岩井俊二『Love Letter』(2022/11/23)
岩井俊二『Love Letter』を観る。岩井俊二は「ノスタルジーの魔術師」なのだな、と思う。彼の映画をすべて観たわけではないので間違いもあろうが、これまで触れてきた範囲の映画を観ていて思うのは斬新さではなくむしろ「懐かしさ」「ノスタルジー」なのだ。パソコン通信が登場する『リリィ・シュシュのすべて』にしても、現代を舞台にしてスマートフォンも登場する『リップヴァンウィンクルの花嫁』にしてもそれは変わらない。「懐かしい」映画という印象が彼の映画から醸し出される「安定感」「岩井俊二印」と繋がっているように映る。彼の長編デビュー作であるというこの映画を観ていてもその「岩井俊二印」を堪能することができた。
ではこの映画における「ノスタルジー」の源泉はどこにあるのか。それは私はこの映画で登場する「郵便」もしくは「手紙」という媒体にあると思った。今だとインターネットで、スマートフォンやパソコンを通してサクサクと送受信し合って終わりそうなこのストーリーは実に2時間近い時間を費やして丁寧に語られる。私たちは自然と「文通」「ペンフレンド」の記憶を呼び起こされる。この「文通」的性格を帯びた関係性は『リリィ・シュシュのすべて』でのパソコン通信に受け継がれることになるだろう。テクノロジーこそ違えども、実に古典的な関係性が築かれるということになる。
そしてこの映画でなおかつ丁寧に語られるのが印象的な主人公渡辺博子の恋人/彼氏である藤井樹、そしてその藤井と同姓同名ということでラブコメめいた学生生活を送らざるをえなくなる藤井樹(こちらも渡辺博子を演じる中山美穂が一人二役で演じるというトリッキーな構造を備えているので、語るにあたってややこしくなるのだが)である。彼らの学生生活の記憶を綴ったパートで、私もまた同級生の女子を意識せざるを得なかった時期があったということ(平たく言えば初恋だ)、あるいはそれこそ苦しいいじめやからかいを味わわなければならなかったことなどが思い出させられた。いや、もちろんだからイカンと言いたいわけではなくその「ノスタルジー」を積極的に評価したいのだった。
そんな「ノスタルジー」を引きずりながら、しかし私たちはいずれ学校を卒業しなければならない。恋人藤井樹の死(もうひとりの藤井樹にしてみれば元クラスメイトの死)を背負いながら生きていかなければならないという現実的な問題も登場する。この映画はそもそもその藤井樹の三回忌から始まっている。そこで悪戯心から書いた手紙が2人のかりそめの関係をもたらすわけで、そうした関係を通して渡辺博子と藤井樹が相互に死者を正当に/丁重に弔うプロセスを行っていくことになる。難しい用語を敢えて用いるなら「グリーフワーク」というやつだ。だからこそこの映画はカタルシスをもたらす。映画そのものが擬似的な「藤井樹の葬式とその終焉」となっている、と言えば伝わるだろうか。
ここまで書いて、私は実を言うとこの映画をナメていたかもしれないなと反省した。ただ単なるラブコメめいた出来事を綴った映画、という先入観を抱いて観てしまったのだけれど、なかなかここまで書いてみると「深い」テーマを備えているとも言えるのではないかな、と。さすがに今となっては「ワープロ」で手紙を書く渡辺博子と藤井樹、及び個人情報を免許書のコピーで渡す藤井樹の姿に「隔世の感」を抱く人もいるのかもしれないが、しかしそうした細部の古さに囚われず全体を見通して「ノスタルジー」に浸れるのはそうした古典的な物語としての完成度故ではないかなとも思ったのだった。
ただ、アラがないわけでもない。2人はずいぶんまめに手紙を書く。いったいこの映画で作中の時間はどれくらいの長さに設定されているのだろう。あれだけやり取りをしていたら(速達で送っているわけでもなさそうだし)相当に時間がかかるのではないか。あるいは藤井樹が熱を出して倒れる場面でもあんなに高温の熱が出たら事態は映画が描くよりも深刻になっている(それこそ「瀕死」だろう。コロナに感染してもあんな熱は出ないはずだ)。75歳と設定されている篠原勝之があれだけの長時間走れるか、というのもある。だが、それもまた微笑ましい瑕疵と笑ってやり過ごせるのは、私も結局は魔術師・岩井俊二の魔術にノセられてしまったということなのかなとも思う。