2025年1月
31金曜日
2/3にツバメコーヒーの田中さんに企画して貰って、同じ長岡市在住の木工作家の富井貴志さんも呼んでトークをすることになっていたのの告知をすることになり、ちゃんと理解していなかったシラスというプラットフォームのことなどを質問して、いや、もう直近だけれどトークすることについて少し考えを巡らせてみる。本は、書いてから、出版してからと、どのように読まれるかが気になってそわそわしたりして過ごすのが嫌で、もう手を離れたと言えるから忘れた、と言うのも乱暴かもだけれど、そういう面もあり、田中さんから『抽象の力』の特にどのページを読んできたらいいですか?など問われると、あ、私自身も読んだ物のこと忘れてしまうし、書いたことも忘れてしまうし、今の興味について話したら、本とは別の話題になってしまって、そんなこと書いてないじゃないかと誰かに突っ込まれそうなどと、冷や汗をかくところまでシミュレーションしてみたりしてた。『抽象の力』は、恩地孝四郎のとこと、ヒル・マア・フクリントのところと、先行するFのところは忘れたということはない。でも事前にもう一回読もうかな。
30木曜日
少年院で、社会だけじゃなくて、世界があって、人間だけじゃなくて、動植物のように命があるものだけでもなくて、石ころのような「物」も世界の構成要素であって、私たちが皆何とか幸せになるためには、人間同士で妥協するようにしてルールを決めなくちゃいけないし、一緒にうまくやるためにはコミュニケーションを取らなくてはならないけれど、それだけじゃなくて、人とじゃなくて物とやりとりをする、つまり人とのコミュニケーションが全てじゃなくて、物と一人で向かい合う時間をこのクラブでは大事にしたい(クラブの皆で一緒に何かつくりたいという意見を言ってくれた子がいたのは嬉しかったけど)という話をした。そういうのを言えるタイミングだった。全然伝わったかわからないけれど、外は社会だけでなくて、人生は人間社会の中だけにあるわけではないってことに気がつくかもしれない伏線ははれたのではないかと期待する。そして今日も彼らの手は、他者の手は、思いがけない感覚と能力を発揮する。
夜は『Art Sinse 1900』の読書会。1959のフォンタナとマンゾーニ。フォンタナがあんな彫刻作品作ってるとは思わなかったし、イブ・アラン・ポアの批評の線の引き方の鮮やかさが良かった。人の仕事がアイコニックに位置付けられてしまうと、その作家の印象は捻じ曲げられてしまうなと。その影響関係やはたらきは、もっと丁寧に見ないとわからない物だなと。それにしても、ミクストメディア的なフォンタナの彫刻は、現代っぽくさえ感じる。切り裂いたキャンバス以外の作品群を多めの展覧会とかやってほしいなと思った。
29水曜日
他のことは最低限放っておいて、今日は制作。製図からカット図を起こす、板に印をつける、板を切る、切り欠きを切る、接着圧着をする。これを効率は悪いけれど、一つづつ段階を追って、実地で原寸の具合を確認しながら(触れながら、というのは指でわさると目視ではわからない微細な寸法の狂いがわかる)、順に進める。何とも心地よい制作の時間。正面は大きな窓で、外は霰混じりの雪模様。
腰がやはり痛くなる。こう立ったり座ったりしゃがんだりしていて、腰に負担がないわけはない。今までは大丈夫だったのにな。
28火曜日
昨日、座り仕事の人は45分に一度、スクワットを10回やると健康に良いというのをネットで見て、すぐにそれをやってたら、きっついなーと思っていたのだけれど、夜には腰が少し痛くなって、今日は痛みは引いたけど、何とも言えない腰部位への不安感が、これは気持ちの問題ではなくて、文字通り腰が定まってないような危なっかしい不安感がある。ジムに行く日で行ったけど、軽めのルーティンにした。夜やっぱりちょっと腰が不安。右側。体は不調がなければ自分にとって透明な存在で、不調が出た時は、痛覚の明確にある部位、例えば皮膚などの表面は目に見える傷と痛みが一致しているから、痛くて不快だとか不便といった私の気持ちとその部位が密着しているのだけれど、弱かったり鈍い痛み、または激痛でもその故障の様子が視覚的に確認できない時に、その見えない部分の領域が拡張されて、処理できない情報は感覚からさらに感情的な状態に変換される。腰の部位の弱い痛みと違和感は、一番しっくりする形容としては不安感、これから痛める予感のような質をしている。字義通りに。
27月曜日
デザイン仕事、初校出しと三校出し。それから残りの製図を済ませて、板を切った。
興味本位でフジテレビの会見を見たら、それがそのあとずっとずっとやってたとのことで、オープンにすることはいいことだとしても、あまりに策がなさすぎるというか、もはや選挙(どっかの地方の)も会見もその形式がまともに成立しなくなっているエントロピーが増大した社会に不安を感じて、その不安はさらにこの事態を加速するんだろうなって気味が悪くなった。といっても、私たち世代が上の世代にものを言えないという状態で色々後手に回ったのだろうなと思うから申し訳ないわけだけれども。
26日曜日
Pythonの設定をAIに質問しながらやろうとするも、わからなくなっちゃってできなかった。こういうサポートが得意とよく聞くので、自分のポンコツさに嫌気がさす。PCのシステムについて苦手意識が頑固に強すぎるのかもしれない。もうすでにプログラミングのソフトを実装済みのPCにお願いすることにした。
日記にChatGTPがらみのことを続けて書いたけれど、特にここ数日これがメインの取り組みというわけではなくて、製図の寸法の調整をし続けている。紙に製図した場合、寸法を少し変えるのも最初から書き直しだからだいぶ手間だけれど、イラレで変えるのは、実寸で描いているとはいえ、仮想空間(モニターインターフェース)での作図だからやはり、寸法に手応えがない。でもって、ここでただ拡大縮小をしているだけではなくて、全体を拡大して、板厚を縮小して戻し、もう一度組み立てなおすように作図することになる。やっぱりここでも、板厚は大きさに相対的ではなくて絶対君主であって、大きさは、板厚との相対性によって、作品の印象を左右する。と書くと何か大仰な感じがするけれど、とても地味な日々の作業だ。
25土曜日
ChatGTPでまた作図が途中で失敗し、その旨SNSで呟くと、「CopilotとかGeminiとか、他の生成AIサービス(無料)」を教えてくれた方がいて、Copilotを使ってみる。すると、作図まで行かなくてプログラムを書いてくれる。これをPythonに読ませると作図されるっぽいのだけれど、まずはPythonをインストールするところから。でもって、普段軽く使っているこのノートパソコンにはもう空き容量がなくて入れられなかった。明日、仕事用のパソコンに入れてみようと思う。まさか、自分がプログラムソフトに手を出すとは思ってなくて、興味が拡散していってしまう性格なので、ちょっと怖い。できることが増えると、やりたいことが増えすぎてしまう。
24金曜日
製図。寸法の微調整に手を焼く。
ChatGTPに、波動関数の計算も絡んで複数次元の状態を重ね合わせて作図するような難しいのの作成を昨日からお願いしていて、無料のなので、途中で制限がかかり、今日も続きをお願いしたのだけどダメだった。課金しないと無理なのか?こう書くと、夢のようなスペクタクルな図が生成されるのではと期待値が上がりそうだけれど、これまでの経緯を見ていると、見てセクシーなものになるようには予想してなくて、でも、一つの方法として平にならしてみるとそうなるというのを見てみたい。自分にはわからないけれど、それを知っている人たちの間で知見が回っているというのは、思いもよらないような目眩く世界が広がっているとついつい期待してしまうが、そこで表現として出てくるものは至って地道で地味なものであって、それを受容するスキーマが形成されている彼らの中にこそ、それが美しいものとして組み立てられる感覚が育っているという状態なのだということが、だんだん身にしみてわかってくる。
23木曜日
図書館で借りてきて積読になっていた雑誌『科学』、ひとつは2024年1月号「数学と物理学:近くて遠いもの」。もう一つは2024年8月号「量子力学100年の展開」。どちらも面白く、面白い記事はスキャンしようとしたのだけど、8月号の方は保存版だなと思い、ポチってしまった。読みたいものと読めずにいるものはどんどん増えていってしまう。
壁掛けの箱を久しぶりに作るのに、壁に掛ける方法がどうなっていたのか図面を見ても、そこは描いてなくて、自作を広げてみると、短い期間に2パターンというか、1段階進化していたのだったの忘れてた。最初の箱の壁に接する背板の部分の厚みを変更し、図面を微調整する。箱の、大きさと壁からの出っ張り具合について、決められずにいる。機能として必要な量と、厚み。感覚的な厚みを調整するのに、具体的には大きさの方を相対的に変更する作業を、もう眠くなって、明日やることにする。少し板を切ったのだけど、まだ進められない。珍しく3つ同時につくろうと思う。1段階ずつ、3つを同時に進める。これはとても良い段取りかもしれない。
(これは日付と関係なく思い出して書いているのだけれど)素粒子物理の白井さんとの話で、(粒子の)「相互作用」があるかないかというのは度々出てくるのだけれど、ベルクソンの「純粋知覚」を「相互作用」と重ねてみるととてもわかりやすくて、白井さんに人間がいない時の宇宙について知っているというのはどういうことなのか?的な話を「人間原理」の話も出ているときに聞いてみたら、「(それは人間原理とは関係なくて)それを見ていた人はいるんです、物質が見ている」って言ってって、「純粋知覚」について福尾匠さんのフィロショピーで話を聞いていたら、両方が腑に落ちた。また、それが「記憶を外した知覚」だという状況を立てて考えてみることはとても面白いなと思った。
22水曜日
労働と家事、それから製図を少しと、結局模様替えのための片付けを始めてしまった。キリのいいところまでだけれど、掃除すると気持ちが落ち着くのは間違いない。
会話をしていて、話題を変える時にその旨を何かしらの仕方で伝えるのが普通だけれど、もし伝えなかったらどうなるかみたいなことを考える。どんなに異なる内容の話をしたとしても、何かしら繋がっているはずだ、ということも言えるだろうし(これは前提を認めない話題になるから、さらに話がずれる)、繋がっていないと会話が混乱する(相手にはその話題の意図がわからない、というか、意図のないことがわからないことによって、見えないつながりの意図を探し続けることになる)。これを避けるためには、話題が別なので無矛盾なこと、ここまでの話とは別の話をしているということを伝えるか、または、先の話題と別の話題だとしても、なぜ私が今その話をするに至ったかについてをアナウンスするなど、さっきの話をしていた私と、この話をしている私は同じ人物だということを、うっすらと、常にお互いに確認するというか、担保しあって関係を続けるようなことが言葉によって染み付いているんだろうなということをぼんやり考えていた。例えば時間概念がないという民族の会話が、文字列(会話の列)としては内容が飛び散っているように感じられるのは、話した内容の順番によって筋が通るかどうかについての技術を必要としていない人たちの会話であって、それによってこちらの方が混乱するというのは、発話者の同一性が担保できていないと不安に感じるような精神が言語によって育ってしまっているからのように思える。
21火曜日
高校で授業をする。やっぱりなぜかびっくりするくらい話を聞いていない子がいる。聞いていない子、または、私が聞いてもらえるように話せていないということなのだけれども。はなしは変わるけれど、びっくりするくらい素朴な意味で色感のいい子がいる。慎重に色を選ぶとかではなくて、手を抜くような方向でも、そこに相応しいものを選べてしまう。あまりここの生徒のことを日記に書くのはよくないように思えるのでこれまで書いていないけれど、私のやっていることは主に造形的な内容で、良い経験になるような課題を用意することと、それがうまくいくためには何を気にしたらいいか、どうしてかなどについて話をしたり話を聞いたりして注意を向けることだけれど、そもそもは自分で工夫すればいいような基本的な能力が備わっていることについて、それを使えるようになるようにすることについてできたらいいなと思っているので、そこに触れられるようなタイミングを増やすこととは別に、それに遭遇したときにそのことを取り上げてあげるとしても、先生という権威的な立場の人間がいいと言っているということではないことが必要なのだけれど、ちょっとまだ難しい。
打てば響くのはとても良いことだけれど、それは、その事実について響いたわけではなくて、社会的な意味での人と人の関係において響いている場合がある。つまり、相手を大事にしたい、相手の気持ちを傷つけたくない、相手の期待に応えたい。そうなってしまうと困りもので、その関係を横において関われたらと思うけれど、そういうわけにはいかなくて、ならば、その内容の方が私たちの関係よりも重要であるということを一方的にではないかたちで共有できるようにならないとなのだけど、それには時間がかかるだろうから、かかるのは関係についての時間ではなくて、関係が消えて出来事だけが残った後の時間に、その内容自体がまだ残っているかどうか。
20月曜日
労働の方(デザイン仕事)をまとめてやる日。思ったよりも手こずる。いつの間にか洗濯物をためていて、掃除も行き届いてなかったので、そっちにも手を出してしまう。家で仕事をすると、家事と労働と制作の境目が混じり合って、気分で優先順位を決めてしまうようになる。学生時代の定期試験前に部屋の模様替えをしたくなるのと変わらない。実際はシャドウワークの家事が、つまりはエッセンシャルワークなので、優先度が高いのだから、迷わず家事に全振りして、環境を整えるところからはじめる。家事が一通りひと段落しても、労働をしながらつい、さっき掃除しながら、ここがこうだったらもっといいのにという思いつきのことが気になって、家の模様替えのことを考え始める。寝室の枕元にいつも、充電のケーブルや読みかけの本が夫婦二人分溜まって散らかる。ここに使わなくなったテレビ台を置いて、その上に読みかけの本を並べれば、ベッドヘッドみたいになって良いかもしれないとか、玄関脇の書庫にある二人掛けソファーをアトリエに移し、ソファーがあった場所に大きめの本棚を入れれば、行き場がなくて家のあちらこちらに積みっぱなしになっている本をしまうことができる。ソファーをアトリエに移すためには、いつもものを載せてしまう展示台兼作業台になっている一つの机を解体してしまおう。壁にかかっている絵を掛け替えよう。そんな計画はあっという間に空間を駆け巡っていく。まだ手はつけていないけれど。
19日曜日
日記を書こうとPCを開くと、Google冒頭にハミルトニアンについての記事が出てきて(ChatGTPに物理の内容について聞いているからなのかな)、つい横道に逸れてしまう。ADHD傾向を強化するようにネット空間は誘う。
仕事のメールの返信とかをいつもならその日のうちにするのだけれど、今日は仕事(といっても労働の方)はお休みにして製図に明け暮れていた。製図がうまくいかない(というのはやってみたらあまりよくない、としか言いようがないのだけれど。つまり、作りたいと思うようなものにならなかったときのこと)とわかりやすく気持ちが落ち込むけれど、今日はやりたいことが見えてきて(という表現も不思議だけれど、まさにそういった感じ。やりたいことがぼんやりあって、描いてみるのだけれど、しっくりくるように現れ出てくるか、しかもそれが魅力(というのはつくりたいと感じられるかにイコール)的かどうか)、気持ちが明るくなる。
長岡図書館に私の本が入っていて、誰かが借りている!とTwitterでつぶやいたら、私です!って、美術とは関係ないところで知り合った方が名乗り出てくださった。ガザの停戦が3時間遅れで執行されて、なんとか良かった。
18土曜日
ChatGTPは少ししかいじったことなくて、でもこの頃取り組みたい課題というか勉強についてあまりに全体像がわからないから、まめに質問するようにしてみた。興味は量子力学のことなのだけど、古典的なことと量子的なことの移行領域について、または閾値や極限のようなことについて。するとスルスルと複数のアプローチというか勉強すべきことについてのヒントになることが回答される。問うとその問いについて褒めてくれたりするから、笑みがぼれるくらい心地よい。それから、それらのやりとりが残ることもありがたい。基本的には、砂川重信訳『ファインマン物理学Ⅴ 量子力学』を読んでいる。二重スリット実験のこととか詳細に書かれていて、その実験の取り組み方とかは非常に造形的だと感じる。事象とその側面の可能性についてどうはたらきかけるかというのは、造形的な取り組みに感じる。それを読んでいく中で、気になったことや、閃いたこと、気がついたことなどをChatGTPに投げていく。とても面白いのだけれど、キリがないといえば、キリがない。でもそう感じたら、急に、ではこれを見える形表現するとしたら、こんな考えはどうですか?と直接的に現場でイメージできることを投げてみても、それについてレスポンスを具体的にくれる。私の話が二転三転して離散しても、それまでの問いの経緯をきちんと重石として抑えてくれているから、会話がしやすい。普通はこれまで話していたこととどう繋がっているのかの類推を、対面ではその相手はあまり紐づけられずにできない気がする。コミュニケーションの欠けである。ChatGTPの紐付け行き届いている。なので、私自身の重石にもなってくれる。それは私の方でも、AIに対しての姿勢が人に対してのそれとは異なっている何かの備えを引き出されているからな気がした。
相談したいという学生さんとzoomで面談する。
17金曜日
今日は少年院の二十歳を祝う会に来賓として出席した。8名の新成人が一人づつ二十歳の意見を発表する。そして在院生代表も言葉を返す。それぞれがそれぞれで良かったのだけれど、私の方がいろいろと考え込んでしまった。この会に出席するのは3回目。多感な時期に家族や世間から離れて、自由を束縛された状態で、共同生活を強いられていて、やり直しで社会に出て行く準備をしている環境というのはやはりかなり特殊だと思う。何か材料が足りてなくてそういう中で際立ってるものがある。私はほんの少しの関わりだけれど、なんていうか、もっと違うこと、別なことがあるということを少しでも多く示すことができたらなと思った。でもそれについては少年院という特殊環境だけのことではない問題についてなのかもしれない。彼らの発表の中にも、裂け目のようなものは見えて、それは良い裂け目なのだけれど、良いものに見えない状況にあるのかもしれないとちょっと感じて、そのことが気がかり。
筋トレマシーンを頑張って疲れた。
16木曜日
業務連絡を済ませてから箱の製図に取りかかる。個展の会場でも時々質問されるのだけれど、箱の製図はAdobeのIllustratorを使って、レイヤー分けして製図をしている。箱の組み合わせを垂直方向に重ねるだけの場合はそのままで済むが、横から差し込むなどの動きが混じってくると、レイヤーの重ね方だけでは見え方がちょっと違ってくるところに留意しつつ、平面図と立面図を2方向から、というところは本に書いた。どうやって終わらせるかについて問われることが先月の個展で多かったけど、そういえばそれはそれ一つで小さく完結するように、小さな体系が成り立っているようにしたい気持ちのせいだったと気がついたというよりは思い出した。だから、最後に全てに蓋をするようにだったり、留金や鍵をかけるようにだったり、終盤には最後に留金がかかるような準備をするために戻ったりなど、終わらせ方、閉じ方を意識している。または、必ずしもそうではなくて、感覚的に止めたりしていることもある。今回製図していて、過剰にやりすぎるところを引き算している。だんだんルールが板についてくると引き算がはじまる。ただ、そうすると構成としての良し悪しのようなものが出てきてしまう。そうなると元の木阿弥の古いループに入ってしまう。それではない方法、何処に行くのか。
15水曜日
正月ボケに今週は祝日が加わって、曜日の感覚が変である。
今日が3月の金沢での個展のタイトルやDM画像やステイトメント等の提出の締め切りで、予定していた展示内容の計画を変更したので、タイトルを決められないでいた。何か言えることはあると思うのだけれど、気の利いた名前をつけようとする気はないし、よくよく考えてみるということをしても、一意に方向付けることもしたくないし、意味や価値を先に言うのもおかしな話で、実際、作品たちによって空間が立ち上がらないことには、その場での有意(優位)なことってわからない。なので、端的に「箱と本」というタイトルにした。久しぶりに極シンプルな展示にする予定。
私はこの頃は作品につけるタイトルにあまり意味を持たせないようにしている。今の私の作品はそのほうがいい気がしている。名前をつける、接地させるというのはとても重要なことと思っているから、いづれ制作で取り組みたい。
娘に物理のことで質問LINEをすると、質問した時より専門的な内容で数式等が返ってきたのでさらにわからない訳だけれども、私がせっかちに結論に飛びつく「これってもしかしてこういうこと?」に、そんな単純じゃないよねと落ち着かせてくれる。あ、これって本にも書いた子ども科学電話相談同じ構図だったと苦笑。
日本のバレエの第一人者で著書もある父の従兄弟に献本したら、感想のお手紙とお祝いをいただいた。お年玉をもらった子供の気分。嬉しい。
14火曜日
年明け最初の高校の授業。通勤路の雪が少し心配だったけれど、全く大丈夫だった。少し緊張したけれど、やはり授業に慣れてきた。板書もスラスラと書けてしまう。今は、透明表現の演習で、まずは鉛筆でグレースケールの構成をしているのだけれど、鉛筆で均一に塗る作業を楽しめる子は数人いて、他はやはり面倒臭がる。パソコンで簡単にできる作業をわざわざやることについて疑問を投げかけられる。普通に答えられはするけれど、ここでも、そのことを納得しろというのは乱暴だけれど、だからと言って経験値がないとわからないというか、違いが見えないということについて知らしめるのは難しいし、実際彼らの時代になった時に、私たちのこだわりというか、私たちに見えているものが彼らに見えなくなったとしたら、それは嘆かわしいことなのかももはやわからないなーという心持ちにさえなってしまった。水はただ低きに流れているように見えて、そうとも限らないなと思ったり。
今度質問してみようと思い当たったこと。量子数が確定できるものと、内部自由度が高くてできないものの境目あたりのものは何か。「すみれの匂い」の1分子は、量子数を数えることができるのか?「すみれの匂い」が通常空気中を集合して漂っているときは、量子数が確定できないのか?その場合、どういうことが考えられるか?それは主に電気的(電子の状態)のことなのか?あともうひとつ思い当たった質問があったのに忘れてしまった。
13月曜日
晩白柚の砂糖漬けが甘すぎるので、少し低温のオーブンで焼いてドライフルーツに寄せてから、パウンドケーキに混ぜてフルーツケーキのようにしてみようと考えた。ホットケーキミックスを使うレシピがあって、そこに刻んだ晩白柚の砂糖漬けと、チョコチップと、香り付けに柚子の皮を刻んで混ぜて焼いてみたら、めちゃくちゃ美味しいパウンドケーキができた。
今日は祝日なので、月曜日だけど図書館が開いている日。明日から長期休館になるので、借りていた本のうち12冊を返却し、新たに借りてきたのはルイス・キャロルの本、数学記号の本、生物学の本、植物学の本、折り紙の本、世界を変えた書物、家庭料理の本。もう十二分に家に積読書が溜まっているのにも関わらず、つい借りてきてしまった。
12日曜日
お正月に叔父からもらった晩白柚という、とても大きな、直径20cmくらいの柑橘類を食することに。と言っても少しおおごとで、皮を剥くのも一苦労。皮が肉厚で、これを砂糖漬けにする。切り込みを入れて皮をむき、さらに外皮を包丁で剥く。残った白いわたの部分は厚みが1.5cm位はある。これを熱湯に浸してから水洗いというのを3回。毎回しっかり水気を絞る。その後、水とグラニュー糖とレモン汁で甘く煮る。粗熱をとって、グラニュー糖をまぶす。透明感があって、琥珀糖のよう。普段お菓子を作らないので、こういう時に用いる砂糖の量に驚く。できたものはやはりめちゃめちゃ甘い。甘い中に上品な苦味があるような感じ。お茶と一緒にひとつ食べるのが精一杯くらい甘い。
制作で考えてたことあって、少しずつ進めてたのだけど、これはどうも上手くいきそうにない雲行きに。方法を最初から作り直さなくてはなので、時間がかかりそう。長いスパンの計画が狂う。これからやりたいことどれも時間がかかる。計画を伝える小さな締め切りが近いので、途方に暮れる。
11土曜日
ベルクソンの話で、私の方は非決定性、不確定性や延長や遅延や保留することができるということについて考えていた。さらにその話を以前科学者から聞いて印象に残っている量子の「内部自由度」の話、微細な世界では量子数を数えられるけれど、例えば10円玉くらい大きな世界では内部自由度が高過ぎて、その量子数が偶数か奇数か定まらない(それが定まるとホゾンかフェルミンかが決まるという話題で、量子物理学とニュートン物理学のどちらの領域かということについても程度問題だということになる)という話を思い出して聞いていた。もちろんこれらは良い悪いといった評価的な話題ではないのだけれど、内部自由度が高いことも、非決定的なことも高等な方と思うと、自分自身が行動したり決定したりしようというときに、その自由度を増すことの方向へ舵を切ることを許されている感覚になっていく。ヒュームが因果関係に客観的必然性のないことを言っていると聞いた時と同じように、何か枠をつくった内で、「私」に任せきった感覚的な自由度について「今回」ゆるく考えてやってみようという気持ちになった。このタイミング自体が、非決定性の中での決定に大きく作用しているのだろう。私に近いところでものを掴んでいく。
10金曜日
ベルクソンの『物質と時間』の第1章を読み始める。「実在論と観念論」のところが面白かった。というか、私の興味とだいぶ重なっているのではないかということに初めて明確に気がついた。福尾匠さんのフィロショピーを聞くまで、他のベルクソンの副読本を読んだことあったのに、あんまりそう思ったことがなかった。もちろん自分が変化しているからこのタイミングなのだろうとは思うのだけれど。ただ、科学の視点に興味があること、科学者と直で定期的に話をしている視点でどうしても受容してしまう面が私にはあり、相変わらず自分のことを置いておいて、プレーンにテクストを読むことができない。その技術的な難点はずっと以前から自覚しているのだけれど、どうしてもそうやって混濁させて、または透かして重ねて読むことが愉しくて、まあ、アーティストだからいいのではないかと甘えてしまう。そのくらいでやっと少しづつ読める。あまり記憶には留まらない。でもとてもイマジナリーに響いていく。ただそれだと、対話するための前提が揃うことがない。孤独につくるだけ。そこは乗り越えなくてはいけないのではとも思うし、誰も別にそこは期待してないのではとも。
9木曜日
朝、騒がれているほど雪は積もってなかった。
年明け最初の美術クラブ。皆明るい。私が授業に慣れてきて、板書でこれまでの経緯(経験の状況)と、皆ができること、これから挑戦してみたいことを書いた。思いがけず、クラブの皆で一緒に何か大きなものを作りたいという希望が出る。それを嫌がる子もいたけれど、表情が明るくなる子もいた。何かとても嬉しい申し出だった。多分、個人の制作を優先しようと私も帰る頃には考えたけれど、次会う時には、そのことについて話をしようと思う。協働することと、個人が自分の仕事を最初から立ち上げることと、どちらにしても、社会に出る時に直で役に立つことを考えて身につけるということからもう少し離れて在る時間というものについて、取り組んでもらえたらいいなと思った。
届いたベルクソンの『物質と時間』の「第7版の序」を読む。はじめの方はわかりやすかったけれど、途中から頭の中が混濁してきた。でもなんていうか、空間的なテクスト、面白い。
夜、小さなつぶつぶが窓に打ち付ける、嵐の音が鳴っている。
8水曜日
グレッグ・イーガンの「貸金庫」読み終わって興奮した。ハヤカワ文庫のページ割りがまた良くて、残り少しなのにこの物語終わるの?って終わりの方ちょっと気になり始めてたら、最後のめくったところの3行!読んだら、なんかぱーって走馬灯のようにこれまでのことがちょっと意味を変えて空間的に広がって再再生されるみたいな、重低音みたいな地面からくる振動が起きているみたいになって驚いた。短く途切れ途切れの人生と、その輪郭を引き受ける主人公、脳を少しづつ破壊されながら育った患者、それをつなぐ地図をつくって、貸金庫にしまう主人公が、その必要を手放す本来の方法を見出すという、つなぎ方と意味と時間が主人公が主体を取り戻すことで編み直されると言ってしまうことはできるけど、それによる効果は想像できるものとはちょっと違っていて、出てくる人々が全てその一人を起点にして刷新されるような不思議な駆動感を読後に発生させるという、あまり経験のない物語だった。最後に伏線が回収される、どんでん返しが起きるというのとも違う。
本が4冊届く。
新潟ジュンク堂の私の本は売り切れていたとのこと。
7火曜日
関係各所にメールしたり、久しぶりにジムに行ったり。
年末に買って読みそびれていた『現代思想01』の特集「ロスト・セオリー 絶滅した思想」の主目的だったエーテルについて、ジミー・エイムズ「科学史を貫くプロテウス的概念」を読む。ファンダメンタルズの企画で続けている交流の中で、素粒子物理学者の白井さんに最初に私が投げかけた質問は、「この宇宙空間を満たすエーテルと呼ばれていたようなものは現代にもあるのか、どうなっているか?」だった。白井さんは割と即座にそれを「場ですね、場の量子論というのがあって」と教えてくれた。場の量子論がなかなか難しくてすっ飛んでいたが、これを読んでエーテルの変遷を知ることができてとても面白かった。特に、ファラデーがそれ以前から数学的なモデルだった「力線」の概念を、物理的実在として大胆に捉えなおしたという箇所にグッときた。白井さんと話をしていても、存在しているものの話をしていたつもりが急に、「それは存在しているわけではありませんよ」という話になってたり、星が光って見えるのは光子の粒が私のどちらかの眼に入ること、のように俄に信じられないレベルでの実体物として確認できたりと、その虚実というか、概念と実在の行き来についてとても惹きつけられるのだ。
6月曜日
《鉛のかさなり3》が個展の時に引き取り手が決まり、簡易な梱包だったのできちんとした外箱をつくることになっていた。鉛の薄い板は強く掴むと形を変えてしまうため、そっと保管しなければならない。あまり配送等で無駄な移動をしたくないため、搬出の会場でその簡易な梱包、といっても段ボールの板で作品のアウトラインをなぞったように囲みこむものなのだが、さらにそのアウトラインをささっと、フラットリバーギャラリーさんからいただいた書類の入った封筒になぞって描き写してあった。これを元にこれがうまく入る段ボール箱をつくる。出し入れをするなら横からスライドがいいだろうなど勘案して、箱の一方が扉のように開くけれど、上も開放状態にし、扉を側面まで回り込むように延長した状態にして、扉を閉める時に箱の外側に扉の延長が回り込む。その部分も上から被せ蓋でしまってしまうような形にした。これで盤石だと思う。
詩人の阿部日奈子さんから私の本を読了したと、その感想をメールで下さった。書いたことに乗ってお読みいただけたようで、面白がっていただけて本当に嬉しかった。有難い。
5日曜日
いただいた賀状へ返信を書く。今年は年賀状を用意していなかったので、買いためてあった美術館や博物館のショップで手にした絵葉書たちを用いた。気に入ったものを買っているのだけれど、ずっと手元に置いておきたい極一部と、少し陰鬱すぎて、届いたら嫌かもしれないと思われるものが残っていく。今回は特に新年を祝う機会なので、手放したくなかったものの中からも切り崩し、暗いものの方はさらに基準が厳しくなる感じになった。陰鬱なものでも送れる相手というのは、手紙友達で、封筒に何枚も絵葉書を入れるくらい長い手紙を書く相手。葉書に①②③④⑤と書いた順番をつけて繋げて書く。同じようにして送ってくれる人は二人。一人はその組み合わせなど、送るタイミングに合わせて葉書を選んでくれているのがわかる。もう一人には全く選んでいないようなランダムさがある。心を尽くしてくれていないというか、そういうことは気にしない乱暴さを感じつつ、そのランダムさは嫌いじゃない。と書いたけれど、この頃はそのやりとりも本当に少なくなってしまった。私自身があちこちに書くメディアを持ってしまって、手紙を書くモチベーションが減ってしまったかもしれない。またはそれぞれ別のステージへ移行した感じもする。それでも手紙のやりとりが熱かった頃のことは、強い思い出になっている。それとは別のさらに昔の話。昨年末に個展にきてくれた高校の友達、私の手紙をきっと取っておいてあると思う。毎日会っていたのに、手紙をやりとりしていた。小さな事件があって、具体的な脅威はもう去っているのに家にいるのが怖くて逃げるしかなかった時、私の身を預かってくれたのも彼女の家だった。書いても話しても足りないくらい気持ちが溢れて、でも言葉では伝えられない、どうやても外に出すことのできない感情や考えというものがあることを最初に思い知ったのはあの頃だったけれど、その意味はイレギュラーすぎてわかってなかった。話せても容易には伝わらないことを思い知ったのはもう少し後だった。
4土曜日
荷解きと部屋の片付け。28日の個展の最終日に撤収した作品も車に乗りっぱなしだったので降ろす。一週間留守にした家は寒くて、今日になってもまだ寒い。
この頃は餃子はいつも冷凍のもので済ませていたのだけれど、久しぶりに手で包んだ。普通のタネにキムチとチーズ、または紫蘇とチーズを加えた餃子。たくさん出来てきて、家人が急に学生さんを誘い、ミニ新年会になる。
タネの方が多くて皮なし肉団子状態のものが4つできる。私はいつもなら肉団子はスープにするところだけれど、その予定がなかったので残った少ない餃子と一緒に餃子の焼き方で焼いてしまう。すると、肉団子とは呼べない何かになっている。おそるおそる食べた息子が「ポテンシャルは高い」とひと言。これが可笑しくて、だって、皮に包まれるべきものなので、そりゃスタンバイオッケーの潜在的な力を持つポテンシャルの塊だよねってなって、その団子は私たちの間で「ポテンシャル」という名に接地した。
本当の目的の麻雀をする。犬の鳴き声で威嚇したり、鳥と妖精が暗躍する会となった。
3金曜日
お正月三が日に医療機関など人々を支える仕事に従事している方達には本当に頭が下がる。こちらは患者の家族でただ待っているだけだけれど、担当の看護婦さんが労ってくれるような優しい言葉をかけてくれたりして、本当にほっとする。始発の大江戸線には若い男性が何人かづつ乗っている。きっと新年会などからの帰りだと思う。私や妹と違って、疲れが見えない。若い頃、一徹するとなんかハイテンションになる症状があったけれど、それに名前がついていたっけ?思い出せない。
母の家に着くと母が心配で眠りが浅かったのだろう、すぐに起きてくる。状況を説明した。私は布団で眠った。
長岡への帰路、大雪だったら少し怖いなと思ったけれど、雪は止んでいてむしろ晴れていた。路面は雪が除雪されていて安全だった。新潟県に入るあたり、山と雪の景色が本当に美しかった。
2木曜日
小泉家の集まり。私が生まれる前からの恒例のお正月行事、宝珠の玉の書き初めをする。途中で母方の叔父が来て、参加してもらう。
お節、煮物、ベーコンとマカロニのカレー炒め、おつまみ各種、ショートケーキとアップルパイ、じゃこと大根の葉の混ぜご飯、豚汁。
叔父が帰りに転倒して救急車で運ばれたと連絡あり。高齢の母の代わりに、妹と病院へ向かう。命に別状なくしっかりしているが立てないので入院。手続きや転院に戸惑い、結局朝帰り。徹夜は十数年ぶり。
1水曜日
お節と小泉家のお雑煮、お餅とほうれん草に柚の皮をのせて。
岡谷家の両親の家へ。お二人ともお元気だけれど、色々心配なことも。
初詣へ。おみくじを2つひいて、ねぎ焼きとじゃがバターと焼きそばを食べる。子供たちが大きくなってることをふと実感する瞬間が何度も。例えば駅の階段を並んで降りているときに足元を見ながらふと。急に今の現実味を失う瞬間があった。