「ロダンとカリエール」展についての雑感
これまでカリエールといえば、「人物の気配をモヤモヤした筆致のなかに漂わせた雰囲気重視の画家」というイメージ程度にしか考えていなかった。技量面において、とてもロダンと比肩できる存在ではないと思い込んでいたのだが、今回の展覧会では第5セクションの女性立像三対の展示で深みのある絵画空間を披露しており、スフマートに限らないカリエールの筆触の魅力を再発見することができた。展覧会全体を眺めれば、ロダンとカリエールの釣り合いは意外と取れているのかもしれない。二人の作家の比較検証という展覧会コンセプトは決して失敗ではないようだ。
いちばん興味を惹かれたのは、第4セクション「ロダンとカリエールにおける象徴主義」のパートだった。このセクションは、お互いに影響を与え合ったロダンとカリエールの作品を象徴主義の観点から共通項を浮かび上がらせる狙いなのだが、個人的には、絵画/彫刻というジャンルの差がもっとも違和感なく結び付いたパートだったように思う。
カリエールの絵を「彫刻的」とは思わないが、ロダンの彫刻は相当に「絵画的」である。ロダンの作品を見るとき、激しく複雑に隆起する筋肉のうねりをひとつひとつ目で追うよりも、彫刻全体が視野におさまるくらい距離をとって、具体的な対象を模したのではない「抽象的なひとまとまりの量塊」として眺めると、「絵画的」な要素がますます際立ってくる。絵画的な要素とは、特にこの場合、光と影のコントラストのことを指す。
たとえば、私の身長を優に超えるブロンズのトルソ像《腕のない瞑想》。照明が当たると、螺旋状に捻った上体やら波打つ背中の筋肉やらに光と影の階調がいくつも生まれる。しかも、この光と影の階調はカオティックなようでいてじつは整然とした秩序がある。どの彫像にも、ハイライトと中間のトーンと最暗部が授けられていて、彫像が床や壁に落とす影は平面的に「決まっている」。あたかも、かたちを決定することより光と影の秩序を調停することが優先させられているかのようだ。
推測だが、ロダンの場合、まず対象を見て、その対象に宿る光と影の段階を目で整理して捉え、その視覚的効果を表象すべくかたちにコントラストをもたせるという手順で制作に臨んでいたのではないか。その結果、ロダンの彫刻は、ひとつの完結したかたちに収斂することがなく、かたちの周囲にある空間をも取り込んで、いまだ生成途上にあるような激しさを湛えている。
ロダンの彫刻の隆起の激しさを、彼の気質の激しさや性的な情動と直結させて語るのは間違いであるし、手わざの押し引きの強さを実在感の確かさと比例して読み取るのも間違いである。ロダンの彫刻においては、空間の生成途上のプロセスに参入すること自体が、ラディカルな激しさを伴うものなのだ。
彫刻と照明の関係をベストに調整するのはとても難しい作業なのだろうが、最後の展示室に使われた三角型の仮設壁はうまく機能していないように思えた。部屋(特に手前のゾーン)を余計に暗くし、彫刻の光と影のコントラストを潰してしまっているように見えたからだ。
[展覧会情報]
「ロダンとカリエール」展(国立西洋美術館、2006.3.7~6.4)
(2006/04/03)