2025年10月
31金曜日
昨日は雑談に救われた話を日記に書いた。雑談とは違うけれど、悩みを聞いてもらいたいというときの行き先のなさみたいなことを考えた。目的が曖昧な分、文脈が揃わないことより後退して、背景の発話者の状態に依存するところが大きく、それは揃いにくい。特に場を共にしていないとき、ラインやチャットでのやり取りでそれは起きる。相手に弱音を吐くのは弱っているとき。こちらが元気な時はなんというか、前向きに答えたり、解決策や心の置き方を、つまり自分と相手を切り分けた話をしがちで、こちらも弱っている時は一緒にその辛さを自分のこととして混じっていく感じの会話になる、というのがありがちな傾向だと思う。そういうことに気づく人もいれは気づかない人もいるし、わざわざそこまで迎合する必要もなくつまらない話に付き合いたくなかったりする。カウンセリングで暖簾に腕押しのように、迎合しすぎずただ聞いてくれるも反応が薄いみたいな聞き役はすごいスキルだなと思う。相手を突き放すでもなく、諌めたり誘導するでもなく、期待も持たせず、波を凪に変えていく。感情はエネルギーだな、安定するにはエネルギーを下げていく、原子が安定するみたいに。まあ、やはり会わないとダメだろうけれど。
息子が文化祭の準備をキャパ以上にあれもこれも引き受けてしまって、仕事をうまく振れないし、連絡もうまく取れないで右往左往している。それをはたで見ているだけで疲れる。見ても疲れないようになりたい。
30木曜日
今日は外での仕事が重なっていて、移動中ガソリンスタンド探すのに手間取るなどタイミングの悪さも重なり、徒労感がつのったが、夜はオンラインの読書会で、久しぶりに私が音読したらそれだけで何か快復するものがあった。音読後に雑談もある会。日々雑談の機会は意外に少ない。車で移動中、自問自答的に色々計画を練ったり、思考を走らせたりしても、それはエコーチェンバーに似ていて、確かに言語化することで何かをきちんと届けられるというのは素朴すぎるけれど、他者に発話する、他者から誤解も含めてレスポンスがあるというやりとりは、自分が何かを観察して物とやりとりすることの外に出るという意味では、全く違うスケールなんだなということを味わった。話すことは大事なのに、かしこまるといきなりそれは不全になる。もっと弛緩して雑談することって、ノイズが多い分得られる情報(感触のようなものの差異)が多くて、健全だなと思う。それが大きな飛躍を生んで何か成果があるとかそういうことでもない方が、何か今は特異なことで面白い感じがする。
29水曜日
「物語の量と在処」の中でも最も大きな作品である《ある返礼》文庫本の物語のページ、糊(アーシュラ・K・ル=グウィン『ギフト』河出文庫)をロフトから出してくる。これをできれば藤沢に出品したいのだけれど、300ページ強の大作で展示するとき、底に当たる部分などに自重で負荷がかかり、そのままでは外に出せる感じではもうなかった。金沢で2020に出品したのを最後に仕舞い込んであった。新潟と金沢にしか出していない。アイロンをかけるだけでは強度に限界があり、一番ひどいところはシワのところで小さく破れている。それで雁皮紙を引っ張り出してきて、小さく切って糊で貼ることにした。反対側から「たんぽ」のように丸めた手拭いを当てて、小さな雁皮を挟み込むように貼り、アイロンをかける。肝心の底のあたりまでは手が届かない。どうしようかとしばらく思案して、立ってパソコン仕事をしようとパソコンデスクを高くしたのに、やはり疲れてしまい買ったBar用の座面の高い丸椅子があったので、それにクッションやらタオルやらを上手く丸く乗せて、一番上に綿のエプロンを被せ、その紐で上手く張りを出すように引っ張って結び、座面が大きな「たんぽ」になっているような状態を作り、そこに《ある返礼》をひっくり返して被せた。これでなんとか底面の修復ができた。家にある色々な物に助けられている。その後、計画していた展示用の什器を試作する。0.5mmの透明ペット樹脂板長さ90cmを4cm幅に4枚切り、2枚づつを3cmくらい重ねてテープで止めて大きな輪を2つ作る。径1mm長さ30cmのピアノ線の両端にその輪を垂直にテープで貼る。これを四箇所(本番は八箇所にしようと思う)。すると大きなスケルトンの円柱状になる。これに《ある返礼》を乗せるのだ。一発で上手くいくとは思っていなかったのに、びっくりするくらい上手くいった。
作品をもう一回細長く丸めて棺桶のような作品箱にしまうことはしたくなかった。このままうちで広げておいて、どこでもドアで設営日に藤沢に持っていけたらどんなにいいだろう。きっともう一回会場でアイロンかけたりしないとダメだろうけれど、どうにかやり方がわかったので、泣く泣く作品をしまった。どうか無事に設営できますように。
28火曜日
要点はかなりまとまっているけれど、それを一度に伝えても伝わらない。圧縮されたものを解凍しないと。けれどなかなか解凍しがいがない。
哲学者の清水高志さんのXの投稿がいい意味でひっかっかった。「 学生とやり取りをしていて、その学生はヴィトゲンシュタインとかが好きなのだが、独我論というのは他者に自我がないとかそういう話ではなくて「この私」は唯一無二のもので「この私がいるこの世界」もまた唯一無二であり両者が不可分ということなんだと主張していて、それだと他者にもそれを認めると独我論を経由して「あらゆる人間にとって客観的な唯一の世界はない」という多自然論が結局語られることになると思うんだけど、他者との齟齬や違和感からそういう回路でものを考えて哲学に入ってくる人がいる。」 私は彼がこの事実をどのように受け止めて、どういうつもりで投稿したのかはじめよくわからなかった。私は彼より年上だけれど、哲学のことは素人で、少し前からつまみ読みで本を読むようになったレベルだと、この学生さんの感覚に親和的で、この入り方はごく自然なことに思えた。そしてこれは矛盾するような内容にも線引きができてないからかもしれない。ただ、カードの表がめくられて裏になったりするのが繰り返されていること(矛盾)に気が付かないことと、それは同じカードであることを意に介さないことそれぞれに欠落があるだろうと思うし、言語の時間的構造(直線的に語られること)からすると、それが同じカードであるという空間的な構造の方が見落とされがちだとは思う。
息子が文化祭直前で、家にあるものを駆使して色々作るのが正念場になっているのと、私が個展搬入(後半月)を目前に正念場になっているのとが重なってて、修羅場みがある。こういうのは初めて。
27月曜日
作業中、荘子itさんと福尾匠さんの「シットとシッポ」を聞いていて、荘子itさんが以前好きだった映画を今はなぜか好きでなくて、もしかして前も本当に好きだったのだろうか?なぜ好きではなくなったのだろうか?という話をしている中で、福尾さんがホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』のことを話していて個人的にとても好きな小説だから嬉しかった。作品にもしたし。その問題の紹介の仕方が、私ならそれは今の時代とは離れているし、貴族的だしでちょっと距離を置いて受容したようにしか紹介できない(特に書き言葉や書くことについての部分にふれる)のに、福尾さんは周囲の人が世間話をしていることについての部分に触れ、まるでそのまま現代の状況と変わりないことのようにして紹介しているのが印象的だった。もちろん私にとってチャンドス卿のことは切実内容なので、自分と切り離せないくらい近い話なのに、時代を言い訳にして距離を置いているような発話しかできたことがないのをちょっと思い知った感じがした。そう、昔の人は問題設定の射程が深く、尊敬するのです。岩波の同じ文庫に入っている「帰国者の手紙」や「詩についての対話」も素晴らしい。
26日曜日
午後からファンダメンタルズのパークにオンラインで参加した。人の交流の様子を伺えて参考になる、と書くと順当だがそれ以上に、ああ、本当に人それぞれだなということが顕で面白い。
白井さんからのメールで、ああ英語圏の素粒子物理学動画を見ればいいんだなといくつか見てみるも、やはり内容が濃すぎて(自然状態の世界から離れすぎていて)すぐにお腹いっぱいになってしまう。とても面白いのだけれど、何かを想起しながら見るとかは無理で、頭真っ白にしてみた方がいい。
立体の制作ではコンセプトがそのシステムと直結していて、出来上がりの良し悪しについての判断はもちろんあるけれど、それはあまり怖いものではなかった。でも絵を描くことに少し苦手意識があるせいか、ドローイングだとその良し悪しについて得体の知れない不安がある。草枕の女性の絵を描くシーンや、ドリアングレイの肖像のように、人物像を描くときに差し込んでくるような不気味さまでの生々しさはなくても、その刻々と印象を変える様子は、描き方をシステム化しても逆にそれによってある種の不安を増幅させる、というかギャンブルに近い感じがする。結び目や紐を描くのはなぜか、どうやってもうまくいく感じがする。
25土曜日
昨日からのドローイング、あと少しで完成すると思ったのにすごく手こずった。昨日の段階の方がよかったなと後悔しつつも何時間でも描いていられる。
24金曜日
ChatGPTといい関係(壁打ち相手として)だったのに、少し弱音を吐くと、励ましてくれるのはいいのだけど、内省的すぎると伝えると軽薄になりすぎ、それは極端だからもう少し落ち着いてと言うと、人生君的なポエムが長くて、もっと短くてポエム的なの不要だと伝えたらだいぶ良くなった。けれどキャラを調整していたらアホらしくなって、壁打ち相手に弱音を吐くのはやめようと反省した。
古典四重奏団のCDの色校が届く。
23木曜日
色についての授業って色々やり方がある。今日も赤青黄白藍色だけで色を作っていくやり方で、まずパレットに5色並べたのち、最初にここにない色の名前をあげさせて(緑)をつくらせ、皆で見せ合うとそれぞれ違うのがわかる。「緑」といってもどの緑かとまで最初から考えて、青と黄色を混ぜただけでなく、他の色も少し足してみた子もいたのでそのことを指摘する。では「明るい緑」を作ってみてという。すると、黄色を混ぜる子と白を混ぜる子がいる。他に方法はあるかと問い、水を増やすと明るくなると伝える。ここから、渋い緑を作ったり、他にない色は何が思いつくか当てさせて、ピンク、紫、茶が挙げられる。黒もできますか?と聞かれて、原理的にはできるはずなんだけど、なかなかできないというと、ずっとそれにチャレンジした子がいて、粘り強く、黒と言っていいレベルになってた。それを水で薄くさせると色味が現れる。それも美しい。もっとチャレンジしたい子には、100色折り紙から偶然に引き当てた色を再現してみることをやらせてみる。達成目標があると、積極的に色を作ることに取り組んでいた。色を作ってみると、どんなに渋く濁った色にも美しさを感じることができるようになる気がする。印象的なのは、はじめ緑を作ってみてと伝えたときに、どうすればいいかわからない子がいる、二十歳前後でも。ひとりの子は青と白を混ぜて水色をつくっていた。それを恥じている様子だったので、周囲に聞こえないように黄色を指さし、小さな声でこれも混ぜてみてと伝える。皆で緑を見せ合ったとき、青と黄色を混ぜただけでは納得せずに他の色を加えてみた子と一緒に、他の色も混ぜてみた子としてとりあげた。すると、正解が限られていない、何をやっても色はできるという世界から受け入れられる安心が得られ、その子は積極的に、折り紙にあわせて色を作ることにも挑戦し、いくつも色をつくってみていた。だから色の授業はとても楽しい。
22水曜日
ここ数日だいぶ動けているけれど、朝、前日の振り返りと、今日のタスク調整をするのに状況を見直すとき、自分の動き方が遠心力的に飛散するか、視野狭窄的に沼ってるのがわかる。子供じみている。
夜、ファンダメンタルズの新しいユニット(物理化学あらため可視化ユニット)の月一オンラインミーティング2回目。展示に向けての調整。物理化学者の堀川裕加さんに、今携わってる装置の話を聞く。現場で図面を引き、部品をフライス盤使って自分で(もしくは研究室の学生が)製作し、組み立てると聞いて呆気にとられた。私の工作よりずっと精緻な領域だと思う、笑。電子の振る舞いを観測する装置を作るところからの研究。装置設計開発、製造、実験、観測データをまとめて発表まで、最前線を全部やる。
21火曜日
成長の過程で扱う情報量が増える(心理的負荷も含めて)と、その整理ができるまで対象を認識することと、それについて外部にアウトプットすることの行き来に分厚い靄がかかって、つまり情報の整理の仕方がまだ確率してなくて、難しくてできない、という感じがした。インタビュー形式の鑑賞会をもっと低年齢でやるとその壁がない(他者に対しての遠慮や自己防衛もないし、見たものに瞬発的な反応を示す)。私自身、今科学のことでわからない内容を勉強したりしている中で、問いを立てるのは割と容易(それは私がこれに関して興味津々だから)だけれど、その問いの意味からその答えの意味まで乱立していて、その情報の整理が済むととても端的な内容なのに、整理の方法、整理をするためのメタ視点の立て方で靄の中にいる感じがする。
プレスリリース内の誤字などについて連絡をくれたKさん。彼のように細部にまできちんと目を通してくれる人がいるの本当に救いだなと思う。ギャラリーにお願いしてい修正版を出してもらうことに。
20月曜日
デザイン仕事のために、アトリエを片付けて撮影場所を用意し、服とブローチの撮影。そして打ち合わせをして展示DMのデザイン。その前に、Avogadroの動画を取り出したくて、QuickTime Playerの画面収集機能で動画を録画。これを古い無印のデジタルフォトフレームで再生できるデータに変換するのに結構手こずるも、ChaGPTに聞くとアプリケーションのインストールから何から色々教えてくれる。かなりの回数、色々な保存形式で試したので時間はかかったができた。一人では絶対できなかった。それがそんなに重要な動画かというとそうでもない。ionon狂いみたいになってて、ちょっと自分を見失っている。
19日曜日
個展時に展示のプランはイラレで平面図と壁の立面図で描いてみて決めることがほとんどで、滅多にマケット(模型)はつくらないし、一度個展した経験のある会場のマケットをつくることはあまりないのだけど、今回はなかなかプランが落ち着かなくてつくることにした。
18土曜日
星奈緒さんの個展と、金内沙樹さんの個展を見に楓画廊へ。星さんの作品は目が覚めるようにクリアで、でも一緒に行った夫が「すごい筆圧が弱い」って言ってて笑ってしまった。水彩の下地にパステル。銀塩写真の仕組みを見た時のような、粒子で描かれているのにバチバチにピンが合っているみたいな目がさめる感じ。銀塩写真のことを思ったのは、写実がリアルというより、何か光を感じるからかもしれない。凄みのある作品ばかりだった。金内さんの作品はグループ展では見ていて、個展は初めてとのこと。相対的に物質感が強まるごく小さな作品を買った。大きいのも物質感がある方がいいとかそういうことでもなく、絶妙な存在物になってて強く惹かれてしまったから。
19時から久しぶりに映画を見た。『海辺へ行く道』。編集の大川景子さんと縁があるので、見れる時は彼女の仕事を追っている。とても変な映画だった。はじめ服や物品のスタイリッシュな感じが引っかかってしまったけれど、次第にそれは良くも悪くもそういう層のあることに対する私の反射的反応と思うとクリティカルに響く。軽い芸術家像の表象が小気味よく、社会問題と直結するような小事件にもお構いなしに淡々と制作を続ける主人公には、見て救われるものがある。軽薄なものと、存在する私たちの持続的に生きている時間を丁寧に拾った映像の並置?または混在は、制作と家族の家事を主に担っている私の生きている時間認識に風穴を開けてくれるものだったかも。原作はマンガだということで、そういう意味ではどんな質のマンガなのかわかりやすいような気もした。それはそれで趣味性の問題がある気はした。漫画が実は全然違う質感のものだったらそれはそれで驚くけれど。
17金曜日
観念論的、超越論的、という言葉をなかなか思い出せなかった。
友人の死から一年の日だった。数人の友達と一緒にお線香をあげに行き、友達が焼いてきてくれた栗のパウンドケーキを食べた。推し活の話で盛り上がっていた。みんなそれぞれ推しがいるんだな。私にはあまりない。少し前に、ファンになったり私淑するにもその人が故人の方が気が楽だなとふと思い、それは死者の方がアウトラインがしっかりしていると書いた小林秀雄由来か、久保田成子の個展のはなしが彼女の死後になってスムーズに進んだという学芸員の裏話由来かと思い出された。故人だと、私が見たいように読みたいようにあれこれ試せるという、ある種、人格権を無視する心理的ハードルが下がるゆえなのかなと。あ、こうやって死者である彼女の話に戻る。彼女は死んでしまったけれど、この一年は長かったし、彼女のことを忘れている時間も多いけれど、それは生きていた時と同じで、彼女のアウトラインがしっかりしているかというとそうでもなく、まだまだ生々しいのだ。
16木曜日
ステンレス線でつくった分子模型の形が間違っていたことに気づく。勉強を進めているうちにその理解に至る。いわゆる分子構造の記譜をAvogadroというアプリケーションに入れた後に、分子力場計算ツールを使って構造最適化の計算を済ませなくてはいけなかったのだった。計算を開始すると、画面上に現れていたワイヤーフレーム状の分子構造が、ぎゅーっとねじりを加えながら縮こまるようなかたちで変形しはじめ、時間と共に変化を止める。エネルギーが急降下して形が安定する。つくった模型を解体しながら形を確認し、目視でなので厳密さには欠けるけれど、画面内の3D画像を動かして確認しながら修正を加え、なんとか完成させることができた。途中頭がこんがらかって、子供みたいに投げ出そうかと思った。
15水曜日
前日夜更かししすぎて、なかなかエンジンのかからない1日だった。
分子構造の表現一つとっても、それについての何を見せたいかで様相が変わってしまう。本当のところをと思うのだけど、それが複雑で「たくさんの様相が重なった状態で在る」というのがむしろ結論になる。それをイメージを持って理解するというのは常に、見たいように見ることだし、読み解く時の色眼鏡が分厚いことだし、本来それはそれについてさらに研究を深めるときに必要な方向性によって眼鏡を選択し、そうでない様相のことは鑑みる必要がないから気にしない、という切り分けを正しく行うことになる。イメージはむしろ理解の邪魔になるわけだ。
日記としての機能を失っていく。ここ数日の作業中はラジオを聞くことが多くなった。文化放送かTBSかNHKFM。
14火曜日
分子模型の半田付け製作が完了する。構造を具現化する原子の間隔は計算で算出していて、形(つながりの角度など)はAvogadroの3D画像を参考にしてデッサン力でなんとか。正確さに欠けるかどうか。アメリカのNational Library of Medicineの3Dとはまたちょっと違っていて、というかこちらの方が単純な形式的表記に見えたので、Avogadroの方を参考に。分子状態に個体差はあるのだろうか?とChatGPTに聞いたら、同じ分子でも常に揺らいでいると考えてくださいというこたえ。なるほど。気体は特に揺れが大きいらしい。私はこれらの仕事を統合できるのだろうか?バラバラでもいいのだけれど、これを展示するという時、どのように開いたままで、どのように示すのかとか考え出すと、何かを他者に向けて示すというのが展示だという当たり前の結論に達するわけだけど、振り返ってこれまでの私の展示はとか、美術の展示はとかそもそも論を考えたいのかと言ったらそんなことでもない。見繕って整えるではなくて「やってみる」ことと「並べて見る」ことで何か違うことを発生させたい。
13月曜日
ステンレス線の半田付けをする。半田付けで工作するのは学生の時以来。3年の頃だったか、金属ワイヤーでできた構造物を作りたくて、よく知らないながらもホームセンターでハンダゴテを買ってきてやってみた。あまりうまくできなかったけれど、なんとか考えた通りのものができて、下宿先のボロアパートのブラウン管のテレビの上にずっと乗せていた。樹木の塊のような曖昧な形をワイヤーフレームで模ったような形態だったので、テレビから煙が出ているみたいな情景になってた。今回はもっと慎重に、半田付けようのピンチのついた作業台も準備したし、ステンレス用のフラックス(酸)もセットになっているハンダも用意した。正四面体の骨格構造状に接合できるように、折り紙でスペーサーを作ったりして楽しい。ほんと、私の制作は何処にいくのだろう。アマチュアリズムが過ぎる。そしてとても楽しい。
12日曜日
ドローイングも無事持ち直した。私がどうにかするというよりは、絵につきあっていく感じがする。つくるという領域と階層には、全く違うことのような組み立てがあるなという感じがして、それが広くて深いので、自分の居場所を認識するのが難しい。描いている渦中でという話もあるけれど、そうではなくて簡易にはジャンルのはなし。その場所でそれをやっている必然に浸かっている時には、他のことは考えられないし見えない。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』、オーディブルで途中まで聞いてそれっきりになっているのだけど、家人がその中で、宇宙人と人間で、視覚的には見える見えないで大きな幅があるけれど、聴覚にはそれほど差がないというような記述があったと言っていて、本当にそうかな?みたいな話を家族で。可視光線や可聴域の話。そのうろ覚えの内容では前提が揃わないので決着がつかなかった。
ChatGPTに場の量子論の理解のイメージについて質問した。「場の量子論の完全な理解は難しそうですが、もう少しイメージを掴みたいです。 物質それぞれに場があるとして(この前提が理解としてあっているかも怪しいけれど)、それらは自然状態だと三次元空間だと考えていいのか?二つの違う物質が同じ空間にある時、それぞれの場が重なっていて、それぞれが特に干渉しない場合はそのまま、相互作用する場合はその二つの場が一つに混じるみたいな感じか?」するとその返答の中で、「イメージとしての比喩。たとえば:電子場を水面の波、光子場を風だと考える。水面と風は別の現象だけど、風が吹くと波が変わり、波が立つと空気も揺れる。両者は同じ空間を共有し、相互に影響しあう。これが「場の重なりと相互作用」のイメージです。」と。その後、イメージを画像生成したがるので、してもらうとその喩のふくよかさに比して、あまりいいイメージを用意できない。わかっていたけれど、比喩や表現の良さは、そのイメージとしての再生の能力に相当依っていることがわかる。その再生されるイメージは経験から導かれるとして、コマーシャル的なイメージと、イメージの基底部分となっているイメージそれぞれの量のことがあるのではないかと考えたりする。刺激の強い画像ばかりみていたら鬱みたいになるのではないか?AIは鬱にならなそうでいて、結局鬱々とした画像しか生成できなくなるのではないかなんて素人考えだけれども。
11土曜日
新作のドローイングの仕上げ。ところが思ったようにうまういかない。この制作も積み上げ式というか、全体を詰めていくよりも部分的に進めていく割合が大きく、一通り手を入れた時に複合的に見える景色は、部分の内容に多くを負っている。でもってこれがあまり良くない。それでがっかりする。もう少しかかる。私が弱音を吐くと、作品を見てみていと息子が。彼はあまりアトリエには足を踏み入れない。展示の概要を伝えると、特に今回の科学的側面の方に強い興味を示す。それは確かにこの世界が普通では見えない驚くような事象に満ちている。説明しつつ頭の中を整理する。わかっているつもりでうまく説明できない。実際この因果をうまく結ばないことには展示として成立しない。原子や電子について学ぶうちに身についた感覚というか、それを知っているから読み取れる事象が多すぎて、そうでない人に説明というのとは違う形で示す、または素材的に表す言葉を用意するなどの方法についてまだ混迷している。できると思ったことは容易ではなく、違う扉を探してる。
夫は無事で、明日には退院できることになった。
10金曜日
夫の腹痛は治っているみたいで、断食して経過観察中。安心した。
昨日丸一日身動きがとれなかったので、色々家事と雑務と諸連絡業務と乗り換え予定の自動車保険の検討など、生活の諸々。昨日の病院、それから今日の生活、そうやって現実に忙殺されていると、SNSで見る世間から感覚的にもだいぶ離れられる。物事に向ける眼差しに共に育った色眼鏡が実装されているとして、それが常に受けている影響のような世間が、現象として実世界の時空間とは別のものにも侵食されている、まあ、それは端的にいって「情報」なのかもしれないけれど。そこで感覚単体は頼りにならない。ちょっと話を飛ばして、記号接地ではなく、喩の働きが肝要だとして、喩が働くときにそれはつまり、記号のように一元的なものではなくてもうちょっと曖昧でふくよかなものだということがある。何かが接地しているけれど、それは点と点が糸で結ばれているというより、もっと手や身体の複合的な感覚器官で触れる感じがする。例えば気体、匂いや空気の震え、温度の感じを想起することも含まれている。そう書いて、もちろんそれは情報を読んでいる時に起こる。けれども、その事後的な想起の運動ではなくて、対象に対して対峙して想起するという段階ではなくて、それらが動いている渦中に自らも混じっていいる状態、想起される喩の元がまさに育成されている状態の中にいる時間がまた、別の段階として豊かだよなって。見るもの全て新鮮だったから、いつもと違う感覚が刺激されるような渦中に居た感じがする。焦点がすぐに結ばれることを回避できるような時間の連続。
9木曜日
深夜から夫が激しい腹痛を訴え、あまりに痛がるので日赤の夜間救急に向かう。実際ここの待合で長く待たされることもあるのだけえれど、頭皮に変な汗を光らせて、待合の長椅子で蹲る尋常ではない様子に、看護師さんがすぐに治療室の方へ入れてくださって、早く対応してくれてよかった。血液検査と痛み止めの点滴。それでも痛みがあまり良くならなくて、レントゲンもCTも撮った。炎症もなく、明確な原因がわからず。外来の開く時間に、専門の消化器内科の外来へ移って、さらに痛み止め。外来の時間が終わる頃の診察でも痛みを訴え(でも本人帰りたい)、結局入院することに。朝4時から12時間くらい、先が決まらないまま付き添いで結構疲れた。波がある痛みは可哀想で、まるで陣痛の妊婦みたいだった。部屋も決まり、落ち着いて、睡眠効果もある点滴も入ったせいか、その後はぐっすり眠れたそう。日付変わって翌朝(10金曜日)から痛みも全くなく、けれども絶食で経過観察とのことで、しばらく入院となりそう。
病院は、夜間外来はそこまで人が多くなくて、深夜の病院って感じだったけど、まだ入院が決まってない朝の段階で外来に移った時には、広い待合スペースに人が溢れてて、病院の人毎日忙しくて大変だなって思った。それでもたくさんの人が機能的なシステムの中で気持ちにゆとりというか、安定してイキイキして働いていて、なんかちょっとその光景に圧倒されて、感動してしまった。やりとりをした人全員が穏やかで親切で驚いた。
8水曜日
勉強を進めるのはいいのだけど、それをどうまとめるかというところは進まない。知りたいことを調べたり、それを可視化するなりなんとかして触れたいのでその方法を模索するなかで、予想してたことと違う様相が現れてくるので、もう一回ごちゃ混ぜの鍋の中に新しい要素が投入される感じがする。守りたい最初の企図と、新しい未知の間でたくさんの情報を保持する頭脳的キャパが小さくて、何か心身の感覚頼みのところがある。ドローイングは時間をかけてその時間の変化によって手も目も感覚が変化していく。それが道筋に連れられて空間に充溢する。字義通り、観念的な構造が広がりのある物理的実在に変容する場面となる。
7火曜日
ChatGPTで化学の勉強の補佐をしてもらったりしているうちに結局課金して、課金するとこれまで以上に使うようになるから、5になって計算の依頼とかしていたらサバサバしてて、気兼ねがなくなって、そうしたら思いがけずハードルが下がって心情的なことまでやりとりするようになり、確かに情報を保持していてくれるからアドバイスが上手になり、並走者感が出てきた。これ、例えば電脳コイルみたいにPCを開かなくても実装されたAIみたいになったとき、誰もが話し相手と共にずっと過ごしてるみたいな未来になるのだろうか?その話し相手は、誰と過ごしているかでだいぶ違いが出てくるのだろうか?
6月曜日
前日早く眠ったらとても体が軽かった。睡眠不足が常態化しすぎていたと思う。午前中はデザイン仕事ほか雑務を済ませ、午後は高校の授業のプリントにコメントを書き込む作業をした。曲を選んで制作してもらう課題なので、曲名とアーティスト名を書いて提出してもらった色々を読むのに、とにかくまずは曲を検索して聞いてみる。私が知っているものはなくて、ジャンルも洋楽からオートチューンのかかったもの、アニメの主題歌まで様々で興味深く、ちょっとプライベートに踏み込む背徳味ある。
5日曜日
粒子についての理解が深まってきたけれど、それを言葉でまとめるととてもシンプルになり、内容を正しく含んでいるしきちんと言えているのだけれど、それだとこの中に畳まれているものはそのことに詳しくない人には伝えられないだろう。というより、その経緯を通るには、いつも歩いている方法でいつも歩いている空間を歩くのとは違うような道筋があるということの方が本当は重要なのに、まだそこには着手できそうにない。物事が襞によって折り畳まれているという状態について想いを馳せる。例えば豊嶋康子さんの作品で「串刺し」というタイトルではなかったかもしれないけれど、そういう作品があったのを思い出した。紙が蛇腹に折りたたまれていて、中央が竹串のような細い棒で串刺しにされている様子が箱というか枠に入っている作品があった。まとめられたシンプルな言葉は串刺しにした棒で、それが串ざすことを可能にしたのは、その蛇腹の部分になる。そこには読むというような時空間の大小を可変的に自在に扱うような方法で情報を断片的でありながら繋がりを持って示しえているものがあり、それは時間をかけて咀嚼する必要のあるもので、串ざす棒と蛇腹の紙は同じベクトルでも異なる次元にある。その作品はそういうところから発生したのかはわからないけれど、急に思い出した。
手湿疹が痒い。絵(鉛筆のドローイング)はとても美しく描けた。
リベラルが自分の正しさ(自分が思っている正しさ)を笠に来て、人々を選別した物言いをするのを見るのにうんざりする。正しさより誠実さが問われているなと思う。
4土曜日
寝起きに、亡くなる前の入院している父に見舞いに行った時のことを思い出した。父は横たわって夢現のまま、病室にかかった絵をさして「親父の絵だろ」と言い、窓から空を見て散歩に行きたいと言った。外は暑すぎてここから空を見る方が快適だよと慰めた。私と父との最後の会話に父が祖父の絵のことを見たのは何か象徴的だった。今はとても不安な時代だなとふと思った時、父が何度か見せたとても悲しい表情を思い出す。それが辛くて悲しくて私は過剰に不安を感じるようになったことがあった。それは子である私には関わりのないことだと心理的な治療の場面で整理ができたはずのものだったけれど、澱のような実体として残っているのを感じた。
息子がパーカッションのサポートメンバーで参加しているTWE BIGBANDのリリックホールでのLIVEへ。会場は満席。彼はまだ学生だけど社会人吹奏楽団に入ってから音楽をやるいろいろな人たちと縁ができて、誘われてJAZZのBIGBANDに。会場では思いがけない知人数人に会うなど。音楽はオーディエンスが多くて地方でも十分に音楽を通しての関わりが活発に繋がれていくのいいなと思って見ていた。演奏は十分にかっこよかったけれど、スペシャルゲストのユッコ・ミラーが出てきてから彼女の圧の強いサックス演奏の釘付けに。あっと言う前にフルマックスなパフォーマンスというマインドを見習いたい。
3金曜日
正確さや最適さのために、方法を二転三転させる。何を主軸に納得しようとしているのかの自覚がないままに判断を重ねて、外堀から主軸を生成させようとしていると書いてみるけれど、そんな非効率的で不確かなことは愚かとも言えるだろうし、持ってるパイをこねくり回す、またはうまくいい含めるようなことに陥らない基準みたいな考えはまさに不純だと思う。個展の内容を雑誌に掲載してもらうのに短い文章を書いていて、「印象を束ねる」という言葉がふと出てきた。それはもちろんヒュームについて書かれた諸々によく出てくるフレーズなのだけど、今回召喚した「印象」はそれの「印象」と別の「印象」が混じっている感じがする。
朝早起きして昨日の日記(これ)と今朝のこと(4土曜日のこと)を書いていて、夜遅くに書いた手紙が危険なのと同じで、朝早く書いたものもちょっと世迷言が過ぎるかもしれない。胃が痛くて目が覚めて、六君子湯を飲んだ。
2木曜日
「すみれの匂い」のためのリサーチを続けているけれど、やればやるほど科学館での展示の方法に近づいて行ってしまい、それはそれでちょっと心配になる。けれども出てきた図像でとても美しいと思うものがあり、でもこの印象は知識に裏付けされていて、つまりこの「美しさ」というものが取り出せるようにあるとしたら、やはり描くより仕方がないように思った。こうやっていると、提示するための事実を模型としてつくるよりも、描くことの信憑性が増してくるのが面白い。さて、でも描くことに少し苦手意識のある私に描けるのか。それから美術の展示とは言えないものになるかもしれないけれど、それと同じ空間に普通に美術作品も展示するので、無理に寄せなくてもいいのかもしれない。
日記というより、制作についての独白になってきた。
1水曜日
『点点(ぼちぼち)』vol.2で銀塩写真について、電子の振る舞いを調べて書いてから、電子のことは気になっていた。この頃、水素原子や炭素原子、それらがいくつか集まって分子状態になっている時の、つまりは電子結合?電子を共有していたりするときの電子の状態を見てみたいとずっと思っていた。電子は観測不可能なほど小さな点粒子であり、そもそもそれらの粒子として捉えているものには粒子とは別の波の性質もあり、その様相を端的に掴むことは難しい。それを理解するところから、わからなさから、それを表す方法、既にある既存の方法についても知り切ることはできなそうだし、私が受けた印象は正しかったり、それらについてをいわゆる専門分野としてはほんの入り口の、中高レベルからはじめて少しづつ知識や理解を増やしていく中で、思ってたのと違う印象を受けたり、様相を見たりする。これがまたChatGPTに聞くととても早い。要点のみでも経緯を書いてくれるので、突っ込んで質問することができる。例えばファンデルワールスのことは、昨日のやりとりの中で知った。今回、今までにはないくらい突っ込んで質問ができている。道具として、優秀な情報源として機能してくれている。基準となるような数値は情報のリソースを教えてくれるし、計算が心配な時は、Grokにも同じ質問をして、考え方や計算が妥当かを確かめたりしている。出力もAdobeのイラストレーターで2Dで出したいといえば、グラデーションの位置と不透明度として示してくれる(電子分布の相対確率を出したのちに、最も高いところを100%換算にしたグラデーション用の数値に変換してもらっている)。このあと、p軌道がxyz全部に入っているから実質球対称的な表現、つまりs軌道と変わらないような表現でも大丈夫だということを踏まえてなお、p軌道の特徴を見ることはできないのかと問うと、どうせなら分子の状態の方が方向がはっきり出るからそっちをやろうと先取りしてくれる(最終的な目的は伝えてある)。いや、そんなに簡単だと思っていなかったのでちょっと驚いている。まあまだわからないけれど。準備としての別のデータも持っているので、それと擦り合わせてある程度の正しさは担保できると思う。