ジョン・タトゥーロ『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(2022/11/12)
ジョン・タトゥーロ『ジゴロ・イン・ニューヨーク』を観る。「真理が女であると考えてみては――」という仮定から始まるのはニーチェ『善悪の彼岸』だが、この顰に倣って私もつい「真理が女性だとすると、厄介だなあ」と呟いてしまいそうになる。もちろん昨今のポリティカル・コレクトネスの基準で言えばこの発言は「アウト」なわけだ。セクシャリティは千差万別でありきれいに「男」と「女」と分けられるものではないこと、「男」や「女」というカテゴリの中でも人はひとりひとり分かれうる個性豊かな存在であること。その個性を尊重しよう……と優等生っぽく語ることでお茶を濁す。それが処世術としてベターであることはわかっている。だけれども、それでも思うのだからしょうがない。「女性は真理なのだろうか」と。
https://www.youtube.com/watch?v=Kmdje2sTPeQ
粗忽なことに、『ジゴロ・イン・ニューヨーク』を私は勘違いしていた。これはウディ・アレン監督の映画だと思い込んでいたのだった。だが、「ウディ・アレンの味」を探しながら観るのもこの映画に関して言えば一興かもしれない。古本屋の店主でありながら店を畳む羽目になった男と、花屋を営み生花も嗜む彼の友人。とある出来事がきっかけで、ふたりが一念発起して男娼に乗り出す。最初は順調に行くかと思っていたこの商売だったが、とある未亡人と花屋の男との出会いがきっかけで真の愛について彼は考え始める。果たして「ジゴロ」の行く末は如何に(原題は「Fading Gigolo 」、つまり「消え去るジゴロ」という意味だ)。
ウディ・アレンの映画の味とは何だろう。それは、一見すると軽薄でポップな(カッコよく言えば「洗練された」「オトナの」)味わいの中に悲しみをイヤミにならずクサくもならないように適度にかつ絶妙に溶かし込んでいることだろう。その「悲しみ」の正体とはいずれ人が死ぬ運命にある動物であることや、あるいは恋焦がれてしまったり肉欲を味わってしまったりすることから逃れられない人間存在の悲しい性であったりするのだろうと思う。この映画でもそれは変わらない。すでに老いて「枯れて」もおかしくないウディの助平なキャラクターと、マッチョな男に見えて実は草食系っぽくもあるジョンのキャラクターが好対照を成しており、このあたり単純に楽しめる。
実を言うとこのジョン・タトゥーロという人、私は初めて映画で拝見したのだった。だから彼の個性を映画の中に見出すことは難しい。だが、そうしたウディ・アレンから受け継いたマナーをここまで活かしたというところで彼のスマートさというか、軽妙洒脱なセンスを見出すのもあながち間違いではないように思うのだ。音楽も実にジャズをベースにした渋いものであり、女性たちもセクシーに撮られていると思う。ユダヤ教に言及したジョークやトリビアがキツすぎないか、と思わなくもないがこのあたりは私の読み取れないこだわりがあってのことなのだろうと思う。そのあたり、私としては脱帽するしかない。
この映画、実に「渋い」と思う。ウディから受け継いたものを活かしつつ、それがエピゴーネンというか猿真似になっていないという点はもっと評価してもいいと思ったのだった。まあ、あまり書くと私がウディ・アレンすらぜんぜん知らないがゆえの醜態を晒すことになるので控えようか。冒頭の哲学的(?)繰り言をもっと広げてお茶を濁すことにしたい。まことに、女性とは厄介な存在だ……この映画はある意味かなり「男臭く」なる危険を孕んでいたとも言える。ウディがフェミニズムと相性が悪い人物であることは昨今のスキャンダルを待つまでもなく、映画を観るだけでわかるだろう。ウディの映画はある種「男ウケ」するものだ。
だが、ジョン・タトゥーロによるこの映画はそんな「男ウケ」を引き起こすところを持ちながらも同時に、もしかするとそんな女性の心をも掴んでしまうのではないか、という気もする。セックスが洒脱に描かれていてそれがオシャレであり生々しくないことからそう思ったのだけれど、これは読者諸賢の異論を待つしかない。私はもっとこのタトゥーロの映画を観てみたくなった。意外な繊細さを持ち、かつ知性派でもあり才人でもあると思ったのである。それがもっと発揮されれば「ウディ・アレンの外套の中から現れた」人物としてもっと評価されるのではないだろうか?