エディ・スターンバーグ『あの頃輝いていたけれど』(2022/11/10)
エディ・スターンバーグ『あの頃輝いていたけれど』を観る。「完走」したわけではないのでエラそうなことは言えないのだけれど、自閉症/発達障害を抱える当事者である私の目から見て、『グッド・ドクター』や『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』といったドラマでその自閉症がどう取り扱われているか鑑賞するにつけ「時代は変わった」と強く感じさせられる。かつてはクラスにひとりか親族にひとりかはいたかもしれない「変わり者」であった自閉症者が実は医学的に根拠があって存在するものであること、そして多様化の時代に彼らを受け入れる必要があることを語るドラマの隆盛は、これはもう現代が必然的に要請するものであり後戻りはできないのかもしれない。いや、戻って欲しいわけではもちろんないのだけれど。
およそ20年前、超人気アイドルグループの一員として名を馳せたヴィンス。だが、それはもう彼にとっても黒歴史であり今は路上ライブを行っても誰も聞きに来ない。そんな身にまで落ちぶれて彼は今を生きていた。彼はふとある日、路上ライブで彼の演奏に合わせてパーカッシブにリズムを刻む青年と出会う。その青年の名はスティーヴィー。彼は自閉症傾向があり、母親の付き添いが欠かせない身の上でもあった。だが、ヴィンスはスティーヴィーの才能に惚れ込み、ふたりがたまたま演奏したところを撮った動画がバズったこともあって一緒にライヴを行うことを目論む。のだが……というのがこの映画のプロットである。
喉越しがいい映画だな、という印象を抱いた。ツルツルと、引っかかりなく飲み込める。悪く言えばその分残留するもの、後を引くものに乏しい印象を受けたこともまた確かだった。その印象がどこから来ているのか考えると、やはりキャラクターの掘り下げが甘いところがあるのかなと思う。ヴィンスが20年の間に落ちぶれるところにまで至る「何か」。かつての仲間であり今は本格派ミュージシャンとして大成した男との明暗を分けた「何か」。彼が実の弟の死に目に合えなかったことから始まった破滅へのカウントダウンを示す「何か」。これらが描かれていたらなあ、と思ってしまう。
だが、そうした「何か」を描かないことがもしかしたらこの制作者たちの計算の内だったのかもしれない、とも思う。ヘミングウェイを引き合いに出すまでもなく、そうした「氷山の一角」となる部分だけを見せることで真相を語らないで済ませる作劇を狙ったのかなと。でも、ならば結局スティーヴィーの自閉症についてさほど語っていないことも合点がいかない。語るべきことと語らずにおくべきことの相違が甘いというか、隠すなら隠すでもっとその「氷山の一角」を上手く見せる方法があるのではないか、と。このあたりはあまり突き詰めて語ると私の素人ぶりがバレそうなので怖いのだが(いやまあ、バレるも何も素人丸出しじゃないかと半畳を入れる向きもあろうが)。
だから結局のところ、スティーヴィーの自閉症傾向についても「よくわからないけれど大変そうな人なんだな」程度で終わってしまいそうで、それが怖いと言えば怖い。いやもちろん、ドラマにおいていちいち丹念に自閉症を描かなければならない、というルールなどないと言えばない。が、この描き方では誤解を招くだろうなと思ったのも確かなのでそれが剣呑だった。光るところはあるのだった。例えばスティーヴィーのドラム演奏や音楽が生み出すある種のケミストリー。それは胸を打つものではあったので、もっとそのケミストリーが強烈に光ればと思ってしまったことも確かだった。自分の持ち味がわかっていないのかな、というか。
そんなわけで、喉越しがいい代わりにツルツル飲み込めて残らない、後味が微妙に感じられる映画となったように思った。あとはあまり色気がないというか、最終的にはむさ苦しい男ふたりの物語に収斂していくために華やかな(デーハーな、とも言える?)場面に乏しいことも気になる。何だかかなり貶してしまったけれど、駄作とは思わない。志としてはそんなに高いところを狙っていない代わりに低く設定されてもおらず、ほどほどのところで「平熱感のある背伸び」をしているように思われた。その「地に足の付いた背伸び」の仕方において忘れられない映画になったとも思う。