2024年8月
31土曜日
朝、浄土真宗のお寺に行って父の一回忌法要。ここのお坊さんの話は前回に続いて面白く、今日は「恒常」についてだった。「恒」は日常的な意味での「いつも」で、「常」は仏様の世界での「いつも」でこれはずっとずっと続くものだそう。
納骨先の霊園に移動して、墓じまいを済ませて預けてあった祖父母の骨と一緒に、樹木葬の小さなお墓に納めた。宗派を問わない霊園とのことだけれど、こちらは曹洞宗で、全く異なる世界観のように感じた。仏様を困惑させないのか少し心配だったけど、母が満足そうで良かった。
30金曜日
金土日と上京の予定だけれど、大型台風が近づいていてソワソワしていることと、今月は本当にタスクに追われていたことで内向的に過ごし過ぎて、家を出る気になかなかなれず、予定を立て切れてなかった。でも明日の父の納骨は外せないから、どうせ大きな荷物を持って行くなら車で駅まで送って貰える時間のうちにと、慌てて準備して出発。とりあえず一旦実家に向かう。早く着いた私に母が冷麦を茹でてくれて、一緒に昼食。その後両国へ向かう。
LIGHTHOUSE GALLERY で大槻英世さんと山田はじめさんの二人展 Still-Workへ。
大槻さんとはどう知り合ったのか忘れてしまった、『点点』だった気がする。彼のことは知っていたけれど作品を見るのは初めて。2人の画家が、キャンバスの上に限らない領野で画家をやるということについてガッツリ取り組んでいる様子を拝見して、凄く熱い気持ちになったのと、どれも面白かったのと、迂闊にも、帰ってテクスト読んでから、ペーパーパッドのマステ再構成作品が、2人の合作だということを理解した時に、手仕事の個体性の強度が、その制作主体の強度を意味として反転するような(弱めたり滅するような)、不思議な感覚があって、そのやりとりを羨ましく思った。
夜遅く、NHKでにんげんドキュメントの「光れ、泥だんご」の再放送をやっててとても良かった。火曜日の加用先生に会ってみたかったな。自分の子ども時代の気持ちも沢山思い出した。
29木曜日
ゲロルフ・シュタイナーの『線画の世界 人間のもう一つの言葉』を読みはじめた。この動物学者が別名で書いた『鼻行類』はとても人気があって話題になったらしいけれど、私は未読で、そのことを教えてくれたのは、アーティストの小川敦生さん。obiの個展にいらしてくださって、チャンドス卿と類語辞典の話を面白がってくれて、言語への懐疑の話から、鼻行類の話題になったのだった。
以前、木の下に虫の糞がいっぱい落ちているのを見つけて、虫を探すも見当たらず不思議に思っていたのに、だいぶ経ってから芋虫を1匹見つけた途端に、大量に木に付いているのが見えて、その急な一目瞭然っぷりに驚いたことがあった。本のはじめの方に、これと同じような現象について指摘がされていて、興味の方向が一緒だなと。
私は幾つもだいぶ遅れをとって色々なことを考えているけれど、先人達のパン屑を拾って歩いている心持ちで、誰にも追いつけないかもだけれど、愉しみたい。
28水曜日
クラブの準備。クロッキーをやろうかと思い、ポーズしてみたり、描いてみたりを家族に手伝ってもらってシミュレーションする。5分立ちポーズは意外と長い、というのは、立っているのが辛いというよりは、短いと思ってラフに描きはじめると時間を持て余し、もう一歩踏み込んで描こうと思うけれど、時間ないかなーとか逡巡しているうちに時間を無駄にしてしまう。なんていうか、身体の構造を気にしはじめると、そこから次に進めなくて、もっと自由に描こうと思うと、ありんこが身体の表面を這うみたいに、普通の鉛筆持ちして描いた方が楽しかったりする。紙がA4のコピー用紙のせいもある。人の絵なんか描かないからなと描けなさに恥ずかしくなりながら、そういうことではないと、楽しめるように場を持っていきたい。けれども、画板もカルトンもなくて、机の上からだと足元が見えないことに気がつき、画板を用意してもらってからにすることにした。
図書館でスケッチの本などをパラパラ見ていて。水滴と煮干しとかめざしを卓上で描いてみることに決めた。野見山暁治の『さあ絵を描こう』(河出書房新社1988)をパラパラ見たら、若い彼が自画像描くのに、上半身裸で洗面所の洗面台の上に画板乗っけてて、カッコいいなと思いつつ、笑ってしまった。 その写真の下には「これを見ると絵は嘘っぱちだということが判る。」で、さらに笑う。とても良い。
まだ手にしたことはないけれど気になっている『鼻行類』の著者のゲオルフ・シュタイナーの『線画の世界 人間のもう一つの言葉』という本をたまたま見つけた。とても面白い。
今夜から、音読会は『日本哲学入門』藤田正勝著。事前にパラパラ目を通すと、「湯浅泰雄」への記述があって嬉しい。はじめにと第一講の途中まで。話が重複していて少し退屈というか、高齢の大学の先生の授業ってこんな感じだったなとちょっと懐かしく感じるなど。つまらないわけではないし、三講あたりからをとても楽しみにしている。若い書き手と老齢の書き手の構え方の違いってなんだろうというか、ちょっと面白い。
27火曜日
独自の仕事をしている人の展示についてのデザイン仕事。とにかく自分の課題に取り組んでいるものを目にして、複雑な心持ちになる。
ちょっとソワソワしてしまって集中できず、粛々と進められるものに時間をさいて過ごした。
26月曜日
音楽配信ジャケットを制作する課題を出そうと思って、デザインの見本になるものを資料として用意しようと、現代のものには疎いから、歴史的なことでいいと思い色々調べていたら60年代ー80年代のものが多くなった。LPは音楽配信とはブツが異なるけれど。知らなかったJAZZのジャケットも優れたもの多数だった。授業の準備が思いのほか楽しくて良かった。古い話をして、今の皆の話を聞くのも楽しそう。
福尾匠さんのフィロショピー、ドゥルーズ会最終回。受講して、自分の記憶力のなさに辟易するところがあり、ドゥルーズが興味深い内容を丁寧に整理して(というか、本読んだだけではわからないところを福尾さんが丁寧に整理して)いるのでスーッと入る感じがするのだけれど、すぐに全部混じり合ってしまう感じがして自分にがっかりしてしまう。未だ何かを取り出して言うことができない。でも、間違いなくおかげさまで、ドゥルーズという人が何をしようとしたのか、何を考えて訴えていたのかは染みてきている。それから、その下敷きに、私がヒュームに惹かれたことが助けになってることも。自分のできなさにがっかりはしたけれど、基本的には自分をとても勇気づけてくれる経験だったし、できなさを知り、できるようになることについて前向きにずっと気にしてやっていきたいと思った。
25日曜日
珍しく、クリームシチューのできがイマイチになってしまった。バターに対して小麦粉が少なすぎたかもしれない。サラサラ過ぎた。
今はエネルギーがうまく回ってないくて、とても早く寝た。この頃飲んでいるアルコールの質があまり良くないように思うから、しばらくやめようかと思う。
24土曜日
キャンプの片付けと洗濯大会、印刷入稿しそびれていたデータに発注をかけるなどの労働仕事、請求書の発行等の事務作業を粛々と。
人物スケッチする機会がなくて、そうだ、アマプラ見ながらスケッチすればいいんだと思って、食休みに外国人俳優を描くなど。
アーティストで編集者の藤本なほ子さんから、出たばかりのあいだで考えるシリーズの『ホームレスでいること』(いちむらみさこ著 創元社)を送って頂いた。まだつまみ読みだけれど、以前、某youtubeの番組でピダハン(数概念が3までと時間概念がない)のことを知った時、狩猟採集の暮らしより、土地所有が人々を争わせるのかもと思ってびっくりしたのを思い出した。公共の空間の公共性がどんどん失われて、皆の場所は管理された誰のものでもない場所になり、横になって休むことも許されないなんて。住む場所にコストを払わない限り、生きることを許してもらえないのが当たり前過ぎることを思うとゾッとする。「ホームレス問題」というカテゴリーに括られた一つの社会問題ではなくて、私たちが生きていくことについての根本的な問題提起と実践がとても濃く書かれていて、一人でも多くの人が読んだらいいのにと願う本だ。
23金曜日
息子が起きて張り切って焚き火に火をつけていた。昨晩の鳥手羽元と玉ねぎとジャガイモのスープにトマトを足して煮込む。レタスと胡瓜を盛って、卵とウインナーをフライパンで焼く。ご飯も炊く。今回も美味しく炊けた。
撤収まで頑張れたけどクタクタで、まずは、ミオンなかさとの温泉に入りに行き、近くの蕎麦屋でお蕎麦を食べて、雨宮庸介さんの「シ竜シ尺」へ。VR作品を体験するのにトラックに乗り込む。ここに来るまでに、くねくね山道を走ってきて、キャンプの疲れもあり、昼食後で、珍しく車酔いというか具合が悪くて、受付の人に説明を受けてちょっと心配になったけれど、集会場で見るのではなくて、トラックに乗って本当に良かったと思う。丁度、妹からLINEで「幸運なことがあったのに、パレスチナの惨状が気になってしまって」というメッセージを貰ったタイミングだった。雨宮さんの話を聞けて良かった。
皆、満足したのと疲れていたのとで、そのまま真っ直ぐ家に帰った。下道で帰ったので、「この集落のことを考える」というのがまさに、「わたしの住んでいるところを考える」ことと道でつながっていた。私のいるところは平たいところで、あちらは切り立って壁のようだったわけで、とか、空中に放物線を描いてみたりしていた。
22木曜日
今日から夫と息子と3人で一泊のキャンプへ。その前に、越後妻有の大地の芸術祭へ何箇所か。キナーレ(MonET)、農舞台、妻有アーカイブセンター、中国ハウス、椛田姉妹の展示へ。
その後、津南町にあるキャンプ場へ向かう。予約したサイトがとても奥まった場所で、ここで熊が出たわけではないと聞いても、私は熊が心配で怖かった。水辺の近くで、見えない川の流れの音と、私たちしかいない感じのキャンプ場。
元々はホワイトガソリンを入れるポンプ式のランタンを使い慣れていたのだけれど、代替わりしたガスタンク式のランタンは、あまり気に入ってなくて、ランタン無しで来てしまったら、真っ暗で、急遽、防災時にこうすると良いと以前テレビで見ていたペットボトルの水にほんの少し牛乳を垂らして白濁させて、懐中電灯の上に乗せるていうのをやってみた。ソーラー充電式のラジオライト充電器を持ってきていたので、レジ袋にそのペットボトル、その上に光をペットボトルに向けてラジオを乗っけて、口を縛り、紐で縛って固定して、タープのポールにぶら下げた。
夫が入手した中古の焚き火台で焚き火して炭もつけて湯を沸かし、まずはとうもろこしを茹でて、その茹で汁で枝豆を茹でたら超美味しかった。ご飯は、飯盒で炊くよりも美味しく炊ける、陶器製のお釜を見つけてあって、それで炊いたら最高だった。肉や、津南ポークのソーセージを焼いて食べた。とても美味しかった。
夜は、風も強く、熊も怖くて、水も怖くて、虫が多くて、少し寝床が坂になっていて、キャンプや野宿でこんなに眠れなかったのははじめてだった。というか、久しぶりだし、やっぱり私は自然が怖いのだと思う。焚き火は好き。
21水曜日
労働の方。コミュニケーションが難しくて負荷が大きく苦労したけれど、データを送信しようとする度に思いとどまって度々方向修正。粘り強くよくやったと思う。
Art Since 1900の読書会、1951年のバーネット・ニューマン。イブ・アラン・ボアの書いたもの。ニューマンの「崇高」についての箇所がとてもよかった。
20火曜日
また日記を書き忘れていた。
歯医者の予約が16時に入っているのを忘れていて、朝、ふとサイドワゴンに乗っけっぱなしのお薬手帳が目に入って、今日は歯医者の日だと思い出し、ヒヤッとした時に、15:45にタイマーをかけておいた。仕事中にスマホのタイマーが鳴って、飛び上がるくらいその音と、再び歯医者を忘れていたこととの両方に驚き、慌てて歯を磨いて徒歩圏内の歯科医院へ歩いて行った。ここ暫く続いていた歩道の工事が終わったばかりだったようで、真新しい白線と黄色い線の周囲に散乱していた、反射材のガラス粉末のようなものに、傾きはじめた太陽光が当たってたくさんキラキラしていた。
夜、ゆるユニットの日で白井さんたちとオンラインミーティング。観測現場の生データは「汚い」からノイズを落とす話と、「ハミルトニアン」の話。
19月曜日
勉強しようと思ってたのに、途中からついていけなくなってたものに一気に追いつこうと、配信動画を確認したり、本を読んだり。
数学の概要記述に関しての校正を知人のお世話になっている数学者さんに頼んであったのが届いて、ああ、プロの仕事ってこうなるんだなと背筋が伸びる。とても短い箇所にたくさんのコメントを頂く。
夕飯、いただいた小さめの茄子をすべて揚げびだしに。いろいろな種類のピーマンも、丸ごときつめの塩を振って、油で乱暴な焦げ目をつける勢いで蒸し焼きにし、鰹節と醤油をかける。ゴーヤはワタをとってスライスして塩もみし、さっと茹でて苦味をとってから、水気を切った木綿豆腐と、豚細切れ肉と炒めて溶き卵を回しがけて、塩胡椒醤油。仕上げに半すり胡麻と鰹節。夏メニュー。
食べながら家族で話をしていて、息子に鋭い指摘をされた。つまるところ要約すると、私から世間に対するルサンチマンが滲み出ているらしい。社会の事象について何に興味を持ち、どう批判しているかの全体像からそう感じたっぽい。反反ワクチン、コロナの陰謀論、放射能の風評被害、左派の活動家、パレスチナ問題などなど。確かについこれらについて気にしてしまうことに通底するものがあるのは確かだと思う。さらに、それによってそのことを気にしない人たちと溝ができることがあること(これに関してはとても注意しているつもりだけれど、その注意の仕方ももっと別の方向があるかも)、さらには罪悪感のようなものはできるだけ退けるようにしたい。
18日曜日
まえがきとコラム2つとあとがきを書き終えてやっと手放せるところにきて、午前中に送信した。
友人宅へランチの集まりがあり、車を走らせて車中で長谷川白紙かけてたら、なんか感極まって泣きそうになった。
普段一人の家に、東京に出てる3人が帰ってきて、私ともう二人友人が加わってのランチ。本格的なビリヤニづくりが流行っているらしく、実は私は初ビリヤニだったのだけど、本当に美味しかった。細長い米をスパイスと一緒に茹でて、茹で切らない硬さ?でチキンの方の鍋に足してた。私はサラダの野菜を切っていたし、下準備はおうちで済ませてきたらしいから工程を理解してないのだけど、長い道のりだったっぽい。
17土曜日
少し重たい仕事をしつつ、これもダメあれもダメ、きっとそれもダメだろうという通じなさを先取りしてPCと睨めっこしていくつも試しながら気持ちも重くしてしまうなど。甲斐のない仕事というものとどう付き合ったらいいのか。
外に出て、久しぶりに友人の小さな展示を見て帰ってきた。引き篭もり過ぎている。
昼につくっておいた豚バラ塊肉のカレーは、雑味があって、つまりちっともマイルドではなく食材もスパイスも主張していて美味しかった。こういうのが時々食べたくなる。
16金曜日
飛び込みの急ぎの仕事に取り掛かる。実はわだかまりがあって、酷い言葉はいつまでも残るし、埋められないセンスとコンテクストの溝がある。本当は嫌な気持ちを微塵も引き受けないために何かを退けて過ごせるようになるための仕事をしなくてはいけないなと思いながらも、常に不向きな調停役のところが行き止まりとして用意されていて、まずは自分の面倒を見るところから始めるような無駄な負荷に付き合っている。双六で何度も戻らされて、毎回失敗しているような気がする。表立って失敗はしないのだけれど、調停したいのか横流ししたいのかの判断すらつかないままに、機械のふりをして仕事をすすめる。
15木曜日
仕事の集中力が途切れて気分転換に互尊文庫(図書館)へ。作業の切れ目に雑誌の棚を端から。
現代思想4月号 特集「〈子ども〉を考える」の中の「正直に有りのまゝ」綴るということ―明治期の子どもの日記とその指導/柿本真代が興味深かった。といっても斜め読みだったから詳細書けないけれども。日記を巡って問題が起きることはあると思う。少しズレるけど、たとえば授業の指導で作品制作のプロセスを助けるために用紙を用意して、考えたことやイメージをメモさせて提出させたのだけど、作品を壁に掲示するとしたら、できればこのメモも一緒に掲示したい。学校現場の慣例だとそのことに何の躊躇もないように思う。生徒が相互に制作のプロセスを見て人の考えを理解することは為になるし、時にはその作品の価値を支えるし、頑張りが可視化されたりする。ところが、作品は公的な場面に提出される前提がほぼ共有されているけれど、それについてのメモなどの部分はプライベートなもので、指導者が目を通すことは前提していても、クラスメイトが見ることは元々は考えていないと思う。もちろん機微な記述があるようなものではない。けれどもそこは私は気になる。
日記はとてもプライベートなものだ。ここに公開を前提に書いていても、時々戸惑う。児童や生徒が先生に向けて日記を書く、または掲示される前提で作品として日記、たとえば絵日記のようなものを書く、そのあいまに、特殊なコンテクストの中に投げ出される場違いな生身の、または普通の感覚のものが、周囲や世間を大きく揺らすような、関係者を窮地に陥れるような事件事故が起きると思うととてもこわい。そのあいまの感覚があまり気にされず、見えにくいことがこわい。
実は私も子どものころ、正直すぎて結果、ある件を告発したことになり、教職員の間に問題を起こしたことがある。けれどもそれは私や生徒たちに伝えられることはなく、職員室や教育委員会案件だったと大人になってから察した。何かが起きていたけれど、表面化はされなかった。とても気の毒なことをしたと思う。別に詫びたい人もいる。
ユリイカの柴田聡子特集、とても良かった。武蔵美時代の話と、まさに今の彼女の話を読んだから、その間を飛ばして読んで感じる熱があった。
14水曜日
途切れていたデザイン仕事の方の原稿や依頼が入ってきて作業をする。
今読んだ方がいいかなと思う本はいくつもあるのだけれど、ページを開いては閉じてしまう。今は書いているものの方に集中しないとと感じる。とても簡単な作文がうまくいかない。
大森裕美子さんと2001年に新幹線でご一緒した時のことを思い出していた。その時に話した内容で引っ掛かっている事があって。確か、子どものことを展示で出したら美術手帖で批判されたという話だったのだけど、事情をよく知らず、事がデリケートに思えたのと、私自身小さな子を抱えての作家活動に不安を感じていたので、踏み込んで何があったのか聞けなかった。みなみしまさんが30歳の頃みなさんはどうされていましたか?というツイートを投げかけていて急に思い出して。ちょっと調べてみたら(検索かけたら見つけられた、すごい)、美術手帖1997年6月号(『セクシュアリティとジェンダー』が特集だというのも皮肉)の名古屋覚氏の展評だった。ギャラリー現での大森さんの展示、前期のマーキュロクロームのシリーズの後の後期日程で、彼女が幼い長男記詩さんのドローイングを展示していて、「この展示は私の制作をつねに支えてくれている記詩に捧げます」と掲示してあったことに対して、「子どもの絵はやはり子どもの絵。芸術とは無縁である。こうした行為を女性特有のものとは思いたくないが、アートの”おんなこども化”には異議を唱えたい。」と文末を閉じてあった。この展示は見ていないから詳細はわからないけれども、息子さんのドローイングが部屋の半分、残りの半分に、彼女が「一日一点づつ、葉書大の紙におもちゃの飛行機のプロペラをくっつけたり針のない時計のスタンプを押したりして作品としたシリーズ」が展示されていたとあって、この評と当時のことを思えば、非常にラディカルな仕事だったと思う。私にはそんな地に足のついた思考も、それを発表する勇気も決してなかった。
こんな古い美術手帖をなぜ持っていたかというと、そのまさに前のページが、私と詩人の関口涼子さんのコラボレーション展についての荒木夏実さんの展評が掲載さえていたから。とても懐かしい。
13火曜日
つけそびれていた労働の方の仕事のログをつけ、届いた原稿を元に仕事をし、夫が具合が良くなって嬉しそうにしているのを微笑ましく眺め、書き物やら修正やらをしていたら遅くなってしまって外食に誘うも、夫は病み上がりだし、子は外に出たくないというので、有りもので晩ご飯の準備をするも、天才的においしいものが簡単につくれた。東京に住む娘にレシピを問われてLINEで送るなど。
仕事をしていて程度がわからなくなることがある。これでは量が多すぎるのか、それとも全て洗いざらい並べた方がいいのか。ドラマチックであるとかそういうことから離れて、淡々とした物事を扱うとき、よくわからない。つまり冗長性ということなのか? でも重複はしていない、ただ似ているものはあって、その場合、端的に結論に近道するならそれほどの事実の羅列は必要でないわけだけれども、似ているものといってもその階層のなかで、それらは別個の事実であり、明確に分けられる事象だ。行き着くところはどれも同じで、行き着くことが目的ならば、特に反証されるような状況ではないので、いくつも必要な訳ではないことになる。でもAもBもCもDも別の出来事だ。これは特に出番が必要でなければ出さなくていいということになれば確かにそう。それともきちんと回収されなくとも、小さなそれらが降り積もる状態について伝わるだろうか? そんなまどろっこしいことはあまり経験がない。デザインの勉強をすると少なからず、視覚的、または歴史的、ジャンル的様式に則る以外は、できるだけ不要な物をそぎ落とすように教わって、それは極あたりまえのこととして染みついてしまっている。そんなこと考えたことなかったな。それをまるで、概念化や抽象化、構造化のようなものと勘違いして、必要以上に権威づけられていたところがあるかもしれない。それはただ単にコミュニケーションを円滑に行うための基底層のスキルでしかない。
12月曜日祝日
夫がまだ具合が悪いという。私も具合が悪いので、アトリエに丁度今置いてある簡易ベッドを広げて、その上で資料を読んだり書き物をする。道具の説明をつらつらと書いて、いつもぼんやりしたイメージであまり計画も立てずに書いてしまうのだけれど、もっと何か方針のようなものを立てて、意志を持って書くべきなのだろうか?
急にお世話になっている後藤さんからメールが来て、「別件で中沢新一さんの『構造の奥』という本を読んでいて、ふと」思い至った別案についてを伝えてくださったのだけれど、どうしてそうなったのかの因果関係が私にはわからず、その短い手紙が何かを勇気づけてくれる。
夕食の準備しているときから、謎に背中が痛くなり、酒飲んで久しぶりに肝臓?っていう気もしたけれど、晩御飯食べたら胃も痛くなって突っ伏して寝る。12時過ぎには目が覚めて、雪のことについてつらつらと書き綴る。引越してきたての頃は本当に雪に驚く日々だったなと色々なことを思い出す。
11日曜日
夫が熱を出した。喉が痛くて具合が悪く、寒いから風呂に入りたいと1日に2回もお風呂に入った。熱中症の可能性もあるから逆効果だと怖い。マメに検温するように言う。感染症も心配だから、マスクをしてもらって離れていてもらう。仕事が夏休みに入っていることは良かったけれど、家族でダウンするのは困る。
使う道具の説明をするのに、アトリエに並べて写真を撮ったらきれいに撮れたけれど、説明するには細部がわかりにくいから不向きかもしれないし、どうしようかな。
古い友人からSNSでリクエストが来て、喜んで応えたら、共通の友人が約半年前に亡くなっていたという知らせだった。とてもとても悲しい。つらかったね。私にいろいろなことを教えてくれた人だった。
10土曜日
起きて前日の日記を書くのが通常だけど、見た夢について書きたくてその場合どちらの日付に属するのだろうと考えたけれど、起きて書いている今にする。
前夜早く床に就き、朝早く暗い内に目が覚めた。本を少し布団の中で読んでいるうちに眠くなって、もう一度寝たので、普段見ないくらい長い夢を見た。河合隼雄の本をこの頃読んでいたせいもあるかも知れない。
裏道のような道、アスファルトで、右手は土手のように競り上がって斜面には短い草がきれいに生えている。私の前を唐沢寿明が、私の後ろをグレーのスーツを着た太ったサラリーマンが、2、3メートル間を開けて連なって何かから逃げて走っている。前の唐沢寿明はなぜか小さくなって、トイ・ストーリーの人形になって走っていく。土手側から茶色い泥水が、赤土のチョコレートみたいに均質な状態の泥水が所々勢いよく流れ落ちてきて、人形の唐沢寿明が倒れて泥を被っている。後ろのサラリーマンは、顔面から斜面の茶色い濁流に突っ伏してしまう。私は人形の唐沢寿明に駆け寄って、瞼が開いたままの大きな目に被った泥をぬぐってあげる。人形は人形のままで動きもしないけれど、無事な様子だった。
場面が変わって、住宅地の人通りのない道で、薄汚れてくたびれた籠がひっくり返ったものが連なった状態のもの、毛足の長い犬みたいな感じで私の方へ駆け寄ってくる。身の危険を感じて払い避けると、中身が空っぽの籠だった。それを操っていただろう怪しい茶系のジャケットを羽織った、野口五郎みたいな髪型の男の人影が見えた。
飲み会の後、大勢の集まりで楽しすぎて、私と家族が泊まっているホテルに皆で雪崩こむ。白い布団が所狭しと敷かれていて、総勢20人は居ると思う。朝、ホテルのオーナーの恰幅のいい女性が玄関先にやってきて、そこに泊まった子が私に、「まずいですよ、これは逮捕されますよ、前科つきですよ」という。確かに宿泊者多すぎて宿泊料踏み倒しの疑いをかけられたら言い逃れできないなと思い、前科ついちゃうと、少年院とか高校で働けなくなったりするのかな?とふと思う。
そのホテルに入る前に、多分また何かから逃げていて、爆撃で壊れた建物をそのまま活かしてカラフルに商売が行われているような施設の中を、アクロバッチに飛び回っていた。そこは多分日本ではない。
ホテルの騒ぎ中は部屋で身を隠していたが、どうやらおさまったぽく静かになって、部屋を出ようとしたら、そこはもうホテルの部屋ではなくて、小さなイタリアンかスパニッシュのレストランになっていて、靴を履こうとしたら靴がない。店員が奥にしまったのかと靴がないのですがと問うと、ああ、と言って出てきたのは靴ではなく、簡易な紙でできた白いスリッパで、靴がないからこれのことかと思ったと言われて、仕方がないのでそれを履いて外に出る。外は、あの籠に襲われそうになったところかそれに似た日本の人通りの少ない住宅街だった。
そんな夢。
9金曜日
本のタイトルをあれこれ考えていた。
画像の切り抜きを自動でやろうとしたのだけれど、画像の性質上うまくできなくて(背景と対象が同じものの部分が半分あって区別がつかない)、昔ながらのやり方でパスを切った。
8木曜日
『ユング心理学と仏教』河合隼雄(河合俊雄 編/岩波現代文庫)を先日、偶々図書館で棚の上に平たく置かれているのが目に留まり、手が伸びて借りて来た。ユング周りは私にとっては過去に興味を持ってお世話になった内容で、懐かしさはあるけれど、最早改めて読もうと思うことはなかった。つい最近書いた文章で、心理の関わりの中で起きることに少し嫌気が差した旨を加えたことが、その短い私の断罪が気になってたのだと思う。それでその揺り戻しで読もうと思ったのだった。そのうちにすっかり積読のまま返却日になって、慌てて読んだ。
はじめの方に
「特にユングの言う普遍的無意識をよく理解するためには、文化を異にする人の体験に触れ、それを自分の世界観全体のなかに位置づけようと努めることが大いに役立つ、と私は思っています。」
とあって、ああ、このことが今の私に新しく響くと感じる。「自分の世界観全体のなか」と聞いたとき、以前なら私はそれを自身の内に含むものとイメージしたと思う。今はそうではなくて、自身の世界観のなかに私自身が点として存在している。しかも「文化を異にする人の体験」とは他者全般であり、他者とは物も含まれる。それぞれを個別具体的に抵抗あるもの(手触りがあるもの)として、自分自身の位置も不確定なままで、居場所を用意すること、そんなことをイメージした。
その後の話の中で、井筒俊彦の華厳教に関するネットワークの図が出てきて、数日前に読んだ福尾匠さんの「言葉と物8」のラトゥールのことを思い出し、返そうと思っていた『ユング心理学と仏教』は貸出を延長して、ラトゥールの『社会的なものを組み立て直す』と井筒の『コスモスとアンチコスモス』を借りた。群像の7月号は貸出中だった。それにしてもラトゥールの本は分厚過ぎる。
井筒俊彦の書いたものを読むのは実は初めてで、西欧諸国に嫌悪感が滲んでしまう今に、こっちに遅ればせながら走ってみるのもいいのかもと思ったりした。足りないピースを埋めるように。
7水曜日
長崎市がイスラエルを平和祈念式典に招待しなかったことを、自然で合理的に思うし、G7各国が欠席するって言い出したのを、市長の判断が悪いとか言うのは、自虐的過ぎないかと思うし、アメリカは投下当事国なのに本当に酷いと思う。
6火曜日
グラフィックデザインの仕事について、この頃あまり気にしていなかったけど、紹介されたある方、私より上の世代のデザイナーさんの仕事を色々見てみると、すごく懐かしい感じがした。大学卒業したての頃に川上成夫さんのデザイン事務所でバイトをしていた頃の、手仕事の、眼が職人というか技芸の領域のように解像度という言葉を使うのも野暮だけど、特に文字の扱いに凄みがあったのを、普通に見ていたのだけれど、今はそういうのではないものも多い、バーチャルな表記に慣れすぎて。そういう時代のものを久しぶりに見たような感じがした。というのはその方がというだけではなくて、私自身がそうかそうでないかという目を休ませているというか、もうどうでもいいやと思ってしまっていたところがあったなと思った。それから、私にはそれをそこまでできる能力はない。
5月曜日
いつものように「虎に翼」を見た後に、そのままテレビがついていて先輩たちに話を聞きに行くという企画で松重さんが出ていた。くよくよ悩むことについてどう対処するかの質問に、瞑想とこたえていて、「ネットとか余計なものを見ないで」自分の身体や周囲の自然の状態について意識を向けるというもの。それから続いて、子供には「ルール」を守ることだけ伝えればいいという話。どれももっともだし、松重さんの良い面なのに、何か私の心の内には棘が生えてきてテレビを消した。狭量な心にアレルギー反応を起こしたわけだ。って書いてもわからないですよね。パレスチナのこととか、見ない知らないことについて罪を通り越して恐怖を感じるし、ルールを守ることを美徳のように言うことや、物事を切り分けて新しくルールを増やしていく現代に嫌悪を感じているから。松重さん好きだけど。
それでなぜか、というか急に抵抗運動(彼の場合は虐げられた若者の復讐に燃えた蜂起)の極端な例になるけれど、ブランキの『天体による永遠』(浜本正史訳 岩波文庫の白)のことを思い出した。
「人は何でも行き当たりばったりに、または自由意志で選択できるが、宿命を逃れることはできない。ところがその宿命も、無限の中には足場を築くことができない。無限には二者択一がなく、いたる所に場所が取れるからである。」
巻末には監獄年表も入っていて、オーギュスト・ブランキ(1805-1881)革命家、43年と2ヶ月にわたる不正常な生活、そのうち33年と7ヶ月半の獄中生活と。歴代の政権に恐れられた大左派革命家は、人生の時間の多くを劣悪な獄中で過ごした。その最終期に『天体による永遠』は書かれた。革命とは関係のない(と言い切ることには逡巡するけれど)、彼の熱心な政治信者も戸惑うような、そして今では思弁的な内容に留まるけれど、当時の科学を踏まえた深淵な宇宙論である。
彼の細く細かい筆跡の手稿を、機会があれば是非見てほしいと、訳者解説に書いてあり、見てみたいと思って仏語や英語圏の方でも検索してみたけれど見つけられず、代わりに、ブランキのこれを表題にしたオーストラリアのミュージシャンのアルバムを見つけた(Eternity by the Stars/Bluetung)。一日このアルバムをかけて過ごした。
夜は、ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」についてのところのオンライン読書会(レクチャー)。「家族的と数の概念の拡張」についての意味をめぐる話題になった。類似性についてはやはり、見ることが本当に大事だと思うのだけれど、その経験については伝えることが難しいなと、時間が経ってから思った。見ればわかるみたいな感覚的なことと、概念がやはり連動していることについて、自分では話す言葉を持たないでいる。家族概念も数の概念も見ればわかることとはあまり関係がないように思われると私も思うから。
4日曜日
午前中で客人も長女も出発して行った。もっとお喋りすればよかったとか、写真撮ればよかったとか、ささやかな後悔をする。
依頼されていたグループミーティングの記録原稿を仕上げる。
書くことの肩の荷が降りているせいか、日記書くのも忘れがちになっている。
夜の音読会は福尾匠さんの『群像』連載の「言葉と物vol8」後半。疲れてしまって夕飯後に仮眠をとった寝起きだったのに、内容のブリリアントさに目が覚めた。経験的なものとそれ以上(哲学的抽象)のものについて、アクターネットワークの話で、戦線と司令部が両方とも局所的であり、階層関係ではなく、ミクロとマクロを横並びにするというラトゥールの話は最高だった。つづく「言語の物質性」や「手仕事」の話とか、自分が書いた原稿とだいぶ関わりのある内容に思えて、勝手に鳥肌が立っていた。大勘違いかもしれないけれど。私の書いたものも人々は読んでくれるだろうか?
3土曜日
お風呂のシャワーヘッドが破損していたの、部品が届いてTOTOさんが修理してくれた。
布団を干して、部屋を片付けて、娘が花火を見に帰省するのに備える。パートナーを連れて帰って来た。
作家が日記を公開していて、家族のプライベートな内容を書いている状況で合ってる?
長岡大花火大会の会場へ皆で徒歩で向かう。暑い中歩くのが嫌で、あらためて地図でルートを確認してみると、普段想定している川に沿って歩くルートは大きく蛇行しているので遠回りで、一旦駅の方に向かうくらいのイメージ、つまり気持ち的には逆走するイメージのルートが直線最短距離な道順になる。これで2キロくらい。時に人の流れを横切って、時に逆走する方向で会場に向かう。着いて、小さな青の第4ゲートを上って土手の上に立つと、本当にびっくりするくらい人が大勢眼下に見える。こんなにたくさんの人々が集まる。市長の挨拶が流れる。昨日と同じ内容だったと思うけれど、世界各地の紛争についても触れてくれたのはよかった。花火の数が、火薬の量が多すぎて、時に怖く感じるから、戦渦の人々のことを思うと楽しめないのではないかと思っていたけれど、何もかも忘れて楽しんだ。
2金曜日
原稿の修正を済ませ、先方へ送った。
明日、娘が客人を連れて帰省するので散らかりきった部屋の片付けと、シーツ他、溜まりに溜まった洗濯を、洗濯機3回。
長岡花火1日目は、家から。家を建てるとき、途中で玄関の事情で間取り全体を左右でひっくり返し、そのことでキッチンにする予定だったところにコーナー窓を設けたら、そこから綺麗に花火が見える。下の方で上がる花火は見えないけれど、それでも十分。数年前に、高齢の両親に家から花火を見せることができたのはいい思い出だ。
あまり見たことのないオレンジの花火の色が印象的だった。
1木曜日
原稿が本当に煮詰まってしまって、気分転換しないともう一ミリも動かないと思い、暑いのを覚悟で外に出たら、思っていたより風があって涼しかった。暑くなるのも早かったけど、秋の気配も早まるのだろうか? ここ数年は異常だったけれど、長岡では昔から、長岡祭り(花火)が終わると球に涼しくなると言われてきたとよく聞いた。今日は長岡空襲のあった日で、前夜祭があり、明日から二日間長岡花火。
外に出てどこに行ったかと言うと、互尊文庫の移転先、米百俵プレイスミライエ。ここの図書館は、いわゆる図書館ルールで本が並んでなくて、リニューアル開館時には流行りの選書家を入れて、書店みたいな本の並びで親しみやすさを売りにするようなスペース。椅子机ソファーも多く配置されていて、撮影も飲食もOKという。保守的な私はかなり抵抗があって寄り付かなかったのだけど、仕事をしようと思ったら、クーラーが効きすぎている以外は相当に居心地が良かった。落ち着いて、原稿の全体をさらい、どうにもこうにもならなかった最後の塊の部分を冷静に内容を足して、まともな状態にすることができたと思う。本当にほっとして、家に帰り、まだやる仕事もあり、もう一回推敲が必要だったけど、本当にずっと疲れが溜まっていて、草臥れ果てて夕飯の支度などする程度しか動けなかった。