これっぽっちしかない私の存在意義をどのように確立していくか?
文化でも経済でも社会関係でも上を見始めたらきりがなくて、しかしいまのインターネットでは同世代くらいのすごいやつがばりばり可視化されてしまい、自分の不甲斐なさの理由をどこかに求めるしかなくなる… という厳しさはありそうで、これは若い人ほどしんどいのかもしれない
アリスとテレスで描かれてるような90年代ころの中学生の閉塞感というのは、インターネットにいまほどアクセスできない時代の「ここから出さえすれば自由がある」というもので、いまはもうそんな素朴な希望は抱けないのかもしれない。ここに生まれた時点で、自分の天井が見えてしまうから…
「いまここ」に居るのは私しかいないんだ、と言いきかせることでしか、世界にいるヤベー実力者に対する自分の存在意義の正当性を主張できないというの、あまりにも弱過ぎるよなあと思ってはいる
背景:
「職には席数の総数が決まっていて実力によってしかイス取りゲームに勝つことができないのではないか?」
そんなことはないかも?
ヤベー実力者はその人にとってジャストフィットした役割をたまたま手にしたに過ぎないのではないか?
「『全く同じ個体は存在しない』という希少性によって人生の意味は規定できる」
人生の意味=その人生が重要であること
反論
個体の希少性によって意味を規定出来るのであれば、全ての個体に人生の意味が等量与えられることにならないか?
カエルも私も人生の意味は等量しか与えられないのでは?
つまり、相対的に見れば人間社会から見れば、みな人生の意味がないことにならないか?
eniehack.icon なんか、生きてるだけで100点満点みたいな話に似たものを感じるな
「個人aの人生による成果がどれほどの規模であったかによってaの人生の意味は増減する」
ここで、人生の意味=重要な目的を持つ人生、とする
成果の規模とは?
友人に影響を与えた、国に影響を与えた、世界に影響を与えた、宇宙に影響を与えた etc..
ただし、誰も宇宙に影響を与えることはできない
良い影響をより大きな規模で与えられれば人生の意味はあるとより断言できるようになる、的な
カヘインの主張への反論でもあったらしい
反論
我々は成果の規模だけによって人生の意味を解釈しているだろうか?
物語では成果の規模に捉われずにキャラクターを良いと思うことがある
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