言ってはいけない中国の真実--橘玲の中国私論 改訂版--
日本の人口は1600年の関ヶ原の合戦の頃が1000万で、それが江戸時代の最初の100年で3000万へと3倍に伸びた。人口が増えれば、当然、そのぶんだけ食糧を増産しなければならない。 徳川幕府は埋め立てや 灌漑 事業で新田開発を行ない耕地を増やしたものの、島国で平地の少ない日本では限界があった。それでは、3倍にも増えた人口を江戸時代の社会はどのように養ったのだろうか。 速水氏はここで、日本の農業が家畜を使わないことに注目する。日本には牛も馬もいたから、家畜を農作業に活用すればより大規模で効率的な農業が可能になる。だが不思議なことに、江戸時代になって社会が安定すると農村から家畜が消えていく。 その理由は、より少ない人手で米をつくると失業者が溢れて村の秩序が崩壊するからだ。それを避けるために日本では、農地を家ごとに細かく分割し、土地の所有権を絶対化して大規模農家が生まれないようにしたうえで、村人全員が日々〝勤勉に〟農作業に従事することで食糧の増産を図った。システム化(工業化)によって生産力を増大させる産業革命Industrial Revolutionに対して、日本では豊富な人口を活用した労働集約型の〝勤勉革命Industrious Revolution〟が起きたのだ。
日本の場合、江戸を頂点として、地方の主要都市から市場町へときれいな 円錐形になっている。それに対して中国では、行政機関である省都、府、県に対して、行政機能を持たない鎮や市場町の数が圧倒的に多く、下に行くほど 裾 が広がるじょうごのような構造になっていた。 図表2を見れば明らかなように、徳川幕府は行政命令が各藩の官僚機構を通じて末端の農民にまで届く効率的な統治組織をつくりあげた。それに対して中国では、朝廷から省都、府、県へと下りてきた命令はそこで拡散してしまう。県の下にある鎮や市場町の数があまりにも多く、行政機能が滞ってしまうのだ。
日本と中国の社会の違いは、人口の流動性で考えるとよくわかる。 日本では「場所(土地)」が最初にあって、そこでひとびとが協調して生きていく方法が追求された。こうした社会は流動性が低く、たいていはひとつの場所で生まれてから死ぬまでの一生が完結する。これが「イエ」意識を生み、江戸時代の藩から現代の会社まで、日本人は常にイエを生活のよりどころにしてきた。 それに対して広大な中国では移動( 流浪)が避けられないから、場所を基準とした社会秩序は意味がない。人口が多く流動性の高い社会で生きていくには、人的ネットワーク(関係)を張りめぐらせて情報を集め、少しでも有利な場所にライバルに先んじて移動し、宗族のような共同体(関係)を利用して暮らしを立てるのがもっとも効果的な生き残り戦略なのだ。
朋友は論語では「同門の友」の意味だが、その関係にいちばん近いのは 任侠 の義兄弟だ。「侠」は三国志の時代にまで 遡る漢語で、桃園で義盟を結んだ 劉備、関羽、張飛の関係が中国人の理想像となった。張さんの父親と潘さんは軍隊で血よりも濃い 契りを結び、生涯の友となった。 だが、いったん幇を結べばその関係が未来永劫 続くというわけではない。誓いは言葉ではなく、態度や行動で示さなければならない。 朋友やその家族が訪れたときは、自分にできる最高のもてなしをする。潘夫人が空港で4時間も待っていたのは、到着のときに迎えが来ていないという無礼が許されないからだ。歓待の席は地元で最高のレストランで、 物見遊山 を含めあらゆる便宜を図る。それが、自分の思いがいまも変わらないという友への 証しなのだ。
中国は「関係(グワンシ)の社会」だといわれる。グワンシは幇を結んだ相手との密接な人間関係のことで、これが中国人の生き方を強く規定している。このことをもっとも早く指摘した一人が 稀代 の 碩学、小室直樹氏で、『小室直樹の中国原論』(徳間書店)などで「中国人の世界観の基本は幇である」と説いた。 幇は「自己人(ズージーレン)」ともいい、中国人にとってもっとも根源的な人間関係だ。いったん幇を結ぶと家族同様に(ときには家族以上に)絶対的な信頼を置く。幇の外にいるのは「外人(ワイレン)」で、自分とは「関係」のない存在だ(デイヴィッド・ツェ、古田茂美『グワンシ中国人との関係のつくりかた』ディスカヴァー・トゥエンティワン)。 人間が社会的な動物である以上、人間関係が生きることの基礎にあるのはどの社会でも同じだ。その意味で、中国の「グワンシ」が日本語の「人間関係」と根本的に異なるわけではない。人間関係を、家族を中心とする「内輪(自己人)」とその周辺の「他人(外人)」に分けるのもどんな社会にも見られることだ。だがあえて中国社会の特徴を挙げるとすれば、その区別が極端なまでに徹底していることだ。 いつ誰に裏切られるかわからない社会では、信用できる相手を見つけるためのさまざまな工夫が必要になる。宗族は同じ 苗字 でつながっており、台湾や香港では宗教結社や秘密結社も健在だが、そのなかでもっとも大切なのが朋友で、共に死地に赴くことを誓った彼らこそが最後の命綱なのだ。
なぜ、日本人は中国人に違和感を覚えるのだろうか。その理由は、お互いによく似ているからだ。 アラブ人のムスリム(イスラーム信者)に接したとき、私たちは「相手のことがわからない」と不満を感じたりしない。異なる宗教や社会制度のなかで暮らしている人間が「ちがっている」のは自明のことだから、双方が相手を理解しようと努力するのは当然だ。しかし日本と中国の場合、お互いに相手のことを自分と同じだと思っているから、「ちがっている」ことが不満につながる。 日本人が西欧諸国と本格的に接触したのは明治維新以降で、有史以来「文化」はすべて中国大陸からやってきた。 歴史的に見れば、漢字を受け入れた国は中国以外に韓国・北朝鮮、ベトナム、日本の3つしかない。このうち韓国・北朝鮮とベトナムは近代化(国民国家の成立)にともなって漢字を放棄したから、いまでは〝漢字文化圏〟は中国(華人国家)と日本だけだ。 中国からの影響は漢字だけにとどまらない。儒教(儒学)や仏教など、日本人の思想や道徳観を形成してきた文化の枠組み(パラダイム)はどれもMade in Chinaだ。 数学者の藤原正彦氏は『国家の品格』(新潮新書)で、武士道(日本人のこころ)の真髄は 惻隠 の情にあると述べたが、「惻隠」の語源は儒教の経典のひとつ『孟子』だ。このことが象徴するように、日本人の思考はたとえ「愛国」「反中」であっても「中国」から逃れることはできない。 中国人も日本のことを「一衣帯水」「同文同種」と思っている。世界のなかで漢字を使い論語を原文(漢文訓読)で読む〝異民族〟は日本人だけなのだから、これは根拠のないことではない。彼らにとって、日本は中国の文化支配(中華)の一部なのだ。 ところが近代になると、日中の文化の流れは逆転する。日露戦争で日本が西欧列強の一角に勝利すると、中国(清)では空前の日本留学…
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自己人」と「外人」とはいったいなんだろうか。次のような状況で説明してみよう。 たまたま列車で隣り合わせになったひとと話が盛り上がった。すっかり親しくなったあとで、「ちょっと荷物を見ていてください」と頼んで席を立った。戻ったら、荷物といっしょに相手はいなくなっていた……。 こんな話を聞いたら、日本人なら誰もが「ヒドい 奴 だ」と憤慨するだろう。だが同じ話を中国人にすると、「そんな奴を信用したお前が悪い」といわれる。 自己人とは、自分と同じように100パーセント信用できる相手のことだ。人間関係でもっとも大切なのは血縁だが、 情誼(チンイー)を結んだ朋友も自己人の内に入る。 それに対して外人は、文字どおり「自己人の外のひと」だ。「グワンシ」を持たない外人は、信用できることもあれば裏切られることもある。 中国人は外人を信用せず、すべてを内輪(インサイダー)でやろうとしている、というわけではない。それとは逆に、彼らは日々の仕事や生活のなかで外人ともおおらかにつきあう。ただ、どれほど親しく見えても、最後は裏切る(裏切られる)ことが人間関係の前提にあるのだ。 中国人の行動文法では、裏切ることで得をする機会を得たときに、それを 躊躇 なく実行することを道徳的な悪とは考えない。こうした道徳観はいまの日本ではとうてい受け入れられないが、戦国時代の下克上ではこれが常識だった(だからこそ忠義を尽くすことが最高の徳となった)。それがさらに1000年つづくと、ひとを信用して荷物を持ち逃げされても、非は相手にあるのではなく自己責任だという文化が育つのだ。
日本の社会と比較した「グワンシ」のもうひとつの特徴は、個人と個人の関係が共同体のルールを超えることだ。 日本でも、会社のコネで手に入れたチケットを友人に回す、などという行為は一般に行なわれている。しかし機密情報の 漏洩 など、重大なルール違反にまで手を染めるひとはほとんどいない。だが中国では、「グワンシ」のあるひとから依頼されれば会社のルールはあっさり無視されてしまう。これが日本企業が、「中国人は勝手に情報を持ち出す」と不満を募らせる理由だ。 なぜこのようなことが起きるかというと、日本と中国では「安心」の構造が異なるからだ。 日本の場合、安心は組織(共同体)によって提供されるから、村八分にされると生きていけない。日本人の社会資本は会社に依存しており、不祥事などで会社をクビになれば誰も相手にしてくれなくなる。だからこそ、会社(組織)のルールを私的な関係よりも優先しなくてはならない。 それに対して中国では、安心は自己人の「グワンシ」によってもたらされる。このような社会では、たとえ会社をクビになったとしても「グワンシ」から新しい仕事が紹介されるから困ることはない。だが自己人(朋友)の依頼を断れば、「グワンシ」は切れてすべての社会資本を失い、生きていくことができなくなってしまうのだ。 近代の法治社会では、個人的な関係よりも一般的なルール(法)が優先されるのが大原則だ。日本がアジアでいち早く近代化に成功したのも、この 20 年で急速に法化(コンプライアンス化)が進んだのも、日本の社会がもともと「ルール優先」に適していたからだろう。それに対して中国は法よりも人間関係を優先する人治社会で、それが近代化を 阻む大きな要因になっている。
ではない。ヤクザ映画は、中国人にとってもっともわかりやすいコンテンツなのだ。 「仁」や「義」が儒教の思想であるように、日本人の道徳律はほとんどが中国からもたらされたものだ。それを考えれば、ヤクザの美学が中国でも受け入れられるのは当然ともいえる。 だが日本では、明治維新以降、こうした古い人間関係は封建制度の遺物と見なされ、敗戦と米軍による占領によって、明治・大正を含む「戦前的なるもの」は全否定されることになった。こうして仁義はヤクザ映画や演歌のなかでしか描かれなくなり、バブル以後は裏社会のビジネス化でヤクザ映画自体が成立しなくなった。 ところが中国では、いまだにヤクザ映画の古い世界が続いている。中国の会社経営者は「論語」(紀元前500年)を社訓に掲げ、ビジネス戦略を孫子の兵法(紀元前350年)、企業同士の 合従連衡 を「三国志」(紀元2〜3世紀)で語る。中国の政治家も、論理ではなく歴史を参照して自らの正当性を主張する。 毛沢東は文化大革命において儒教をはじめとする宗教を全否定し、科学的社会主義を説いた。ところがその文革が巨大な人災を引き起こすと、共産党はそれに代わる規範を提示することができなかった。 このようにして中国社会は、これまで 馴染んできた儒教(朱子学、陽明学)と孫子、三国志の世界へと戻っていった。これに 司馬遷(史記)の歴史観と 韓非子 の法家思想、道教の民間習俗を加えると中国社会はほとんど説明できてしまう。中国はいまだに前近代性を濃厚に残す社会なのだ。
中国人社員は組織(会社)ではなく個人単位でものごとを考えるから、競争や信賞必罰に抵抗がない。考え方が論理的で納得できないことには従わないから、上司はすべてを理詰めで説明しなければならない(精神論は通用しない)。こうした傾向は欧米人にも共通するから、グローバルスタンダードの成果主義の方が中国人は自分が正当に扱われていると感じる。 日本企業で働く中国人社員の不満は、給料が安い(社宅などの福利厚生がないことを考えると国有企業に比べて日本企業の条件は日本人が思っているほどよくない)、中国人を信用しない(「器が小さい」というのが日本人の上司への一般的な評価)などに加え、「細かな規則が多すぎる」「無意味な残業を強制させられる」「根回しのような暗黙のルールがある」「年功序列で昇進・昇格のキャリアアップが遅い」「日本人は終身雇用だが中国人には雇用の保証がない」などもっともなものも多い。 そのなかで耳が痛いのは、「日本人の社員は高給をもらっているくせに、それに見合う仕事をしていない」という批判だろう。 日本企業のなかには中国勤務を〝島流し〟のように扱い、人事のローテーションで二流の人材を送り込むところがある。こうした日本人社員は英語も中国語も話せず、海外出張はおろか海外旅行の経験すらない場合もある。彼らは中国勤務を〝苦役〟と考え、大過なく日々を耐え忍ぶことだけを考えている。こんなことでは、中国人社員にバカにされるのも当たり前だ。 日本人が中国人を「わかりにくい」と思っているように、中国人も日本人を「理解できない」と感じている。だが自分と相手の立場を入れ替えてみれば、人間関係における不可解な 謎 のほとんどはかんたんに解けるはずだ。 日本ではブラック企業扱いされている〝超合理的経営〟のファーストリテイリング(ユニクロ)…
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中国共産党には伝統的な黒社会の特徴がすべて備わっているとして、2人は以下の7つを挙げる。 ① 伝統的な「政治的幇会」との類似 後漢の 五斗米道、宋・元代の白蓮教、明末清初の洪門など、伝統的な秘密結社は明確な政治綱領を持つ「政治的幇会」でもあった。中国共産党にも、「党のリーダーシップによる、公有制を機軸とする中央集権国家の樹立」という明確な政治的希求がある。 ② 主要な組織構成員が破産した農民と失業した流民である点 歴史的に中国の秘密結社は、生活に困窮して故郷を離れざるを得なかった流民たちが、経済的な相互援助と精神的な相互依存の必要性から組織された。中国共産党も結党時は、組織の主要構成員は破産して流民化した農民や手工業従事者で、その中核を成すのが会党(秘密結社)だった。 ③ 平均主義の手段とユートピアの追求 農民を主体とする政治団体は、歴史的に、すべて平均主義(平等主義)の理想を掲げてきた。黒社会も平均主義が原則で、「大鍋 でともに食い、大 椀 でともに飲む」「福はともに分かち、困難はともにあたる」とされてきた。中国共産党と黒社会のユートピアにほとんどちがいはない。 ④ 思想の排他性 宗教系の秘密結社の特徴は自分たちの信仰を 唯一無二 の正統とする極端な排他性だ。中国共産党もマルクス・レーニン主義と毛沢東思想を神聖不可侵と見なし議論すら認めてこなかった。 ⑤ 政治面での残忍性 黒社会は縄張り意識が強く、自分たちのシマ(縄張り)のなかに対抗勢力の存在を許さない。毛沢東時代の共産党も異分子の存在をいっさい認めず、残忍な粛清によってライバルを排除した。 ⑥ 行動様式の秘密性 黒社会は秘密結社であり、内部の〝秘密〟を守ることが徹底される。黒社会の入会には儀式があり、 掟 への絶対服従が求められる。黒社会の利益が絶対とされ、個人は無条件の献身を…
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中国を理解する6つの視点 このことを最初に確認したうえで、中国を理解するために関氏が挙げる残り6つの視点を紹介しよう(カッコ内は私の補足)。 ① 独特な社会主義 中国は特異な社会主義の国であり、「改革」といっても独特な社会構造はほとんど変わっていない(この社会構造はおそらくは 秦 の時代にまで 遡るのだろう)。 ② 組織構造の基本 中国の組織は省、市、県、郷鎮、さらに企業ごとに「フルセット主義」になっている。ひとつの組織で自己完結できるようになっているのは、経済合理性よりも安全保障を前提としているからだ。各レベルの組織間では強烈な競争意識が働いており、これを「諸侯経済」ともいう。 ③ 過剰人口が背景 こうした枠組みを支えているのが戸口(戸籍)制度、単位、 档案(家族構成、学校の成績、党歴、職歴、結婚から交友関係までの個人情報の記録。行政官になったり国有企業に入社する際に参照される)だ。これらは人口問題(過剰人口)に起因し、中国共産党の統治の基礎になっている。中国人のわかりにくい行動はこの制約によるものだ。 ④ 共産党の存在 改革や市場経済化が進むのは、中国共産党のメリットのある範囲まで(共産党独裁)。 ⑤ 地域による特殊性 改革は試行錯誤で進められており、地方によって対応が大きく異なる(縦割り行政というよりも、中国では地方政府が半ば独立していることから起こる)。 ⑥ 中国の人々 文化大革命を体験した層と、ものごころついたときから市場経済だった層とでは価値観がまったく違う。ただし新世代も中国共産党の統治のなかで生きていかざるをえないことはじゅうぶんに理解している。
川島氏によれば、無から有を生み出す錬金術のからくりは中国の急速な都市化にある。 社会主義国である中国では土地は公有制で、文化大革命が終わって人民公社が解体されたあとは、土地を農民に分配するのではなく、村などの地方自治体が所有することになった。農民は村から使用権を借りて農業を行なっているから、中国の土地には固定資産税がかけられない(そのため、固定資産税の引き上げで地価の高騰を抑えるという 常套手段が中国では使えない)。 そんななかで、経済成長にともなって急速な都市化が始まった。都市化というのは農村から都市に人口が流入してくることで、中国ではこの 30 年間に4億人の人口移動が起きたとされている。人口が増えると、当然、彼らが暮らすための住宅が必要になる。 中国都市部の平均的な世帯人数を3人とすると、4億人を受け入れるのに必要な住宅の数は1・3億戸だ。これに公園、道路、商業用地などを加味すると、中国の都市部の面積は400万ヘクタール増加する必要があった。中国では都市化にともない、九州よりもひと回り大きな土地が宅地へと開発されたことになる。 農地を宅地に換えるには、農民に対する補償が必要になる。だが農民が持っているのは使用権だけなので、これまでは数年分の年収が支払われるだけだった。農民の収入を年間5000元とすると、土地を手放す代償として彼らが手にするのは3万元(約 57 万円)か、高くても5万元(約 95 万円)程度だ(最近は土地収用の相場もかなり上がった)。 中国の平均的な農家は0・5ヘクタール(5000平米)程度の農地を耕している。その補償金を5万元とすると、地方政府(土地開発公社)が土地を取得するコストは1平米あたりわずか 10 元、日本円にして約190円になる。 こうしてタダ同然で手にした土地を、地方政府はいくらで販売しているのだろうか。 ここで先ほどの「…
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中国の「腐敗」が注目されるいちばんの理由は、〝独裁政党〟である共産党自体が、自分たちの組織が腐敗していることを公然と認めているからだ。中国では報道機関は厳しい言論統制の下に置かれているが、汚職についてだけは党や地方政府の幹部への批判が許されている。もちろんそこには「共産党独裁の正統性」という明確な限界があるが、自分たちが腐敗を批判しているのだから、それを報道するなとはいえない。 インターネット上のブログやSNSも同じで、民主化など政治体制やイデオロギーの話題は公安による検閲でたちまち閉鎖・削除されるが、公務員の汚職や特権、理不尽な対応への批判はしばしばネット上で炎上し、政府を動かす原動力になる。建前とはいえ、腐敗を摘発することは市民(共産党員)の義務だから、それを強引に禁止・抑圧することはやはりできない。汚職や腐敗は、中国のひとびとにとって権力(共産党)を批判できるほぼ 唯一 の手段で、だからこそ腐敗の話題がネット上に 溢れるのだ。 共産党はなぜ、自ら腐敗を認めるのか。それはこの党の正統(レジテマシー)がいまなお毛沢東の理想主義にあるからだ。毛沢東にとって、革命の前衛たる共産党は 無謬 でなければならず、党員には聖人君子のごとき清廉潔白が求められた。こうした伝統は現在も健在で、中国は腐敗にきわめて厳しい社会だ。これはジョークではなく、収賄のような経済犯罪で死刑になるような国は中国以外にはほとんどない。 これは、中国のひとびとが「腐敗は許されない」と考えているからでもある。法律家のあいだでは、「経済犯罪で死刑はいくらなんでも厳しすぎる」との意見もあるが、共産党は世論を恐れ、この規定を変えることができない。 中国では、公務員の汚職は共産党の中央規律検査委員会によって摘発される。その調査を「双規(決められた…
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中国の反日が厄介なのは、それが民族のアイデンティティや愛国心と結びついているからだ。 中国の近代は1840年の 阿片戦争からはじまり、その後の1世紀は西欧列強と日本に 蹂躙 されつづけた。その屈辱(国恥)から「中国人」という民族意識と「中国」という国民国家を創造し、国土を取り戻すのが建国の物語だ。その主役は毛沢東の共産党だが、歴史の偶然で蔣介石の国民党が政権を握ったとしても「抗日から中国が生まれた」という物語の骨格は変わらない。 あらゆる建国神話がそうであるように、敵が強大・残酷・卑劣であるほど〝英雄〟たちは光り輝く。私たちにとって不幸なのは、中国の建国神話における「敵」が日本になっていることだが、これは共産党の作為ではなく日中の近現代史からの必然的な帰結、すなわち「どうしようもないこと」だ。 日本の保守派は、中国共産党が極端な歴史の改変を行なっているとさかんに批判している。数千万人の餓死者を出した毛沢東の大躍進政策や膨大な数の無実の知識人を死に追いやった文化大革命の実態が 隠蔽 されているのは確かにそのとおりだが、近現代史における日本の中国侵略は歴史的事実だから、多少の誇張があったとしても「歴史の改変」には当たらない。 反日教育についても、そもそも抗日が建国の歴史そのものなのだから、これを否定することは「歴史を教えるな」というのに等しい。その意味で、歴史教育=反日という主張に民主派を含め、すべての中国人が反発するのは当然のことだ。
日本の政治思想が混乱した理由は、戦前の軍国主義(ウルトラナショナリズム)への反省から、ナショナリズムもろともすべての民族主義を否定してしまったことにある。しかしナショナリズムがなければ国民=民族(ネイション)は成立しないのだから、「日本人」とはなにかがわからなくなってしまう。それでもこれまで大過なくやってこられたのは、地理的・歴史的な幸運から(占領期を除けば)有史以来他国に支配された経験がなく、国民のあいだに暗黙の「日本人性」が共有されていたからだろう。 それに対して中国は、もともとばらばらな地域と民族をナショナリズムによって無理やり国民国家につくり変えたのだから、日本とはまったく事情がちがう。 このように考えれば、中国の「反日」にどう対応するかはものすごくシンプルだ。 中国人の愛国心は、それが抗日から生まれたものであったとしても、国家にとって必要なナショナリズムとして受け入れる。しかしそれが偏狭な民族主義に陥っているのなら、日中間の健全な関係を 毀損 するのだから、当然、批判されなければならない。
国際社会というのは異質な価値観を持つ他者によって構成されるグローバルな空間だから、あらかじめ決められたルールに従わず、ローカルな論理に固執すれば排除されるだけだ。近代がヨーロッパの発明で、国際社会がその理念を強制しているからといって、その現実を否定して生きていけるわけではない。 完全無欠の世の中を夢見ても仕方がないし、人生というのは不完全な世界と折り合ってなんとかやっていくことだ。こんなことは大人になれば誰だって思い知ることだと思うのだが、なぜか「正義」に関する話題になるといっさいの妥協を拒否するひとが現われる、それも、ものすごくたくさん。
第二次世界大戦を象徴する出来事というと、ほとんどのひとがホロコーストと広島・長崎への原爆投下を思い浮かべるだろう。どちらも人類史の画期をなす大事件であることは疑いなく、アウシュヴィッツと広島の原爆ドームは世界遺産に登録され、世界じゅうから観光客がやって来る。 ところで、アウシュヴィッツとヒロシマの持つ意味は、両国にとってまったく異なっている。 ナチスはユダヤ人絶滅を計画し、強制収容所のガス室などで大量虐殺を行なった。ドイツ人にとって、アウシュヴィッツはいうまでもなく「加害」の記録だ。それに対して日本はアメリカから原爆を投下され、多数の市民が死亡し、あるいは重い原爆症に苦しんだのだから、こちらは「被害」の歴史遺産だ。 だが戦後日本は、原爆投下でアメリカの「加害」を責めることはせず、日本人はそれを一種の〝天災〟と受け止めた(そうした国民意識をもっともよく描いたのが映画『ゴジラ』だ)。どこまで意図していたかは別としてこれはきわめて巧妙な戦略で、ヒロシマは国際社会から「人類史的な悲劇」と見なされることになった。 戦後の日本人は、このことで無意識のうちに「加害」と「被害」を 相殺 した。「たくさん殺したかもしれないが、たくさん殺されたのだからお互いさまだ」というのは心理的にはごく自然な反応だが、ここで問題なのは、「加害」の相手と「被害」をもたらした相手が異なることだ。中国が「南京大虐殺」を、韓国が「慰安婦問題」を 執拗 に持ち出すのは、日本人にとって都合のいい「罪の相殺」に対する異議申し立てだろう。 だがこれは、(中国や韓国のひとたちは納得しないだろうが)仕方のないことでもある。国家や民族の物語というのは、古今東西例外なく、善が悪を滅ぼす神話に基づいている。どのような人間集団も、自分たちが「悪」で敵が「…
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ヴァイツゼッカーは次のようにいう。 「戦いが終り、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の 全貌 が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」 この発言の前段では、「すべてをナチスのせいにして、自分はなにも知らなかったということは道義的に許されない」と正当化を否定している。しかし後段では、罪は民族全体のものではなく、あくまでも個人的なものだと強調している。ここでヴァイツゼッカーがいわんとしているのは、次のようなことだ。 「ホロコーストの主犯はあくまでもヒトラーとナチスだが、だからといって自分たちが従犯であったことから目を 逸らすわけではない。ただし、責めを負うのはあくまでも個人であって、民族全体=ドイツ人ではない」 ただし、そうはいっても被害者であるユダヤ人に、犯罪行為を行なった個人を一人ひとり特定し罪をあがなわせることができるはずはない。だからこそ、罪ある個人に代わってドイツ大統領が国家として謝罪するのだ。 ヴァイツゼッカーは、国家と個人を巧妙に分離する。過去の歴史において戦争犯罪の加害者であったとしても、謝罪するのは国家(ドイツ)であり、民族(ドイツ人)を責めることはできない、この格調高い演説のなかで、ドイツ人は二重の意味で免責されるのだ。
リベラリズムというのは個人の人権を最大限尊重する政治思想だから、本人がやってもいないことに責任を取らせることは重大な人権侵害だ。アウシュヴィッツから生還したユダヤ人が、相手がドイツ人だというだけで、「ホロコーストの責任をとれ」と批判することは許されない。その意味で、「個人に罪はない」のは当然だ。しかしそれでは被害者は救済されないから、法人として、ドイツという国家が過去の行為に対して責任を負うのだ。 このように国家と個人の責任を分離することで、ドイツ人とユダヤ人は「加害者」と「被害者」としてではなく、個人として対等の立場でつきあうことができるようになる。いまもドイツ国内には多くのユダヤ人が暮らしている。だからこれは、両者が折り合うことができるぎりぎりの知恵でもあるのだ。 これが「戦争責任」についてのグローバルなルールだとすると、過去の植民地や侵略行為に対しても、国家としての「日本」は責任を負うが「日本人」には罪はない。ただし日本の場合、ヒトラーのような都合のいい悪役はおらず、東京裁判は天皇の戦争責任を免責し、A級戦犯のうち7人を絞首刑に処した。A級戦犯を 合祀 した靖国神社への首相の参拝が問題になるのはこのためで、日本政府は「国」の責任は認めるものの、ヴァイツゼッカーのいう「罪ある個人」という論法を使うことができなくなってしまった。靖国問題において日本は、「A級戦犯に責任がないというのなら、戦争責任はいったい誰にあるのか」と問われているのだ。 このやっかいな問題をここでこれ以上扱うことはできないが、ドイツでも日本でも戦争責任において国家と個人を分離すべきことは変わらない。これは、戦争責任についてあなたが謝罪する必要はない、ということではなく、 謝罪してはならない ということだ。責任は国家…
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かつては、ヒトは複数の地域で独自に進化したという「多地域進化説」が有力だった。だがミトコンドリア・イブが一人しかいないとなれば、現代人の先祖もまたアフリカで誕生し、そこから世界じゅうに拡散していったことになる。現在では、この「単一起源説」が主流になっている。 形態学的に現代人と同様のヒトは 15 万〜 20 万年前に東アフリカで誕生し、 10 万年ほど前にスエズ地峡を越えてユーラシア大陸に渡ったと考えられている。こうしたヒトの集団のなかで、5万年ほど前から西ユーラシア(現在の中近東からヨーロッパにかけての地域)で皮膚色や毛髪色の薄い個体の頻度が増加し、ヨーロッパ人とアジア人の系統が分かれた。
当時の中国大陸は漢帝国滅亡後の長い混乱期で、さまざまな王朝が 興っては消えていった。 その中国を300年ぶりに統一したのが隋だが、実質2代、 30 年余で唐に取って代わられる。618年にこの巨大な統一王朝が誕生したことが、朝鮮半島と日本の運命に決定的な影響を与えた。 当時の朝鮮半島は 高句麗、 新羅、 百済 の3国が 鼎立 しており、百済と高句麗に南北から 挟撃 される立場の新羅はいち早く唐に朝貢して属国となる道を選んだ。それを受けて唐は高句麗を攻め、次いで新羅を従えて百済に迫った。追い詰められた百済が 倭国 に支援を求めたことで、663年に 白村江 で唐・新羅連合軍と百済・倭国連合軍が激突する。この戦いに大敗したことで百済は滅亡し、倭国は朝鮮半島への足がかりをすべて失うことになった。 この敗戦は倭国に激しい動揺を招いた。大帝国である唐との圧倒的な力の差を見せつけられたことから、倭国の指導者たちは「改革」以外に生き残る道はないと覚悟を決め、国号を「日本」と定め、「天皇」を置き、唐と外交交渉ができるよう〝グローバル化〟を進めたのだ(岡田英弘『日本史の誕生』ちくま文庫)。 中華帝国の朝貢・冊封 体制では、中華に属さない蛮族の王は皇帝に 貢物 をして服従の意を示し(朝貢)、その見返りとして贈り物を受ける(冊封)。「皇帝」を名乗ることが許されるのは中華帝国の支配者(天子)だけだが、当時の日本は唐と国交を結ぶにあたって、皇帝に服従する「 王」ではなく同格の「天皇」の号を用いた。これは対内的には唐と対等であるとして王権の権威を示そうとしたものだが、もちろん唐では、日本は 東夷 の属国のひとつと扱われていた(この倭国が天皇家につながるかどうかは歴史家のあいだでも諸説ある)。 新生「日本」では、文字(漢字)、思想(仏教・儒教)、歴史(日本書紀)、政治制度( 律令制)から…
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室町幕府の将軍足利義満は「日本国王」を名乗って明に朝貢したが、これは九州を地盤に明との貿易を独占していた後醍醐天皇の皇子・懐良親王から利権を奪うための経済行為で、義満は自分が中国皇帝の臣下だとは考えていなかった(ちなみに懐良親王も「良懐」の名で明の太祖から「日本国王」に冊封されている)。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら戦国の武将たちも、明の皇帝とは関係なく、自分たちが日本の「王」であることを当然と考えていた。 ところが江戸時代の後期になると、朱子学や陽明学など儒教の新思想の影響で、天皇こそが日本を 統べる正統で、徳川幕府は天皇から統治権を預かっているだけだという考え方が、当の徳川家(水戸藩)から出てくる。それが後の尊王思想となり、幕府から天皇への大政奉還の根拠となった(小島毅『近代日本の陽明学』講談社選書メチエ)。 なぜこのとき、徳川家よりも天皇を優位に置かなければならなかったかというと、やはり中国(東アジア)の情勢が大きく影響している。 満州に興った清が1644年に明朝を滅ぼすと、夷(野蛮人)が華(世界の中心)の皇帝になるという儒教ではあってはならないことが起こる。この「華夷変態」を受けて朝鮮王国(李朝)では、満州族の 辮髪 は儒教の礼に背くとして、中華の正統は自分たちに引き継がれたという考えが広まる。これを小中華思想というが、それに対抗して日本でも儒者を中心に自分たちこそが中華の正統だという主張が起こった。
中華文明の歴史は俗に4000年といわれるが、 19 世紀になってそれを一変させるとてつもない出来事が起きた。いうまでもなく、近代との遭遇だ。 清王朝は当初、イギリスなどの西欧諸国が朝貢を求めているのだと考え、一定の範囲で冊封(貿易権)を与えたりしていた。だが1840年の阿片戦争で、彼らが華夷秩序とはまったく異なる国際秩序(グローバルスタンダード)を持っていることを思い知らされる。それが、主権国家による条約体制だ。 泥沼の宗教戦争を終わらせたウエストファーレン(ウエストファリア)体制では、すべての国は主権(神の権利)を持つ対等な存在で、領土と国民への統治を互いに尊重する内政不可侵の原理が定められた。こうして誕生した近代国家(国民国家)では、国と国との関係は条約によって規定されることになる。 だがこれは、清朝を中心とする東アジアの華夷秩序とはまったく 相容れないものだった。 西欧諸国は清朝を主権国家として、(原理的には)自分たちと対等の関係にあるとした。だが清朝の皇帝や高官たちは、中華と 夷狄 が対等だということ自体をまったく受け入れなかった(というか、相手がなにをいっているのかわからなかった)。当然のことながら、国と国との関係が条約で決まるという論理も理解できなかった。 中国との貿易で大幅な貿易赤字になったイギリスは、銀の国外流出を抑えるために、密輸を黙認するかたちで、インド産の阿片を中国に輸出していた。これに抗議する清朝の強硬派は、イギリス商人の阿片を没収・廃棄するとともに、阿片貿易の拠点だったマカオを武力封鎖した。これを〝条約違反〟として開戦に踏み切ったのが阿片戦争で、イギリスは南京条約によって多額の賠償金を得るとともに香港を割譲させた。この成功が他の西欧列強を刺激し、中国沿海部は同様の手法で次々と切り取られていく。…
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清朝末期に日本で「近代」を体験した中国の知識人が最初に直面したのは、そもそも自分たちの国をなんと呼べばいいのか、という問題だった。 明治期の東洋史の第一人者だった内藤湖南は、「中国は国ではない。巨大な文明である」と説いた(平野聡『「反日」中国の文明史』ちくま新書)。ハードウェアを取り替えてもソフトウェアをコピーすれば同じデータであるのと同様に、王朝が交代しても、たとえそれが元朝や清朝のような他民族(夷狄)支配であっても、〝中華〟というソフトウェアが同一であれば歴史は引き継がれる。 だが近代の国際ルールでは、主権国家には固有の名前がなければならない。反清革命を目指す彼らにとって、自らの国を満州族の王朝である「清」と呼ぶことは問題外だった。 欧米では秦に由来するとされる〝China〟などが使われており、日本では中国人は「唐人」と呼ばれていた。明治になるとチャイナの漢語表記である「支那」が用いられるようになったが、清の知識人たちは外国人がつけたこの名前を「自分の国」とは思えなかった。こうして、清末の政治家で、戊戌の変法で日本に亡命していた 梁啓超 などが「中国」「中華」という国名を提唱するようになった。 このように、「中国」「中国人」は、清朝からの亡命知識人たちが日本で生み出した言葉だ。さらにいえば、中華人民共和国という正式な国名のなかで「人民」「共和国」は和製漢語だし、「共産党」「社会主義」などの思想用語もほとんどが近代日本に由来する。
日本の悲劇は、東アジアで最初に近代化に成功して大きな優位性を獲得したものの、そのときすでに帝国主義が末期に至っていることを理解できず、成功体験の大きさのために第一次世界大戦という「グローバルスタンダードの転換点」に適応できなかったことだ。それに対して中国では、1900年の義和団の乱はカルト的な 拳法 集団による攘夷運動だったが、1915年の対華 21 カ条要求に対する抗日運動や1919年の五四運動ですでに「民族自決」がスローガンに掲げられている。相次ぐ戦勝に酔った日本が気づかないうちに、グローバルスタンダードは中国側に移っていたのだ。 日中戦争が泥沼化すると、日本は戦線を拡大し植民地を増やすという「帝国主義的」戦略で局面を打開しようとした。そのたびに中国では抗日の機運が盛り上がり、「国恥」と「弱国意識」から中国民族のアイデンティティがつくられていった。 「中国人」を生み出したのは日本だった——これが私の独断でないことを示すには、毛沢東の次の言葉を引用すればじゅうぶんだろう。 「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。そしてわれわれはいまなお山のなかにいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地をつくって、その後の解放戦争(日本降伏後の国共内戦)において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は《よいこと》をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」(1961年1月 24 日「毛沢東主席の…
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孫文が軍政や訓政の必要を説いたのには理由がある。ひとつは、その当時はまだ「中国人」という国民意識がなく人民が「民主主義」を理解していなかったこと、ふたつめは中国大陸があまりにも広く公正な選挙が物理的に不可能なこと、そして三つめが中国人が「愚民」であり、「賢人」による支配が必要だと考えたことだ。 民主政治に対する孫文の冷笑的な態度は、アメリカの議会政治を批判した次の発言からも見て取れる。 「選挙についていえば、いささか弁舌 爽やかな人は国民に取りいって選挙運動を行えるが、学問が高尚な人は弁舌の才がないため、見つけだす人がいない。だからアメリカの議会にはおうおうにして愚鈍で無知な人が混在している。その歴史は実に笑うべきものである」(横山、前掲書)。 これは「愚かな人民はエリートによって支配された方が幸福だ」という典型的な愚民主義で、儒教的な価値観から強い影響を受けている。紀元前から「知識社会」である中国では、愚民(バカ)と賢人(エリート)が同じ1票(政治的権力)を持つという政治思想は理解しがたいのだ。
愚民への恐怖は政治指導者だけでなく一般大衆にも共有されている。中国人に政治について 訊くと、「この国の民主化なんて100年たっても無理だ」と 一蹴 されることが多い。香港の民主化デモに対して中国国内でほとんど支持が広がらなかったのは、情報統制や公安の弾圧だけが理由ではなく、都市の知識層のあいだでも無意味でエゴイスティックな運動だと受け取られていたからだろう。 あまり指摘されないが、香港の民主活動家たちは 中国の 民主化を求めているわけではない。香港で完全な民主選挙が実現したとしても、それを全国に広げていきたいわけでもない。なぜなら、それがとてつもない災厄を招くことがわかりきっているから。 欧米のナイーヴなリベラリストが望むように、中国全土で民主的な選挙が行なわれたとしよう。そのとき確実に権力を握る方法は、沿海部と内陸部の人口比率を見れば誰でもわかる。〝民主中国〟の権力者は、沿海部の富を強権によって奪い取り、貧しい内陸部に分配することを公約したポピュリスト以外にはあり得ない。 中国人はみんなこのことを知っているから、(香港と同様に)上海人が上海の民主化を、広東人が広東省の民主化を求めることはあるかもしれないが、中国全土の民主化に賛同することは ぜったいにない。共産党支配が弱まって民主化を求める声が高まれば、ゆたかな沿海部はかつての軍閥のように事実上独立し、自らの権益を守ろうとするだろう。 おそらくこのことが、革命の正統性を失っても共産党支配が続く最大の理由になっている。中国のひとびとは独裁に苦しんでいるが、独裁を必要としてもいる。こうした皮肉な事態が起こるのは、もちろん中国人が「愚民」だからではない。 ここでもやはり、話は同じ場所に行き着く。中国は「民主主義」を実現するには広すぎるし、人口が多…
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「民主主義」は素晴らしいもののはずなのに、なぜこんなことが起こるのだろうか。 これについては、オックスフォード大学教授で、開発経済学の権威として長年アフリカにかかわってきたポール・コリアーが的確な分析をしている(『民主主義がアフリカ経済を殺す』日経BP社)。 コリアーは、民主的な選挙は政治に正統性を与える工夫で、民衆によって選ばれた指導者は暴力で政権を奪った独裁者よりも大きな権力を行使できると述べる。だからこそデモクラシーには、三権分立や法の支配など、権力を制約する制度的な仕組みが不可欠だ。 しかし残念なことに、アフリカの国の多くはこうした制度や慣習を欠いている。そんな社会に「民主主義」を導入すると、当選した政治家は多数派の支持に 応えるべく利権を独占し、少数派を排除・弾圧する。それがときに内戦にまで発展して、独裁政治よりもさらに悲惨な事態がもたらされるのだ。 これはたんにアフリカだけのことではない。現在のウクライナの混乱も、1990年代のユーゴ紛争も、そしてイラクの混乱も、すべて「民主的な選挙」を契機に始まった。デモクラシーは国民国家を生み出すきわめて高度な統治技術だが、民族や宗派の対立を抱える社会にとっては劇薬となる。シリアの国民の多くは、自由や民主政よりも、生命の危険がなかった前のアサド大統領(父)の独裁時代に戻ることを願っているだろう。 アメリカの善意が途上国のひとびとを不幸に突き落とすという〝不都合な真実〟を指摘したのは、ポール・コリアーだけではない。経済学者のジョセフ・スティグリッツ(世界銀行の元上級副総裁)は『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)などで、貿易の自由化や民営化を押しつけるIMFや世界銀行の「ワシントンコンセンサス」を一貫して批判している。