2025年7月
31木曜日
田畑あきら子に関する件で電話をいただいて少し話す。どういう経緯であきら子のことを知ったのかの話の中で、自分が言葉先行、つまり彼女が書いた言葉にまず惹かれたことについて話した。それから、年齢と女性性について。20代は思春期のそれとは別にもっと具体的に自身の身体の把握と、自身の女性性(または男性性も身近な男性に投影したりして反射してくるものも含めて)についていちいち驚きと戸惑いとそれを享受するなんらかの感情が過剰にあること、そんなことを考えていた。
それから、田畑をきっかけにして言葉について思ったことを。ホフマンスタールはチャンドス卿が失語症に陥る時、視覚的な体験、または事物の実在(存在)が鮮烈になって押し寄せてくる経験をその対比、または代償として書いている。これを私は、言葉と言葉ではないもの(例えば視覚的な対象/名前のないもの)として受け取っていたのだけれど、この頃の色々から一つ進んで、言葉としての文字や声がなぜ言葉なのかの点、リテラルに文字や声(なんらかの線の形や音素)なのではなくて、輪郭を閉じて測ることのできない要素として捉えて日常的に用いることができる理由は、主体側に託されている。あきら子のメモは、文字の線と線画の線が溶け合っているように感じられるところがある。これは素朴に驚きだと思う。
言葉が事物や物事のはたらきと私の間をとりもつメディウムとして働くときに、直接的な1つではなくて別のいくつもの物事が喩のようにその言葉に含まれていると無意識的に感じているはず。そしてそこに在るものや、私に見えている世界は常に1つではないものによってできている。例え何か1つのものに焦点を合わせてそれだけを凝視するとしても、それを安心して行えるのはその他のものがたくさんそこに在ることが前提として後景に控えている。私が漢字を変換し続けてその喩の働きを失い、まるで失語症になりそうな怖れを感じたのは、その作業で結果、多重になっていた喩を一つ一つ剥がしてしまったようになったからだと思う。それぞれが乾いて干からびてしまった。もしただその限定された一つの意味について文字を当てている事態が現実なのだと受け止める場合、それを用いて何かを言うこと自体も枯れる感じがする。世界に対して次の瞬間、私が何かを投じることがとても不毛な行為に感じられるようになってしまうと思う。
30水曜日
朝、既に申し込みを済ませているはずだったものの申し込みを済ませてなくて、もう満席になってしまって計画がおじゃんになる。なぜ1週間前が申し込み開始日だったのにそれを忘れていたのか?理解できないというよりはただ、ぼんやりした不安を遠くに押しのけ弛緩した日々を送るように自分を仕向けていて、鮮明な現実から降りているのが透けて見える。それが発覚して、今日は今日で集中しなくてはいけない日なのに、全く気持ちを切り替えられないでいる。その焦りの鼓動が聞こえるよう。これは私の話ではなくて、けれどもその感じは手に取るようにわかりもするし、逆に全くわからないところもある。何故そこに距離が生まれてしまうのだろう。幽体離脱してゆらゆらと中空で揺れているいくつもの頼りない身体をひとつづつ手繰り寄せて、自らに丁寧に重ねて貼り付けてゆく。ファンデーションが肌に乗らないみたいに、肌馴染みが悪いととてもこわい。浸透できる質感のうちに急いで、でも、夢の中で速く走れないみたいに、風は吹いていないのに空気圧のような抵抗が強くて、その薄っぺらい分身はとても重い。ぴたりと重なる時、多重でぼやけていた焦点が1段階づつ合っていく。そんなありがちなイメージを手繰り寄せるのは容易で。
『点点』最新号が校了して印刷入稿する。データ送信後の最終確認で、仮に「00日」と入っていた発行日がままなのを見つけて慌てて記入したり、1箇所だけ「GPT」とするべきところ「GTP」になってたのを見つけて修正して、と2回データ送信し直した。
29火曜日
長岡中央図書館へ行く。少し前から参考図書の部屋にあった美術の画集や図録のコーナーの一角が新聞置き場になり、もっとたくさんあったはずの図録はなくなって(閉架に入ったのかな?)、大きな棚の中にまばらに乱暴に美術書が入っている印象に変わった。以前は東京で開催されている例えば森美術館の企画展の図録などが、スペースをとって正面置きされていたりと、充実した内容だったのだけれど、ここの担当をしていた人が退職されたとかなのだろうか?ちょっと前に来た時にも様子が変わったことは確認していたけれど、今日は探し物があって、だいぶ端から端まで目を通したので、その書庫の寂れた感じがなんとも廃れた街みたいで、悲しい気持ちになった。
山本貴光さんの本に出てきたリディア・デイヴィスという小説家の本を2冊借りてきた。「フーコーのエンピツ」が読んでみたかったのだけど、それはなかった。
28月曜日
これから1ヶ月くらいガッツリ制作しないとなのだけれど、色々目処がたたず、朝起きたとき、もう一回一週間前に戻りたいという子供みたいな心持ちになる。『点点』の詰めの作業をして富井さんに投げ、労働のデザイン仕事も先方に投げたけれどすぐに戻ってきてしまう。
それにしても物事の評価がSNSによって瞬発的で流動的になってしまってることからいい加減降りたいなって気がしてきた。
27日曜日
長岡に引っ越して最初の夏に、新潟の夏暑いなと驚いたけれど、朝晩はいつも涼しかった。ここ2年は日が暮れても暑い空気が動かずに残ったままで、夜中、窓から通る風が涼しくて、肌掛けが必要になるなんてことはなくなった。朝早く汗だくで目が覚める。まだ4時で暗い。でも気持ちいいいと思い、止めたクーラーの冷気が残ってない部屋の窓を開け放ってみる。外は若干、ほんの少し涼しい気がする。本を読む。外山滋比古の『日本語の感覚』の最初のエッセイ2つしかまだ読んでないのに、同じところを再読する。それから図書館から借りているのに積読の『文学問題(F+f)+』山本貴光さんの著作。楽しみに借りたのに、その分厚さと、目次を見た時のその緻密さ、リサーチというか研究の凄さに圧倒されてしまって、つい積読になっていた。読んでみるととても読みやすい、と言っても、少し読んだだけでくたびれてしまう。これらは著者らのせいではない。私はつくづく普通に本が読めないと思う。刺激が強すぎる。
午後、ファンダメンタルズプログラムのパークの日。同じゆるユニットだったガッキさんや山本雄基さんの発表を聞く。みんなすごいなーと、それぞれの活動の濃さに刺激をもらう。
26土曜日
市の広報を町内会の班長宅へ配る会長の仕事。8月頭が長岡は夏祭り&大花火大会なので、いつもの月よりも一週間くらい前倒しの日程。先々週くらいから、市内のスーパーへ行くと、店内に長岡甚句が流れていて、祭りの季節がやって来たことを知らせていた。気持ちが急かされるようだ。
ぼちぼちの編集作業をまだ続けている。個展前なのにこの時間の使い方で合っているかふと不安になるけれど、これに負けてはいけない。暇はなくても暇な時間を過ごしているような時間の使い方こそを、なんの後ろめたさも焦りも感じずに行うことこそが肝要なのだけど、今はそううまくはいっていないことが気がかり。数年前はいくらでもそうやって過ごしていたように思うのだけど、ただ本当のところを忘れているだけだろうか?
25金曜日
昨日書き忘れたけれど、帰宅後急いでアトリエを片付けて撮影環境をつくり、旧作を撮影した。作品の記録としての撮影ではなくて、アートワーク用に撮影した。古典四重奏団の新しいCDのための仕事。今回作品の選定に悩んでいたが、大きく方針を転換しての撮影で、やはりやってみると思ったようにはすんなり行かず、でも兎に角、デジタルカメラの利点である枚数を気にしなくていいということに頼って色々試してみた。昨日はそれ以上は時間がなくて、今日はその写真を確認する作業をした。音源をかけながらイメージを確認していく。昨日までの不安は消えて、思っていた以上に良いと思うのだけれど、とりあえずデザイナーに投げて応答を待つ。
点点、A2では大きすぎると思い、A3ノビに編集し直す。いつもと同じテクストサイズではなくて、vol3の時の座談会の文字起こしと同じにしたら、なんとか入ることがわかった。
ArtSince1900読書会。ローゼンバーグとグリーンバーグとスタインバーグの話で、皆おかざき展を見ているから、現代の美術状況と絡めて読後に話をした。
24木曜日
芦屋市立美術博物館で2021年に開催された「村上三郎 限らない世界」展の図録を館に問い合わせて通販で送ってもらった。彼が1925年6月生まれで、ユングのオカルト面を日本に紹介した湯浅泰雄さんと同じだったことに気がついて、具体の人たちのマインドが手触りを持って押し寄せてきた。湯浅さんと一度だけお会いした時、彼が大学時代の話を訥々と話されて、その時はピンと来なかったけど印象深く残っていて。そんな昔のことを質問したわけではなかったのだけど、彼がこの世界(今ではあまり良くないスピリチュアルというパッケージになり下がってしまった超心理学)に入っていくことになった起点に、戦後の大学の空気のようなものは大きな影響があったのだと思う。戦前生まれで、戦争を挟んで急に宙に投げ出されたような世界。その自由を謳歌することの下部には、急速に西洋の近代自我を見せつけられて、自己の確立を求められたような時代が青春青年期に当たっていたと思う。その仕方がいた環境や性質によってさまざまに現れている。
夫に頼まれて予定を変更して、彼の展示の設営の仕上げに同行する。ゲージを作ってキャプションを貼っていく。隣の市の災害資料館の一角にある部屋で、天井高が低く、美術の展示向きの会場ではないけれど、かなり広いので、額装された小さな版画、及び版画的手法を援用した作品をパーっと並べて展示してある。災害資料の展示室と市民が複合的に利用できるように設定されているいわゆるハコモノ施設で、駐車場もとても広いのに、その時間誰かがおとづれた様子はなく、でも職員は何人も働いている。この地に私も仕事で月に数日通っているが、この一年くらいの間に主要道路に面した大きな路面店が2つ閉店した。のんびりとしていて過ごしやすいとはいえ、こういう下り坂の閑散とした空気は、人の未来を暗くし、無駄に疲弊させる気がする。東京のような場所にアクセスを何かしら持っているかどうかで相当違うのではないかと。高校生に比べて少年院の子たちの方が根本の部分で明るくて力強いのは、首都圏から来ているからかもしれない。地方の暗さは、住んでみないとわからないと思う。ゆっくりくる。
23水曜日
日記書き忘れた。滞っていたデザイン仕事を慌てて片付ける。ぼちぼちもまだやってる。
22火曜日
火曜日の仕事帰りに時々会う若い友人作家から「リフレクティブ・ジャーナル」というのを教えて貰った。彼女がイギリスの美大で学んでいた頃、日課として課されていた課題だったそう。googleで検索かけるとAIが「自分の経験や感情、思考を書き出すことで、自己理解を深め、成長を促すための手法です。単なる記録ではなく、内省を促すことで、経験から学びを得て、将来の行動につなげることを目的とします。」と教えてくれた。彼女の通っていた大学では、毎日その日に気がついたことや感じたこと、考えたことを、人に読んで貰う前提でアウトプットすることを求められていたと。帰国してからも暫く続けていたのに、今はもう書いてないけれどまた書こうかなとも。今日彼女と会ったのは、『じーんおかけん』と『ZINEおかけん』が欲しいと言ってくれたためで、このZINEの経緯について説明した。また、彼女は『点点』を読んでくれていて、それで「リフレクティブ・ジャーナル」を書いていた頃のことを思い出したという。作品にまだ直接結びつかない内容でも、書くことは何かの起点やきっかけになるし、自分の中の非言語的な思考が、書いてみると矛盾や飛躍があることに気がつく。その矛盾を間違えと考えるのではなくて、なぜ言葉にしないと矛盾がないのかについて肯定的に受け入れて考えてみる方がいいとか、とりあえず投げむように書いておいてあとで編集すると、遠いことが近づいて結びついたりするみたいな話をした。自分でもこれを話題として話さなかったら、自覚されないことだった。
21月曜日
個展の準備は早くからはじめても、時々見直す。若い頃、早めにがっつり展示のプランを決め、毎日のタスクを猛烈に細かく設定し、細かくというのは1日にどのくらいの作業をするのかを、図面を元に段取りを組んで、このパーツを115こと言った内容でタスク化してアトリエに張り出していた。今よりもっと手数がかかる内容だったから、そのタスクで済ませないと展示が不可能というような状態だったからなのだけれど、今からは想像もつかない。今の私の制作は、経験を詰んだはずなのに全くと言っていいほど、それぞれの作業にどのくらい時間がかかるか見当がついていない。実際、私の労働の方が単発での細かい仕事がパラパラと急に入ってきて、早い安い上手いで回しているから、仕事が切断されがちなのである。
20日曜日
息子が新潟のジャズストリートのBigBandで出演するので見に行く。県内高速バスに1時間以上揺られている間、新潟県立歴史博物館のエントランスにある古書売り場で買った外山滋比古の『日本語の感覚』を読み始めたら面白い。短いエッセイで「聴聞の世界」と「話体について」。共に「言文一致」の周辺の話で、初出は1973年。音韻先行の英語と違って、文字の先行する私たちの言語は、意味に重きを置きすぎて、耳が怠けていると。また、聞き齧った知識は馬鹿にされ、活字から仕入れてきた内容が高尚だと思っていることなどを指摘。意味より聞くことによって習得される内容について、そのおおらかな性質について書いてもいる。タイムリーにも選挙のことも考える。本を読まない人に対して、憲法草案の文言不備を指摘しても意に介さないのはそういうところだよなと思う。書かれていることについて気にしない。言っていることが大切と。政治でそれは危険すぎるけれど、それが通用しない選挙だったなと思う。
19土曜日
『点点(ぼちぼち)』というフリーペーパーの編集。いつもはA3両面に収まる規模なのに、今回文字を流し込んでみたら収まらず、A2両面になりそう。情報を整理して、画像などを入れてやっと編集作業が動き出す。ここから多分大幅にテクストを絞って、要点をクリアにしていこうと思う。構成も流れも量も、視覚的にしか把握できない性質だなと思う。印刷物に仕立てる前提でしか考えられないとでもいうように。
18金曜日
まだ文字の整理をしている。それから事務仕事。事務の仕事はシャドーワーク気味で、計算外の時間を取られがち。経理作業をすっかりため込んでしまったけれど、どこかで帳尻を合わせるタイミングがやってくる兆しがない。焦らずにひとつづつ片付けられますように。
ヘイトスピーチの横行する選挙と、悲惨なパレスチナと、無駄に信仰を問われるようなシチュエーションへの腹立たしさと、接続できる言葉を持てる自信がないけれど愛すべき野郎どものことを思い出したりして、感情が少しカオスになる。
17木曜日
洗濯を溜めてしまい、慌てて洗濯。家事の中では一番好きかも、といってもただ洗濯機に放り込んで、干して、畳むだけだけれど。洗濯物の干し方には自己流のルールがあって、ハンガーがあって、洗濯ピンチは、とても小さいのと、中くらいのと大きいのがある。バスタオルを蛇腹状に干す時に、中に干すとちょうどいいのと、大に干すとちょうどいいのの2種類ある。普通のフェイスタオルは全て大に干す。パンツ(ズボン)は夫と息子のは大に、私のは中に。小さなハンカチや、ショーツ、靴下関係は、ピンチの大中の前後の箇所と小に個別に止める。シャツもインナーもほとんどのものはハンガーに。大体いつも普通の洗濯と、オシャレ着洗いで計2回洗濯機を回すと、あるものに綺麗に丸っとおさまる。それが気持ちいい。家族に洗濯を頼むと、いつもの私のルールではない形で干される。細かく指示したわけでもないし、毎日のことではないから仕方がないけど、結構、何故そうやるのか?について感覚的に納得できない。理性的には理解できても、感覚的不満の方が強い。もちろんそれはいちいち言わないけれど。そんな小さな文化(感覚)の衝突を思うと、世間の混乱は大変だなと思う。鈍感になるべきか、より敏感になるべきか、なんて書いてみると、色々だから良いのだよと金子みすずの詩みたいな心持ちになったりする。
晩御飯の時に、アニメになったあらゐけいいちの『CITY』を家族で見る。面白い。この世の全てを手に入れたら「お菓子食べながら検索だけして生きよう!」ってセリフのところでツボに入ってしまった。うちに漫画があるのだけど、『日常』以上にシュールで読むのについていけずに積読だった。息子も夫ももう読んだという。
16水曜日
富井貴志さんにインタヴューした自動文字起こしの原稿を整える作業。面白い話になっていると思う。早くまとめたいのだけれど、丁寧にやりたいから時間がかかっている。こういう自主企画で直接お金にならないものを今までもやってきたけれど、いざやっていると、以前はどういうメンタリティでできていたのか皆目見当もつかない。いつかお金もついてくると事態を先送りし続けて、ただお馬鹿だったのか、流石に年齢が上がってお尻が見えてきてお尻に火がついているからなのか、スケジュール管理が上手く行ってないからなのか。で、今日中に終わらなかったという。記憶が新しいうちに作業を急ごうと思う。
15火曜日
用紙の中央に正方形の画面をとるとか、それを45度に回転させた状態の菱形をとるとかについて、図示されたものを自分で手順を解体して描くことができないということがあり得る。順を追って説明する。この考え方は普遍的と言ってもいいレベルで応用できる。故にその手順、遡って考え方をこそ学ぶ必要がある。けれども例えば数値の割り出し方ではなくて、割り出された数値の方へ注意が向く。何か、やり方についてパターンがあって、そのパターンは構造的な物だという理解ではなくて、ひとつのパッケージのように受け取られる。実際の世界は無限の伸び縮みする万が一にも厳密さを要求すれば、常に近似値を取る判断を迫られるような世界である。けれども、それではエネルギーがいくらあっても足りないので、程よいところに着地するためにパターンで学んでいく。そこに少しづつ厳密さと技術を足していく、という開かれた伸び代を想定していない状況があり得る。昨日書いたことと反対になるけれど、言葉は常に文節を備えている。それよりも細かい世界は特殊な詩のような世界だけになる。文節のない段階についてに触れるなら、もちろんそればかりが微細で繊細な世界ということではないのだけれど、意味世界の、迂回した表現技法としてのそれではない領域について、それも特別な日ではなくて、日々に密接した世界のそれについて触れるためには、実際にそれに触れてみるしかわからないと思う。鉛筆を持ち、オロオロ戸惑いながら線を引く。制作者である私でも、遠のいたらいっとき失われる感覚というものがある。現実世界に肉体を持った私がアクションを起こすこと。そういえばもう、若い頃のようには走れない。それから多分、鉄棒もできないと思う。あの感覚は思い出すことで二次的にしか味わえないんだなとしみじみ思う。息が切れて、または豆が潰れて、口の中で体育館の雑巾のような埃っぽい味がする。
14月曜日
本の前書きの最後に「既に何かをつくっている人と共にあれたらと思う。」って書いたけど、天邪鬼で回り道するような言い回しをしてしまうのだけど、こう書いている時には、「何かを作っている人」に向けてだけ書いたのではなくて、みんな「既に何かをつくっている人」だよねって気持ちがあって。具体的にレシピを書いている箇所だけでなくて、そうじゃないところでも何かつくってる。どこからが制作、つくっていることか、工作じゃなくても美術じゃなくても、形や物体がなくても何かつくってるって言えるんじゃないかなって思ってたからだった。料理するとか、散らかって足の踏み場もない部屋の通り道をつくるとか、本を積むとか。例えば「書くこと」はつくることのかなりの深度を持っていると思う。何についてどのように書くかについて、物体相手以上に自由な側面があり、文字というメディアが既に、物体とそうでないものの間を行き来する稀なものだから、定型文的な形式を借りてきてすますだけでなければ、つくりどころは色々ある。読み手に分身を求めるような作用も。でも逆に、形式を極端に重んじてそれ以外を許さないタイプの権威が、例えば作り手の研究発表が形式をはみ出しているときに猛烈に怒ったり、その仕方についての意味や意義を見ることなしに理不尽な難癖をつけるのを見聞きしたこともあるから、そっちはなんとかしてほしいと思う。「作り手」に対して無駄なコンプレックスを持つなと。
13日曜日
思ったよりも日数かからずに彫れることにほっとしつつも、やはり数カ所折れてしまった。木を持つ手、道具を持つ手、それぞれが感じる抵抗によって、力加減を調整している。もちろんその感触は視覚的にはわからない解像度のものなのだけれど、それでもやはり、はっきり見えることはその助けになる。メガネを2本がけして作業する。切りがつかないということはないのだけれど、まだ削っていたいという気持ちがずるずると連なって、夜更かしをしてしまう。せっかく朝方になりかけていたのに、ルーティーン的には最悪。首の辺りがチリチリ痛くなって、頭も重くなってきたから流石に不味いと思い、手を止めて眠ることにした。
12土曜日
結び目の木彫を久しぶりに制作している。彫刻ができる気がしなかった私にとっての簡易な彫刻への道として拙著に書いたけれど、この作業を進めていくと最終的には困難が待っている。二次元的思考を三次元で回収しなくてはいけない部分に迫られることになる。結び目の交点が少ない構造だと困難な場面はあまり生じない。交点が多くなってくるとどうしても、交わり合って捻れたかたちを実現するのに頭が混乱するし、手や刃物が追いつかなくなる感じがする。この辺りのことはきちんと書けてないと思う。スケッチ(ドローイング)で、絵の中で描かれたものが二次元から三次元に立ち上がるとき、又は次元を行き来するときのことに注意を向けるなら、木彫の作業の中でそれが起きることについて何か考えられるはずだ。でも、言語化するとイリュージョナルな感じがするけれど、現実ではまさにそのままだったりする。それ以上でもそれ以下でもなく、魔法は何もない。ところがこれが彫り上がって物として自立すると、その言説的な魔法っぽさを物が纏ってたりする。見る時に言語的に見ている、見ることが考えることを連れてきて、言語的にも変換作業が起きていることによっての差異や誤配が、何かの感覚を捏造または生成するのかもとか思ったりした。
11金曜日
イオンで夕飯の買い物してるとGlory of Love(ピーターセテラの)が流れてきて、エモ過ぎる。これが流れている状況の中で、肉売り場で肉を選んでいる。鶏もも肉にしようかな?手羽元にしようかな?目の前に広がる桃色の世界。
映画空手キッドpart2の主題歌で、私が中学生の頃、ラジオで洋楽番組を聴きながら、この甘くてエコーの十分にかかった潤んだカタルシス世界観の曲に聞き惚れていた頃のヒット曲。このイオンの食料品売り場での洋楽特集状態(もはや懐メロ)は繰り返されていて、というか私はいつもここでは買ってなくて、時々来たときにいつもヒットするから、常になのか時間帯か、たまたまなのかよくわからないけれど。気持ちが自動的に上がって購買意欲が増すのかもしれない? 他に、スイングアウトシスターのBreakoutとか、ヒューイルイス&ザニュースとか、バナナラマとか、マイアミサウンドマシーンとか、今から振り返ると充実して浮かれていた時代だなと思う。
帰ってきてから夜に作業するにもその熱が収まらず、AppleMusicで80年代洋楽とか90年代洋楽を流してみるが、意外と私のヒットゾーンは偏っているのか知らない曲も多くて乗り切れない。でもって手っ取り早くデッド・オア・アライブを検索かけて上げ上げで仕事をする。ピートバーンズのファンとかでは全く無いのだけど、あの頃のある領域を象徴してたように思う。高校時代に同級生が熱を上げてた。彼女のことを思い出したりしながら、イヤホンを使わない私は、家族を起こさないように小さな音を熱に変えて。
10木曜日
かくかくしかじかのような仕事をしている誰々が、こういう立場でこういうことを言っている、みたいなざっくりしたマッピングが頭の中にできていて、いちいち判断を保留にし、あなたはそうなのですね、でも私はこうですという考えを醸成するのに時間をかける、みたいなことができる状況は一朝一夕ではつくれない。バランスを取ろうとしていても、結局はだいぶ偏りがある。偏りがあるなと思うのは、そうしている人より、そういう物事にノータッチの人がその外側にずっとたくさん居るということ。その人たちはまともできちんと働いている場合が多い。そういうことに目を向けはじめると、さらにマップは書き換えられていく。さて、その場合、私はどうするのか? なんてことを、それなりに高学歴できちんとした会社で働いている娘と、選挙の投票先の選定についてLINEでやりとりしていて思った。
9水曜日
自分よりだいぶ若い人が「もうこの歳になると」と、自分が歳をとったことについて書いているのを見かけて不思議な気分になった。私自身自分もいつもその時々の年齢になることにリアリティを持てずに過ごしてきたので、それはよくわかる。まあよくある。でも今日はそのことについて何ていうか、私自身、年齢という定量的に進む時間に自分が追いついてない焦燥感を抱えてきたということだけでなく、その現在を起点に自分の輪郭を一回つくってみてるような作業のように見えた。でもって、その若者より高齢な私はその人の射程には共に生きる人としては入っていない感じがした。現在進行形でも既に歴史化された別の所にある事物か何か。世代差ってそういうものなのかなと。あとは、もう友人も死にはじめるし、人生は終わるのだということをリアルに感じはじめると、射程の取り方というか、世界や時間の見え方は変わってくる。これは一般的で絶対的(具体的な年齢)な世代の課題としてそれまでになかったものが発生してくるものなのだなと。
いつもと同じ、文書でもらった原稿をもとに印刷物のデザインをする。当たり前だけれど、文書に必要だとして書かれた内容を、こちらがこの情報が一番重要で、これとこれはと内容を選別し、表記の仕方を工夫するとこれは不要だろうと思われるものが出てくる。全く同じ文字が記載されているだけだけれども、人がどのようなものに焦点を合わせ、どの順番に目を送り、どこにどういう情報が入っているだろうと予測するかなどの自然な「成り」について、視覚(光学的)、心理、社会、文脈など複数要因が絡んでいる。美術において、その制作をどの様式、どの時代の、どういう文脈でかを読むとして、現代のものをそんなに簡単に切り分けられるのかな?と。ある時代様式のものに見えたとして、それを乗り越えようとしてるかもと思えば「ポスト」なのだけれど、「乗り越える」方法がまたそれはそれで一様ではない、といった時の一様も、射程がどうかで違ってくる。射程を規模のように捉えることもできるけれど、物事の大小関係なんて簡単に転覆する。解像度が高くなると、その内容は巨大化する。ところがそれについて解像度高く感知している状態を外からメタで見ると、重箱の隅をつつくみたいな瑣末な仕事に見える。わかる人にはわかるで本当にいいのか。
8火曜日
硬い頭を柔らかく、なんていうキャッチフレーズが昔もてはやされたことがあった気がする。硬い頭を柔らかくしたいと思うならそれは結構簡単な話だと思う。それを硬い頭だと自覚できるかと、柔らかくしたいと思うかというスタート地点の問題に思える。そうでないなら本来は構う必要がない。
仕事帰りに立ち寄ったところでアーティストの小野久留美さんに会う。今後も火曜日は時々お互いの仕事の交差点で遭遇する確率が高め。近況について話したり、大切な本との出会いについて話したり、この地域で活動していくことについて情報を交換したり。
7月曜日
木工作家の富井貴志さんのお宅へお邪魔して、彼がつくった「トレメラ」という名の言語についてのお話を伺う。アーティストが自主企画で別のものつくりの人に話を聞きにいくという謎の状況だけれど、『点点』の企画だということで可能になるところがある。企画を持ってなかったら、謎すぎる。実際これがどういう形に行き着くかは未定ではあるのだけど、『点点(ぼちぼち)』(という名前のフリーペーパを作っている。私のホームぺージのTEXTから飛べる。これまでvoi.0〜5まで発行していて、5から間が空いてしまっている。)立ち上げて広がったことは結構あるなと。SNSで『点点』読みたい人は連絡をいただくとお送りします、と告知しているので、例えば、名前は知っているけれどなかなか関わることのなかったアーティストから、『点点』読んでみたいと連絡をもらってからお互いの展示へ行き来するようになったこともあった。気になって展示を見に行ったとしても、芳名帳に名前を残したとしても、直接やりとりすることにはハードルがある。でも、フリーペーパーというワンクッションを通すと連絡とることができるし、それがつまらなかったり気に入らなかったら、それっきりでいいわけである。
今回の話はいづれ『点点』になる予定だから詳しくは書かないけれど、言語が微生物やガラス質と繋がっていて、素粒子的には私たち人間の構成要素は過去からのものの循環だから、何かしらの記録が残っているということが、それは物事が量子化していってしまって、言語も記録や伝達という意味では情報なのに、言語をつくっているとき、それは情報ではなくて、物質の方へどんどん寄っていく感じがするのが面白いなと感じた。
6日曜日
ウーウェンさんのレシピで骨つきの鶏肉、例えば手羽元と手羽先とキャベツだけか、トマトだけのレシピで、鍋に肉と少ない水とお酒を少しと胡椒だけで暫く煮て、そこにキャベツかトマト(今回は両方)と塩を投入しただけ。これがとても美味しい。ウーウェンさんは素材の味を引き出すことに特別長けているなと思う。今日庭の桃太郎トマトの初収穫だった。まだ勿体無くて食べてない。
5土曜日
朝ぼーっとしてるとふと、今日が桂川潤さんのご命日だったことに気が付く。まるで虫の知らせみたいにしてふと思い出した、日にちもうろおぼえだったのに、不思議な感じがした。桂川さんの仕事がどれだけ大きかったかを後になって気が付く。彼の不在を度々残念に思う。それでも虐殺が現在進行形で続く中、排外主義的な候補者が存在感を持つような参院選前の惨状の今にいたら、どれだけ心を痛めていただろうと無用な心配をしたりする。
新潟へ。羊画廊でワタナベメイさんの版画展。PC上でデータをつくり、銅版とシルクスクリーンの技法を使い、分版だけでなく、紙を切って穴を開けたり、コラージュとして貼ったり、半透明の色面を刷った透明のアクリル板でレイヤー構造をつくるなどして、版について意識的な表現を行っている作家。版画の複数性は同じ版を使って、レイヤーの組み合わせで異なる作品に仕上げることに反映させたりしていた。時間と空間が錯綜する。
楓画廊で中村一征さんの個展。今回依頼を受けて作品集のデザインをしたこともあって、初期からの作品を全てではないけれど一通り見ているのだけれど、今回今年春からの制作の作品での展示構成がとても充実していた。岩絵具がキラキラしていて作品は工程が複雑すぎない塩梅で、絵柄はずっとポップになって、強くて気持ちがいい。
4金曜日
昔既にケーブルテレビで見たことあるんだけど、少しずつDr.ハウスをアマプラで見てる。season6のエピソード1、2が「壊れたハウス」で、主人公の天才的な診断医が、足の痛みから飲んでいて強い幻覚を見るまでになった薬、バイコデン中毒から脱する為に入院した精神病院での話。薬を抜いた後、まだ退院を許されないことを不服として、精神科医に抵抗し問題を起こすところから、脱色されたように屈服して心から助けを求め、医者や周囲と信頼に基づく人間関係をつくっていく物語。まずはあれだけの信頼できる能力の高い精神科医に会えれば勿論、心身を預け、言葉に耳を傾け、治療に賭けることができるけれどと。昔、本当に優秀なカウンセラーに2回カウンセリングを受けたことがある。恐ろしくてどうしようもなかったことに、普通のスケールで向き合えるようになった。呪いが解けたみたいでそれは本当に驚いた。ただ話をし、聞いてもらっただけで。少年院のことを重ねて考える。更生施設での生活に完全に乗っかり切ること、その抑圧された環境で脱色されてやり直すこと、抵抗しないことの意味や意義に、どうしても危なっかしさを感じる。でも臨床の現場で知られているように、発話や傾聴、事物に触れること、何かを見ること、表現すること、それこそ共にあることが、アクロバチックでスリリングなのをいい意味で思い出した回だった。
3木曜日
組み立てを完成させる。手紙を書く。手紙を書くために雑誌を読む。投函してから、少しフレンドリーに書きすぎた気がしてきてちょっと怯える。ポストに投函してから、もう本日の集荷予定時間を5分以上過ぎていることに気がつく。
展示計画の平面図を描く。9月と11月のをそれぞれ。どちらもまだ見てもらえてない旧作で埋まってしまう。どう考えようかな。今年始まる時点で取り組みたいと思っていたものから興味が変化してしまったことと、自分の意思とは関係なく、外から飛び込んでくる依頼などによって道筋の軌道修正が起きている。
ジムで計測したら2.4キロも痩せてた。とは言っても充分ぷよぷよである。
人が人の話を真に受けないことが思っている以上に多いなということを観測した気がした。それは誤配どころの話ではない気がしてきた。人が話しているまたは書いていることをその話された通りに、書かれた通りに受け取る技術が必要というのはわかっているけれど、自分の興味に邪魔されて、それを自分に必要な内容だけつまみ食いする私の能力のなさについてだけよく罪悪感のようなものを感じていた。けれどももっとタチが悪いのは、書いてあることを字義通り受け取れるけれど、それを真に受けずに軽く受け流すこと。そのほうがわかった気になってるから、そこはもう開かない扉になってしまう。それは気の毒だと思う。
2水曜日
高校の成績つけは終わってたはずなのに、見直してもう一周してその採点の精緻度を上げて疲れるなど。「知識・思考・主体性=5段階評価」みたいのはやめて、素点でつけたい、素点のままで。そのほうが明瞭。構成という授業で課題が割と明確なので、身につけた方がいいスキルや、思考の豊かさや集中力など、評価をかけやすい分野だけれども。個別の状況、つまり育ち方、課題へのアプローチの仕方が人それぞれなので、同じ物差しで同じ重みをつけて測るのはやはり無理がある。良い悪いと理解と持ち前の感覚など、違う次元のことがいくつも。
便利だったインディアナ大学の結び目のサイトが閉鎖されていて、とても残念。
1火曜日
切削と組み立て作業と、テクストの直し。体力落ちているのに今年は予定を詰め込みすぎているので、目の前のやる作業とは別に、時々先々のことのイメージをしたり、想定をしたりしてしまうが、その時間が少し効率が悪い気もするな、こう書いてみると。
今年、古典四重奏団の仕事をまた引き受けたので、先に頂いていた音源を久しぶりにかけて仕事する。普段聞いているようなジャズやロックやポップスとは別世界になる。録音がいいのと、特に第一バイオリンの川原千真さんの音が本当に澄んでいて、ちょっとこの世じゃなくなる感じ、片足を天界に突っ込んでいるような感じがする。これまでショスタコーヴィチとベートーベンを一緒にやった。今回はもっと柔らかい楽曲。これだけの玄人肌の人たちの仕事を引き受けるのは荷が重いところある。ある作家(私よりは若い)の作品が、油断して画像をみているとどれも似たもの(同じテンションのという意味)に見えるのだけれど、そのスタイルの初期からのものを全部ではないけれどまとめて見せて貰ったことがあって、その進化にだいぶ驚いたことがある。続けるとはこういうことかと。自分も作家なのにそんなこと書いてて力の差を自白しているようで恥ずかしいけれども。古典四重奏団の仕事はさらに年期が入っている。アスリートはもっと早く引退するので、極める方向の音楽家の一生ってヘヴィーなものだなと思う。田崎瑞博さん(チェロ)はお茶目なところもあるけれど、とても価値観が明確なのでだいたいこわい(威圧的な人ではない)。だいたいはイメージできた。決定打はまだ。
歌と違って言葉からの意味もなく、聞き慣れない音の塊や時間変化がまとっているもの、私に響いてくるものは何だろう。慣れない呼吸だけれど、それに導かれる。これも外れる感じに惹かれるのだろうか? 調和と逸脱、透明と混濁、時間の伸び縮み。