう。ただ〈他界〉を少し離れて見ようとしている私たちがこの種のことばのきまじめさに囚われていて、その外に出ることを思いつかないとすればそれはちょっと問題なのではないか。ホントを語るホントのことばばかりでなく、ホントを語るウソのことばやウソを語るホントのことばだってある。(より意味をはっきりさせるためには、ホントをリアリティに、ウソをフィクションにいいかえた方がよいかもしれないが。)これからは、ことばのいいかげんさにつきあうきまじめさ(あるいはいいかげんさ)が求められているのだと思う。簡単にいえば、つくり話もちゃんと相手にするということだろうか。霊魂の行方を追っているうちになんとも気味の悪い薮のなかに入ってしまったようである。
(おわり)