大学教育について (岩波文庫)
https://en.wikisource.org/wiki/Inaugural_address_delivered_to_the_University_of_St._Andrews,_Feb._1st_1867
大学は職業教育の場ではありません。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。専門職の養成のための公的機関があるのは至極当然であり、したがって、法律学校、医学校があるのは結構なことです。そしてさらに、工科学校や産業技術を学ぶ学校があれば、なおさら結構なことでしょう。このような学校制度をもつ国々はその制度をもつことによって一層発展することでしょう。しかも、これらの学校をいわゆる本来の意味での教育のために設立された施設としての大学と同一の場所に、そして同一の監督下に置くことには多少の利点もあるにはあるでしょう。しかし、技術を伝えるということは、各世代が次の世代に手渡すべき義務を担っているもの、つまり各世代の文明と価値を支えているもののなかには入りません。そのような技術は、自らの努力でそれを獲得したいという強い個人的動機をもつ比較的少数の人々にのみ必要とされるものであり、そしてその少数の人々ですら、正規の教育課程が修了するまでは、その技術を有効には使用できないのです。
専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定されるのです。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。有能で賢明な人間に育て上げれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養 ​( general ​ ​ culture) ​の光明をもたらす類のものです。
人間精神が扱うことのできる主題のなかでもっとも複雑なものは、政府と市民社会であります。それゆえ、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけではなく、正しい思考の原理と法則によって、生活体験や、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となるでしょう。そこで、われわれが学ぶ目的は、将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではなく、むしろ、人間の利害に深く関わるあらゆる重要な問題について何らかの知識をもつことにあるのだということを確認しようではありませんか。しかも、そうした知識を正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないこととの境界線を明らかにすること。そして、われわれの目的は、自然と人生について大局的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは怠惰であることを心に銘記しておきましょう。
しかし、今まで見てきたような他の文化的な言語を習得することの利点とは別に、それに劣らぬ重要性をもつ考察があります。ある国の言語を知らなければ、われわれはその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできません。もしわれわれが他の国民についてのそうした知識を持ち合わせていないならば、一生涯かけても自分自身の知性は半分しか開発したことにならないのです。いまだかつて一度も自分の家の外に出たことのないような若者を考えてみましょう。このような若者は、自分が教えられてきた意見や考え方とは異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わないことでしょう。あるいは、そのような人が自分とは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考えることでしょう。もし彼の家族が保守党員ならば、自分が自由党員になる可能性などまったく考えられないし、反対に家族が自由党員なら、保守党員になる可能性などまったく考えられないわけです。一つの家族がもつ考え方と習慣がその家族以外の人間と一切つき合ったことのない少年に及ぼす影響は、他の国についてまったく無知な人間に自国の考え方や習慣が及ぼす影響とほとんど同じだといってよいでしょう。そのような考え方と習慣は、その少年にとっては本性そのものなのです。したがって、自分の考え方や習慣と異なるものはすべて、彼にとっては心の中で理解できない異常なものであり、自分のとは異なった方法も正しいことがありうる、あるいは、他の方法も自分自身の方法と同様正しいものに向かいうるという考えは思いもよらないことなのです。こうしたことは、すべての国々が他の国から学ぶべき多くの事柄に対して彼の眼をふさぐのみならず、そのような態度をとらなければ、各々の国が自らの力で成し遂げることのできる進歩までをも阻止することになります。もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでしょう。外国人は自分たちとは違った考え方をすると思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでしょう。
歴史についての知識ほど、他人の手を通さずに直接得ることが、つまり、ものごとの源泉を探求することが重要になるような知識の部門は他にはないということです。しかしながら、ほとんどの場合、われわれはそのようなことをしないようです。過去の出来事についてのわれわれの知識は、過去の出来事の記録そのものから引き出されたものではなくて、それについて書かれた書物から引き出されたものであります。こうした書物に記されていることは事実ではなく、現代のあるいはそれよりも少し前の時代の人の精神のなかで形成された事実についての一見解にすぎません。そのような書物も大変有益であり、貴重であります。それは、われわれが歴史を理解し、解釈し、歴史から正しい結論を導き出す上で一助となるものであり、歴史解説書の最悪なものでさえ、こうしたことすべてに向かって努力しているという実例をわれわれに示してくれることでしょう。しかし、これらの書物はそれ自体が歴史では決してないのです。そこから得られる知識は〔証拠によるものではなく〕信用によるものであり、こうした書物が最善を尽くしていても、それが与える知識は不完全で偏ったものです。
ある人間の知性と他の人間の知性とを区別する根本的でもっとも特徴的な点は何でしょうか。それは証拠となるものを正しく判断できる能力です。われわれが真実を直接目にする範囲は非常に限られています。つまり、われわれが直覚、あるいは、昔ながらの用語を用いれば「単純理解 45」によって知りうるものはきわめて限られており、したがって、価値ある知識を得ようとするならば、直覚以外の証拠に頼らざるをえないのです。ところが、われわれの大部分は現実の視覚に訴えられなければ、証拠となるものを確実に判断することがほとんどできません。そこで、ごく一般的に見受けられるこの欠陥、そしてほとんどすべての純粋に知的な弱点の根幹をなすこの欠陥を矯正するか緩和することこそが、知的教育のもっとも重要な部分となります。
誰もが推論を好んで用いるのではありませんが、しかし人は誰でも経験から結論を引き出すと言い、また実際そうしようとします。しかし、自然科学を学んだことのない人は、ほとんど誰もが、経験が解釈される過程が実際どんなものであるかをまったく知らずに、経験から結論を引き出そうとします。もしある事実が一度または何度か起こり、別のある事実がそれに引き続いて起こったりしますと、人々はこれで一つの実験をしたと思い、一方の事実が他方の事実の原因であるという説明に向かいがちです。もし人々が、科学的実験には多くの細心の注意が必要であること、例えば、実験対象に関わりのない要素すべてを排除するために用意周到に随伴状況を設定して変更すること、あるいは、妨げとなる要素が除去できない場合にはその影響を正確に計算してそれを考慮に入れ、研究対象となっている要素そのものに起因するもの以外は何も含まないようにするということを知りさえすれば、つまり、これらのことに注意を向けさえするならば、自分たちの意見が経験的に証明されているとそうも簡単に確信しないでしょう 49。
この究極の目的とは何であるかと申しますと、それは、自分自身を「善」と「悪」との間で絶え間なく繰り返されている激しい戦闘に従軍する有能な戦士に鍛え上げ、人間性と人間社会が変化する過程で生じて解決を迫る日々新たな問題に対処しうる能力を高めることであります。このような目的は一度心に根をおろしたならば、永くそこに定着するのが普通であります。そしてそのような目的がわれわれの胸中にあることで、われわれは絶えず高度な能力を働かせるようになり、また年を経るとともに蓄えてきた学識や能力をいわば精神的資本と考えるようになります。この資本とは、何らかの点で人類を現在よりもより賢明により善良にする方法、あるいは人間生活のすべての側面を現在よりももっと合理的な基盤に置く方法があれば、それを支援するために惜しみなく費やされるのです。われわれのなかで、自分の知性を使って同胞の生活を少しでもよくしようとする機会を増やそうとしない人は誰一人いません。このささやかな貢献を結集してより大きなものにするために、われわれの時代の独創的な精神の持ち主たちによって産み出された最善の思想に精通する努力を常にいたしましょう。この努力を通じて、われわれはどんな社会運動がわれわれの助力をもっとも切実に必要としているかがわかるようになり、そしてまた、われわれが関わるかぎり、よき種子が岩石の上に落ちて、もしも土の上に落ちたならば芽を出し花開いたはずなのに、土に達することなく朽ちていくということのないようにすることができるでしょう。