篤胤の生涯(簡略版)
秋田藩籍:~20歳
[ 1歳]安永5年(1776)8月24日、久保田城下・中谷地町中丁で秋田藩大番組頭、大和田清兵衛祚胤(さちたね)[大和田祚胤]の四男に生まれる。 [15歳]寛政2年(1790)、元服。
浪人期:20~25歳
[20歳]寛政7年(1795)1月、脱藩して江戸に出る。
備中松山藩士:25~48歳
[25歳]寛政12年(1800)8月、備中松山藩士平田藤兵衛篤穏[平田篤穏]の養子となり、篤胤と名乗る。牛込神楽坂上の本多屋敷に住む。 [26歳]享和元年(1801)8月、沼津藩士石橋清左衛門娘織瀬と結婚。 同年9月、本居宣長、没。
[28歳]享和3年(1803)、初めて本居宣長の著書に触れる。 [29歳]享和4年(1804)、講筵を開き「真菅乃屋」と称す。 同年・翌年、ロシアが蝦夷地に侵入。
[32歳]文化4年(1807)、単身で京橋守山町に転居。
[33歳]文化5年(1808)春、京橋尾張町に転居。
[34歳]文化6年(1809)、京橋山下町に転居、古道の講説を始める。続いて、儒道、仏道、諸道も。
[35歳]文化7年(1810)、織瀬も京橋山下町に転居。 文化9年~15年にかけて「古史伝」初稿成立(その後、随時改訂)。 [38歳]文化10年(1813)4月、『霊能真柱』刊行。 同年、「玉襷」草稿開始。
同年同月、古史講釈開始。
同年4月、下総・常陸国へ旅行、門人増加。
この途次で石笛を得たことをきっかけとして屋号を気吹舎と改めた。
[45歳]文政3年(1820)3月、湯島天神下へ転居。
同年10月、天狗小僧寅吉に初めて会う。
[48歳]文政6年(1823)4月、勝五郎に初めて会う。
浪人:48~63歳
[48歳]文政6年(1823)6月、備中松山藩士をやめる。
同年6月、「勝五郎再生記聞」清書。
同年7月~11月、京都・関西旅行。
「勝五郎再生記聞」を光格上皇の上覧に供する。
同年12月、吉田家から学師に任じられる。
[49歳]文政7年1月、碧川篤真を養子とし、娘(お長)の婿とする。のちに銕胤と改名。 [50歳]文政8年(1825)7月、『古史成文』刊行。 [54歳]文政12年(1829)11月、『毎朝神拝詞記』(改訂・再刻)。
[55歳]文政13年(1830)7月、尾張藩から三人扶持を給される。
同年10月、「玉襷」講説を始める。
[57歳]天保3年(1832)2月、『玉襷』一・三、刊行。
[59歳]天保5年(1834)6月、『玉襷』四、刊行。
同年6月、林述斎(大学頭)から幕府に対して平田大角に関する意見書の提出。 [60歳]天保6年12月、根岸新田に転居した。
[61歳]天保7年(1836)10月、『玉襷』五、刊行。
[62歳]天保8年1月、『大枎桑国考』を光格上皇・仁孝天皇に献呈。 秋田藩士:63~68歳
[63歳]天保9年(1838)5月、秋田藩士に復帰。
[65歳]天保11年(1840)7月、『大枎桑国考』絶板を言い渡される。 [66歳]天保12年(1841)元日、12月30日に著述差し止め・国許退去の処分を受けたことを知る。
同月、秋田へ向けて江戸を出立、4月着。
[68歳]天保14年(1843)閏9月11日、篤胤、没。
没後
弘化2年(1845)8月、故篤胤が、白川家から「神霊能真柱大人」という霊神号を受ける。
嘉永2年(1849)12月28日、篤胤が公儀から赦免された。
嘉永6年(1853)5月、平田家が白川家から平田家先祖に対する霊神号、「平田家祖代々霊神」号を受ける。
安政2年(1855)3月、平田家が白川家から篤胤の二人の妻に対する神号を授与される。