マイケル・エプスタイン『ジョン・レノン、ニューヨーク』(2022/11/23)
マイケル・エプスタイン『ジョン・レノン、ニューヨーク』を観る。いったいジョン・レノンとは何者だったのだろう。いや、伝説/レジェンドと化したミュージシャンに対してこのようなことを言い出すのも変だが、私は昔から「ソロになってからのジョン・レノン」がわからないまま来てしまった。ビートルズ時代からもジョンの曲は「どこを切ってもジョン印」と呼べるほど尖った要素が含まれていたが、それがソロになってさらに剥き出しになっているのに触れるとなかなかとっつきにくい印象を感じてしまう。もちろん名曲はたくさんあるのだけれど、それでもそうしたとっつきにくさ故にジョンのことは敬遠してきたのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=uQVbxcagB0E
この『ジョン・レノン、ニューヨーク』は、そんなジョンがニューヨークで過ごした9年間を日記を読んでいくように丁寧に追ったドキュメンタリーである。泣く子も黙るリバプールの不良少年だったジョンがどうして彼にとっての異国/異郷であるアメリカに渡ったのか、それについてわかりやすく触れられるかというとさにあらずなのだけれど、しかし母国イギリスでもビートルズ時代に散々マスメディアやビートルマニアを騒がせたやんちゃなヒーローだけはあって、アメリカでも話題を次々と提供するお騒がせなキャラクターを発揮することはわかる。政治に首を突っ込んだり、かと言えばヨーコと一緒にベッド・インしたり、などなどだ。
でもこの支離滅裂と言えば支離滅裂な、よく言えば八面六臂の活躍ぶりが彼の中で矛盾せず(あるいは矛盾などなんぼのもんという大らかさで)共存というかアウフヘーベンされていたところがジョンの凄さなのだろう。観るにつけ、ますますジョンのことがわからなくなる。ただ単に場当たり的に政治状況に首を突っ込んで楯突くだけが取り柄の、定見なんて何もない人のようでもある。いや、もしかしたら(という留保をつけてしまうのがリアルタイムで彼を追えなかった情けなさなのだけれど)本当にジョンという人は「食わせ者」であり真心ブラザーズ歌うところの「現実見てない人」だったのかな、とも思わされる。
そんなジョンはしかし、この映画で実にたくさんの人に愛されていたことがわかる。元ビートルズ時代を「共闘」してきたポールとリンゴとも実は仲が良い兄弟のような絆で結ばれていたことが語られるし、ヨーコや息子のショーン、周囲のスタッフたちとの絆も言わずもがな。レコーディングに入れば酒を浴びるように呑むちゃらんぽらんさを発揮する、実に「困ったちゃん」だったジョンはそれゆえにきっと多くの人に見放されてきたのだろうが、しかしそのちゃらんぽらんな性格の根底にある真っ直ぐで裏表のないキャラクターが周囲を虜にしていたとも言えるのではないかと思われてくる。
そう考えていくと、ジョンはますます謎である。政治に定見があったのか、場当たり的なコメンテーターに過ぎなかったのか。ミュージシャンとしても酒ばかり呑んでロクに働かないぐうたらぶりを発揮するかと思えば、シラフになった時に神がかり的な冴えを見せ周囲を唸らせる。ジョン自身が「転石苔を生ぜず」を地で行くパブリック・イメージの変遷を楽しんでいたフシがあった、という説を思い出してしまう。不良少年から立派なビートルへ、そしてヨーコの旦那にレベルアップしてそこからハウスハズバンドへ……というように。ならばその果てに非業の死を遂げた彼が楽聖もしくは聖人君子の如き存在になってしまったことは歴史の皮肉なのか。彼はやはりただの不良少年の成れの果てでありヤンキーだったのだとこのドキュメンタリーを観て思った。
それにしても、ジョン・レノンを語ることは難しい。彼の言葉は実にフラットだ。だが、そんな彼によって多分義憤から出てきたと思しき「女は世界のニガーだ(字幕では「奴隷」と訳されているが)」という言葉が当時の黒人の識者のシリアスな反応を呼び起こした様子が語られる。そうした「ジョンに倣って自分も勇気を以て何かを言いたい/語りたい」と思わせる力があった、ということではないかと思う。これはただ彼が泣く子も黙るかつてのビートルだったというだけで説明がつく話ではないと(根拠はないのだけれど)思うのだ。ジョンの、こちらの背筋が凍るような素直さや素朴さはこのドキュメンタリーを観た私たちをもまた「言いたい/語りたい」と思わせる力を持っているのではないか。少なくともこのドキュメンタリーを観た後では彼を楽聖として敬して遠ざけることはできなくなるのではないか、と思う。