2026年7月
7火曜日
高校の授業、今年はもうチャッピーも普通のツールになったから、ネット検索による調べ学習のやりがいの感じられなさがあって、一年で随分変わったなと思った。自動でカスタマイズされた返答はつまり、本屋で本を探すことを奪ったAmazonと同じで、ウィキでさえ枝葉に飛んで追い質問しないと最適解はまとめられなかったものも、設問そのままのプロンプトで、簡易な調べ学習はできてしまうわけだから、プロンプトに工夫が必要な問いを設定する必要があるのか。
6月曜日
青森に出した作品、紙の部分を簡易に留めての額装だったのだけど、湿度変化の関係で紙が少したわんだので、全面をマットメディウムで板に貼って押しをして圧着すことにした。先に販売した分はこの作業を終えていて、残りの分も順次作業を進める。同時進行で、30年前の初個展の作品をコレクターさんから預かっているうちの1点、鉛部分の劣化が激しいところを修復し終わった。記録をとって、説明の書類を作ってメールした。とても喜んでくださった。
5日曜日
朝、2階の窓から見ると鴉が5羽くらい畑に降り立って、ミニトマトや最初に色づいたトマトを食べていて、本当に驚いた。とても楽しみにしていたトマトが食い散らかされて地面に落ちていた。見つかった複数の鴉たちが一斉に飛び立つ時、その大きさが怖かった。とても悲しかったのと、彼らは賢いので、この畑が見つけられたら何度も来襲を受けるのかと思うとショックだった。ふと、ユダヤ人入植者にオリーブ畑を襲われるパレスチナ西岸の様子を思い出した。襲撃する彼らを鴉に重ね見た。とても忌まわしかった。
鴉は慌てて逃げたせいで、食べかけの状態で残されたトマト。このままだと腐って庭が汚れるので、ひとつづつ拾って、部屋に戻った。トマトは少し冷たく、みずみずしく、濃くて美味しい匂いがした。ああ、これはとてもとても美味しかっただろうなと思った。すると、鴉の純粋な喜びが伝わってくるような感じがして、ああ入植者、人間のそれとは全く違うことだと思い、恨みがすっと消えるようだった。今年はトマトは鴉に喰われても仕方ないかもしれないなと。
出掛けた帰りに、別用で寄ったホームセンターでたまたま鳥よけネットを見つけて、買って帰り、トマトを支柱ごと囲ってみた。夫はとても嬉しそうだった。これでもう被害は受けないかもしれないし、もしかしたら鴉はもっと賢いかもしれないけれど、ひとまずは様子を見ることに。
4土曜日
ドラマ撮影でのトラブル話でTwitterが騒ぎになっている。最初は不幸な行き違いがあって、俳優は二人とも気の毒くらいに思っていたけれど、佐藤某が犬笛になりかねないコメントをプロフに固定していて、橋本愛さんがネトウヨやアンフェミも加わった誹謗中傷を受ける状態に。あまりに酷いと思いつつ、きちんとしている人はきちんとしている、ただそれだけのことだなと思った。それが強いと。別の話題で、youtuberが落語のチケットを秒で完売したのを落語家が悔しいだの負けだの言っているのを横目に、量子物理学者が、自分の講演より量子系スピリチュアルイベントの方がずっと人気だろうけど負けた気しないって書いてて、すっきりはっきりしてるなって思った。余計なことは置いておく。
3金曜日
物質の色は表面の構造によって可視光の電磁波の波長が変化して私の網膜へ届くことによって、色が見える、と理屈でわかっていても、その構造について詳細に考えたことなかったなと思い、チャッピーと。波長の変化は構造の微細な変化で変わるミクロの世界の話なので、ほんの些細な構造の変化で色が全く変わってしまう。まさに電子状態に左右される。ある程度の構造の情報は体系化されているらしい。でも、人間の認知で描かれた色相環のようには単純に還元されない。だから、日常感覚とは離れているということになる。リトマス試験紙の色が変化するのが、絵の具の混色とは関係なく飛躍しているから魔法のように見えるのはそのためだ。青と黄色の絵の具を混ぜると緑になるのはすでに自明のことになっているけれど、感覚的にもそう感じるのは、私たちの経験則によるわけだ。青と黄色は決して混じり合わない。青の粒と、黄色の粒が、ごちゃごちゃ隣接しあって並んでいるだけだけど、それらが巨視的には緑に見える。青は黄色顔料に吸収され、赤は青顔料に吸収され、 緑付近だけが比較的残り、人間の目には緑として見える。すると、原理的には最初混色が全く理解できないのは普通のことなのだ。そんなこと、俄かに信じられない。青と黄色が混ざると緑になるは、最初から実装されていると思えるくらい強固な感覚である。
些細な変化で色が変わると書いたけれど、ミクロなスケールの変化という意味では些細な変化なのだけれど、重力に支配されていると感じている日常世界とは違って、ミクロな構造は強固であって、脆いわけではない。別のセオリーで動いている。このあたりのことが私たちの日常の経験からくる感覚と乖離している。重力よりずっと強い力によって決定されているものだから。
2木曜日
初個展時の作品の修復作業と、今回売れた作品の発送準備。こちらも万全を期すために(湿気対策に)少しリペアした。制作した時はそれが時間経過とともに自然に変化したり朽ちてもいいのではないかと思っていたりするけれど、人手に渡るとなるとそうもいかない。けれども物は古くなり劣化する。ところがこの時間経過の様相は、人間が物語的にぼんやり抱いている自然とはだいぶ違って現れる。時間が止まったように変化していない箇所と、触れたら崩れるくらいの朽ち具合とが混在したりする。初期作品の鉛の箇所はそう。時間はままならないし、物質も現実の科学も人間のスケールとは異なる仕方で現れる。これに争う、または従うモードは、普段の制作とは少しスイッチングしないといけない感じがする。
1水曜日
柳美里さんに差別的で酷い言葉がSNSでたくさん投げつけられているのを見るのが辛い。柳美里さんは、日本人の差別感情を可視化するように煽っているようにさえ見える。投げつけられる言葉の酷さと、その量が何かの閾値を超えた感じがする。擁護する人たちが、そのレイシストを人間ではないと言い始める。柳美里さんが著名人であり、日本文学を海外に紹介するという形で深く日本に貢献しているということを言い始める。確かに彼女がどういう人なのかということを、無知な人たちに知らしめたい気持ちはあるし、一人の人間という意味で、その人にはその人の人生や活動があることの詳細を知らせたいという気持ちも理解するけれど、納税していないと何かを言う権利はないのか、犯罪者には人権はないのか、立派でない人間には悪態をついていいのか、差別をし酷い言葉を吐くものは人間ではないのか、と思いはじめて、暗澹たる心持ちになった。一方で私は、パレスチナの子供の頭部を狙い撃ちして殺害するようなイスラエルのシオニストを到底許せない。彼らがパレスチナ人を人間動物と呼んだけれど、シオニストを人間とは思えないという感覚にはなる。けれど実は彼らの行いによって、その感じは刷新されていて、人間という生き物が恐ろしく残虐であるということを思い知らされている。暗澹たる心持ち。
刑務所に美術の授業計画を送る。