もっと言ってはいけない(新潮新書)
進化による変化や生物学的差異の多くは、遺伝子の発現の調節(遺伝子のスイッチがいつどこで入ったり切れたりするかの範囲、タイミング、位置)によるものだ。人間の差異のほとんどは、 2万の遺伝子のスイッチが特定の組織、特定の時間で入ったり切れたりすることによって生じる。これは、ゲノムの調節領域(プロモーター、エンハンサー、マイクロ RNAといった分子のスイッチ)のちがいに基づいて表現型に差が出るということでもある。現代の遺伝学では、身長や体重、性格や行動、精神疾患にいたるまで、表現型のちがいの大半は「遺伝子のネットワーク」の相互作用(ポリジェニック)から生じると考えられている。  従来の遺伝学では、突然変異が自然淘汰を通じて集団のなかに浸透していくには長大な時間がかかるため、現代人は遺伝的には原始時代とほとんど変わっていないとされてきた。だがさまざまな事実が、進化が逆に加速していることを示している。これは遺伝がきわめて複雑な相互作用だからで、そこには自然環境だけでなく社会環境との相互作用も含まれる。これがダーウィン的な「自然選択」説に対する「社会選択」説で、私たち現代人は遺伝と文化の「共進化」の産物なのだ。
伝統的社会に暮らすひとたちの IQを測ると、それが生得的なものか文化のちがいによるものかは別として、かなり低いことが知られている。アボリジニの IQは 1960年代から何人かの認知科学者が計測しているが、 55 ~ 60程度とされている。   1981年に西オーストラリア大学のジュディス・カーリンズが、アボリジニと白人の子どもの知能を比較して興味深い発見をした【 46】。  色や形のちがう 20個の積み木を子どもの前に置き、 30秒間でその場所を覚えさせる。その後、いったんばらばらにし、元の位置に戻すよう指示する。  空間記憶能力を測るこのテストで、アボリジニの子どもは同い年の白人の子どもをはるかに上回る成績をあげた。白人の子どもの知能を 100とすれば、アボリジニの子どもは 1標準偏差以上も高い 119だったのだ。  カーリンズは、アボリジニの空間記憶能力がきわめて高いのは砂漠地帯に暮らしているからだと考えた。砂漠で自らの場所を見失わないようにするには、わずかな目印のちがいを正確に記憶できなければならない。  カーリンズは触れていないが、この推測が正しいとすれば「加速化する進化」の有力な証拠になる。なぜならアボリジニは、もともと砂漠には住んでいなかったから。オーストラリア沿岸部の緑ゆたかな場所で暮らしていた彼らは、 1770年のオーストラリア「発見」以降、植民者(侵略者)である白人によって砂漠へと追い立てられたのだ。  アボリジニの高い空間記憶能力は、 I Q(知能指数)が知識社会への適応度を測っているにすぎないことを明確に示している。知識社会(文明世界)とは別の環境であれば、伝統的社会のひとたちのほうがずっと〝賢い〟のだ。
私たちはごく自然に、「アジアは貧しくヨーロッパはゆたかだ」と考えている。中国やインドはどこもひとで溢れているが、ヨーロッパの都市は路地を一本入れば人影はなくなる。これだけを見れば、貧富の理由は、乏しい稼ぎをたくさんの家族で分け合っている国と、少数の国民で富を分配している国のちがいに思える。  だがこの「常識」は、 18世紀半ばの産業革命以降に生まれたものだ。  当たり前の話だが、人口が多いのはそれを養うだけの食糧を生産できるからだ。食糧が乏しければ家族を増やすことはできない。中世ヨーロッパでも女性はたくさんの子どもを産んだが、飢饉になればほとんどが栄養失調で死んでしまった。  なぜ洋の東西で人口がこれほどまで違うのか。この謎はものすごく簡単に説明できる。アジアが稲作なのに対し、中東からヨーロッパにかけては小麦がつくられてきたからだ。  同じ作物を毎年植えると、土地が瘦せて生育が悪くなる。これが連作障害で、小麦栽培ではずっとこの難題を解決できなかった。農家は、小麦を収穫したら翌年は羊などを放牧し、その翌年は休耕することで地力を保つしかなかった。──灌漑や機械化、品種改良、化学肥料などの「緑の革命」で小麦の単収が大きく上がったのは 1960年代になってからだ。  それに対して水田は、水といっしょに土壌に溜まった毒素を洗い流すから連作障害とは無縁だ。日本でも暖かい地方で二期作が行なわれてきたが、亜熱帯の中国南部や東南アジアでは三期作も可能だ。  同じ面積の土地があったとして、そこで小麦を栽培すると 3年に 1回しか収穫できない。ところが水田で米をつくれば毎年収穫できる。水耕栽培というのは農業におけるとてつもないイノベーションで、養育可能な人口を一挙に増やした。  アジアの人口が多いのは、稲作によってたくさんの子どもを育てることができる、ゆたかな社会だったからだ。だがそれは同時に、狭い地域に多くのひとが暮らす社会でもあった。これほどまで人口密度の高いムラ社会は、狩猟採集社会や遊牧社会はもちろん、小麦作のヨーロッパにも存在しない。だとしたら、これが知能に関係しているのではないだろうか。
アメリカにおいて「人種と知能」は最大のタブーで、 1960年代のジェンセン・スキャンダルや 1990年代の『ベルカーブ』がはげしい論争を巻き起こした。そこに、「黒人が経済的に成功できないのは遺伝的に知能が低いからだ」との含意があると見なされたからだ。ヘッドスタート(貧困層への教育援助)やアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を批判する保守派は、これは差別ではなくたんなる科学だと反論する。それが終わりのない罵倒の応酬になっていくのは、昨今の日本のインターネット空間で見られるのと同じだ。  だが認知心理学者のリンが収集したデータを見るかぎり、アメリカの黒人の IQはけっして低くはない。 I Q 85というのはサブサハラのアフリカ人( I Q 70)より 1標準偏差も高く、中東や北アフリカ、南アジア、中央アジアなど世界の多くの国と変わらない。それにもかかわらず黒人の置かれた状況が、こうした地域からの移民より劣悪だとすれば、その理由として「差別」の存在を否定できないのではないだろうか。  アメリカの履歴書には人種による選考を避けるために顔写真を貼る欄がないが、アフリカ人に特徴的な名前(イマーニやジャマール)だと明らかに面接に呼ばれにくくなる。事業者に差別意識がなくても、「黒人労働者は職場の定着率が低い」というような過去のデータから忌避されるのだ(統計的差別)。黒人の生徒に人種を意識してテストを受けさせると、自分が「黒人」だと考えただけで成績が下がってしまう「差別の内面化」や、自分は人種差別などしないという白人が、職場などで白人をえこひいきする「無意識の偏見」もさまざまな実験で繰り返し確認されている。こうした見えない差別が黒人の苦境を生み出していることはまちがいない。──その一方で『ベルカーブ』では、 IQを揃えると黒人の方が白人よりも専門職につき、高い年収を得ていることが統計的に示されている。
ホロコーストの「人類史的悲劇」を経たあとでは、もはや何者も優生学を弁護することはできない。身体的特徴は遺伝しても、知能や性格、精神疾患などの「こころ」は遺伝してはならないというドグマがこうして生まれた。  そこから半世紀の論争を経て、行動遺伝学や進化心理学が膨大なエビデンスをもとに「こころ」もまた(ある程度)遺伝することを科学的に証明した。  ここまでは多くのひとが同意するだろうが、それを集団に拡大し、「地域によって経済発展の度合いが異なるのには遺伝的な背景がある」という遺伝と文化の共進化論はいまも「差別」のレッテルを貼られたままだ。  しかしそうなると、遺伝をいっさい考慮しない「空白の石版」理論で世界の発展のちがいを説明しなくてはならない。