2025年11月
3月曜日
文化の日で祝日だけれど、雨模様だったりここしばらくの疲れが相当に溜まっていて家で過ごす。泣きっ面案件がいくつか重なる。少し片付けをする。
本を読む。本は子供向けのファラデー(英の物理学者)についての本。彼は小学校しか出ていないのに、科学者としてたくさんの発見や発明をした人。それから、とあるギャラリーのオーナーが貸してくれた『結び方手帖』。
2日曜日
ドローイングをしている。これをどう描き表したらいいかを勉強しながら(という書き方は本当に奇妙だ。知らない見えない部分がどうなっているのかを調べながら知識を得て、それを示そうと描こうとするとという意味)自分でも試してみているけれど、既存の方法に回収されていってしまう。描けるところは描け、見えないところはやはり見えないままになって、濃淡の程度問題の部分も、見えるところは描け、見えない(隠れた)ところは描けない。ところが本来この全てが見えないわけだから、見えるところと見えないところは既存の状態とは違うように描ける可能性があるはずなのに、やってみると既存の合理性に回収されてしまう。それは得られた知識が既存のものであり、その知識自体が形式を持っていて、それによる視覚化もその枠組みによって、程度の部分もその枠組みによって(つまり影響があると言えるレベルと、ほぼ無視していいもののレベルの程度問題としての濃淡によって)描くことになってしまうから。そうしないとたとえば、空間的な前後関係が損なわれてしまう。ここから先には別の道筋が開くのを待つなり求めるなりもあるけれど、もっと直球で何か他の方法がないのだろうかとも思う。
1土曜日
息子が朝、今日からの展示に間に合わずにまだ電子工作をしている。彼のPCではできない作業を私のPCにアプリケーションをインストールして何かしている。工作の部材は小さくてシンプルで、私はそれについては何もわからないので、とても不思議な感じがする。
「あなたは何にでもなれると言ってくれた。」町内会の配布物の作業中に流していた海外ドラマの中で登場人物が主人公にそう言っていた。私の小学校の時の特攻隊帰りの図工の先生が、新潟市内野での個展にわざわざ埼玉から来てくれた時、私の小学校時代を「彼女は何にでもなれる子だった」ってギャラリーオーナーに言っていた。少し嬉しかったけど、大人になって色々な可能性が潰えた先がここみたいなネガティブな気持ちにもなって悲しかったのを思い出した。息子が小1の時、ウッドブロックをすごい滑舌の良いリズムで叩いていてびっくりしたことがあった。その後パーカッションを続けていく中で、その万能感は薄れて、今日もリズムを少し走らせすぎていた。目も耳も手を追い越して育っていってしまう。そのズレた感覚を一つに重ねて一致させられるように、大きくなって複雑になった感覚器官を美しく束ねられるように、私も彼も試行錯誤していく日々だなと思う。