kg21-osm1:平田篤胤の言説は社会的境界を越えたのか
遠藤潤「平田篤胤の言説は社会的境界を越えたのか:藩・幕府・朝廷との関係を焦点に」
最終更新:2021/05/11 01:16
(前提として)
はじめに
篤胤は、誰にどのようにして学問・言説を届けようとしたのか。
そのとき、いかなる社会境界を越えたのか。
「草莽の国学」(伊東 1945, 1-8):在地社会の指導層に対して大きな影響を与えた思想運動という面が注目され、評価の中心となってきた。
門人組織の分析(累計数のグラフをもとに)
〈いったん具体的な分析の文章を書いたが、論旨と字数の都合で今回の論文では割愛した。〉
近世日本:身分を基本的な原理として構成される社会
さらに身分や地域・空間によって部分社会に分節化されていた(山口 1993, 塚田 1987, 吉田伸之 2002)。
支配身分の社会と被支配身分による民間社会からなり、前者は将軍家を頂点とする武家社会、天皇家を中心とする朝廷社会、寺院社会などからなり、後者には地縁的共同体の村・町と職縁的共同組織がある(吉田伸之 2002, 24-36)。
篤胤は、身分においては藩士と浪人の間を行きつ戻りつした。
また、その学問・言説は理念的な水準では日本の諸身分・諸集団を包括する国家構想を含みつつも、実際の広まりにおいては、全ての身分や社会集団の間に一律に拡散したわけではない。このような意味で、篤胤と言説は社会的境界をどのように越えようとしたのか、また実際にどの程度実現しえたのか。この問題について、篤胤自身の意図を理解することを心がけながら、その生前に限定して再考したい(以下、国立歴史民俗博物館蔵「平田篤胤関係史料」については、史料名と史料番号のみを記す)。
0. 問題の基本的視角
言説をどこに届けようとしたのか、その性格を意識的に考えたい。
その問題のみに限らず、これまでの篤胤研究で看過されてきたいつかの点について、具体的に明らかにする。
1. 篤胤の上京と上皇・天皇への著書献上
篤胤が文政6年(1823)に上京し、光格上皇と仁孝天皇に自著を献上したこと。
篤胤と朝廷との関係の具体的な始まりもまだ不詳である。輪王寺宮舜仁法親王が発端か(渡辺 1942, 67)。
輪王寺宮:〈江戸の親王(法親王)〉
舜仁法親王:光格天皇との関係
光格天皇(のち上皇)の政治-文化サークルの重要性
篤胤も、舜仁法親王を媒介として、その一端に参加。
篤胤の上京、上皇・天皇への著書献上(文政6年7月〜11月)
富小路貞直の娘明子:
文化11年から光格天皇(当時)に今参掌侍として仕えた。
文化14年の譲位後は光格上皇の院女房となり、3人の皇女を産んだ(高橋 2009, 47)。
円乗院:六人部是香の実母。文政6年時点では大宮御所に出仕。
女房奉書:女官が上皇・天皇の命令を伝える目的で発行する文書
篤胤は当初、上皇または天皇への著書献上に対する女房奉書を希望(「上皇または」は今回補足)
2. 篤胤と吉田家
篤胤が文政6年の上京後、自説を世間に広めるために重視したのは、吉田家の組織であった。
宮川弾正(晃晧)(吉田家江戸役所目代)
篤胤は文政6年12月に、吉田家学師に。
学師の職務:
附属配下之神職共に教諭すること
諸国廻村して彼らの間に不心得の儀があれば説諭し、神道伝授や職分継目などを怠りなく拝受するよう教導すること
生田万:吉田家学師輔助。吉田家が館林藩から「借用」、篤胤と養子縁組(=銕胤と養兄弟)。
吉田家江戸役所の目代後継問題(文政12年5月発生)
万の「借用」終了:学師輔助辞任も意味すると推測。
3. 篤胤の言説は幕府・朝廷に届くのか:『大扶桑国考』『天朝無窮暦』を焦点に
篤胤自身は、天保期に幕府・朝廷などへの献策に照準を定める傾向を強めた。
3.1. 尾張藩による扶持と林述斎:御三家への働きかけの一環として
和歌山藩(紀州藩)
尾張藩
文政13年7月に藩から篤胤に対して三人扶持の給付が開始された。
水戸藩:鵜殿平七との親交
天保5年6月、尾張藩からの扶持給付が問題視される。
林述斎が御三家と篤胤の関係を問題視。
(この前後に、篤胤による弁明書の話を記載していたが、字数の関係で最終稿では割愛。)
3.2. 『大扶桑国考』について:出版、献上、絶版、処分
「扶桑」:古代中国の神話的記述に見られる太陽の昇る木。東海の島に存在すると考えられていた。
篤胤『大扶桑国考』:中国の神話で重視されるこの東海の島が実在の日本であると説く。
篤胤『三五本国考』:『大扶桑国考』の続編(「大壑先生著撰書目」)。
『大扶桑国考』の出版:天保5年から6年にかけて現実化。
『大扶桑国考』への生田の関与・貢献
輪王寺宮家来の進藤隆明による『大扶桑国考』への資金援助:進藤個人?それとも輪王寺宮のパトロネージュ?
輪王寺宮、光格上皇、仁孝天皇への『大扶桑国考』献上
当時の篤胤の身分:浪人
生田万が柏崎で陣屋襲撃(同年6月)。
前年刊行の『大扶桑国考』には万による序文も。
天保9年5月、篤胤は秋田藩士に復帰。
天保10年、蛮社の獄。
『大扶桑国考』関係の処分までの過程
『大扶桑国考』と同内容で「皇国異称考」という名称の書物(の理由の推測)
3.3. 『天朝無窮暦』の成立と幕府天文方への提出
暦研究は、天保期以降の篤胤の学問において重要な位置を占めていた。
本居宣長『真暦考』の抱える難問(と篤胤が考えるもの):日本におおらかな独自の暦を認めつつ、書紀神代巻を否定。
篤胤の二度の閃き
1:天保2年9月1日:天保2年冬『弘仁歴運記考』の草稿成立。
2:天保8年6月(日付は不明):
そもそも暦法には先天の暦(数と象から理解される抽象的な暦)と後天の暦(現象にもとづく暦)の区別があり(小島, 村田 2001, 6[先天・後天図。邵雍(北宋)による「先天図」の考案], 山田慶児 1978, 271-301)、中国伝来の暦法は前者だが「真暦」は後者であり日本のみに見られる。
「真暦」と『日本書紀』神代巻の間の齟齬について、篤胤なりの課題解決ができ、その結果として天保8年11月に『天朝無窮暦』を書き上げたのである(同書版本巻之六、末尾)。
幕府への献策の試み
3.4. 輪王寺宮への『天朝無窮暦』の献上
予想外の展開
おわりに
原理:『霊能真柱』(文化9年成立)における原理の確信。天体のあり方という、現在の現象を起点として。
神話・歴史:本流たる「古伝」の確立と、世界の多様性を派生と理解する実証作業。
暦関係:(今回の補足)理論の包括性を完成させる。暦は現在の天文現象を説明するものであるとともに、過去の歴史の基準となるもの。
循環する論理
実証が原理を補強する論理。