リドリー・スコット『ブレードランナー ファイナル・カット』(2022/11/15)
リドリー・スコット『ブレードランナー』を観る。泣く子も黙るSF映画の金字塔にして、今なおリスペクトされ続けている名作である。近年の達成としてドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー2049』という続編が作られたことも耳目を集める結果となったわけだが、私は今回改めて観直してみてこの映画は「名作」ではないかもしれないな、と思った。いやマイルストーンというか、空前絶後の「未来感」を作り出したことはもちろん評価したいのだけれど、ドラマ的には意外とぎこちないというかバランスが悪く、ストーリーがすんなり腑に落ちるものではないとも思ったのである。とはいえ、この作品が生まれたことが後のSFを大きく変えたという事実は認めたい。
https://www.youtube.com/watch?v=UNILYK8zIfg
スジは単純である。近未来、社会は人造人間を作り出すまでにテクノロジーを進化させた。タイレル社という大手企業によって作り出された人造人間はレプリカントと呼ばれ、人間よりも優れた身体性と知性を発揮する存在として畏怖される。彼らは人間の指令の下過酷な労働に甘んじていたのだけれど、ある時反乱を起こして脱走してしまう。人間側はそのレプリカントを捉えるための存在としてブレードランナーと呼ばれる役目の男に指示を出す。かくして、レプリカントとブレードランナーの抗争が始まる……というのがこの映画のプロットである。さて、この映画から何を読み取れるのだろうか。
この映画を観ていて、私は「もし自分がレプリカントだったとしたらどうなのだろう」という空想を弄んでしまった。それは言い方を変えれば「もし自分が『被造物』『作られた存在』だったら」ということになる。だがこの問いというのもおかしなもので、考えてみれば私たちは皆ある意味では両親によって「作られた存在」なのである。自分からこの世に生まれてきたいと願って生まれてきた人なんていないだろう。それがこの世の習わしである……と書いてくると何だかしょーもない人生訓めいてしまうが、一種の真理ではないかと思う。では、なぜ私はそうであっても「もし自分がレプリカントだったら」と思ってしまうのか。
私はこの映画のレプリカントが「死」を恐れるところに興味を持った。もちろん私たちは皆、いずれは死すべき定めにある。泣こうがどうしようがこの定めは変えられない。なら、私たちはこんな風に超然としていられないはずだ。このあたりでこの映画は苦しいところに追い込まれていると言える。人間だって誰だって「死」は怖い……のなら、レプリカントだけがかくも特別に「死」に意識を向ける動機が見えないことが不自然に感じられる。それは決して「描かなくても伝わるでしょ」と済ませられるものではないはずだ。そこでこの映画はマイナスに向いていると思う。
だが、そうした「死」を恐れるレプリカントという設定はそのまま「この私」の設定と重なるのではないかとも思ってしまった。私自身は自閉症を抱えて生きているので、それゆえに自分自身がなぜ人と違ってしまうのか、なぜ人は私という人間を異端を見るように見るのか、という苦悩をずいぶん長いこと抱えてきた。そう考えてみると私がレプリカントに感情移入してしまう理由も読める。端的に言えばレプリカントは、あるいはそれを追うデッカードという男は、「この私」だからである。だからこそスクリーンを走り回る「この私」に私は素朴に感情移入して楽しめる、ということになる。
……と、何だかよくわからない整理をしてしまったがレプリカントの設定の中に私は「この私」に似たものを見出し、勝手に自己陶酔してしまっていた、ということで充分かもしれない。自分自身とは複製可能なのか、複製できるような自我を持つ存在が果たして「死」を恐れるのか。そんな問いが頭の中に浮かんでくるのだけれど、これに関してはもっと脳科学的に本格的にアプローチしなくてはならないためここでは触れられない。私自身自閉症の診断を受けた際フォークト=カンプフ検査(この映画で出てくるテスト)を受けたことがあるため、その記憶もあってレプリカントに肩入れしてしまうのかもしれないな、とも思う。