2024年3月
31日曜日
2家族と一緒に水沢観音へ。石段を登り少し山に入るも、蹴上がりも急で、本当に運動不足だから息ぎれる。いつでも行こうと思えば行けると思って出不精で過ごして来たけれど、義理の両親の様子を見れば、どうやっても登ることの叶わない階段や坂などは、これから私にも当たり前に増えていくのだなと思いながら登った。
解散して早めの帰路。途中で運転を代わり、眠る夫と息子を乗せて車を走らせる。関越トンネルを抜けると雪国だったは幾度か経験しているけれど、今日は「キリ注意」って表示があって、ぴーかんから急に真っ白いスモッグ状態だった。雪の白さは、曇天でも何か輝きや明るさがあって、白さがあって、「キリ」はもっとマットでグレーで天地がなくてちょっと違う。トンネルを抜けると気候が異なることはわかっていても、違う世界にワープしたみたいだった。皆が眠っていることで私しか目撃していないことと、私自身が運転していたことが、その不思議さの実感をより強くしたことの要因になったと思う。この現象が在ったことを保証するのは私だけなのだと言い聞かせられたような気持ち。
保養に行ったはずでも、家に帰り着くとほっとしてだいぶ疲れが出る。とても早く眠りについた。
30土曜日
義父(夫の父)の米寿と義母の傘寿のお祝いの親族旅行が今日とずっと前から決まっていた。義兄は計画を全部任されて大変だったと思う。4人の兄弟姉妹にそれぞれの家族、孫が上は30歳から下が11歳で、総勢20名の御一行様。
深谷のお寺でお墓参りをして、お坊さんに法要してもらい、いつものことながら、娘と息子と夫がその変拍子っぷりや鐘の裏打ち具合などについて興味津々に談笑していた。
「なむあみだぶ」を4回続けて唱えて息継ぎ、もう4回唱えて息継ぎ、9回目は「なむあみだぶつ」と「つ」をつけてから、10回目に「なむあみだぶー」と言いながら会釈する。声に出すことが重要で、唱えるときはご本尊様を目を開けて見るように、とご焼香のやり方の説明をご住職がされたのだけれど、先頭の父も母も耳が遠いのでわからず普通に焼香。つづく兄弟たちもそうして、どうする?どうする?という戸惑いの空気が流れ、それを覆い隠すように伏せ目がちで腰を低くした不慣れな礼儀正しさが、その場を奇妙にしんとさせていた。私は超早口な小声で10回唱え、子らは4回で済ませたなどを話題に、つづく伊香保温泉への車中を過ごした。
チェックインしてから何人かできつい坂道と石段を登った。夜は宴会と卓球と麻雀。温泉には2回入った。
29金曜日
急に、1週間ほど前に、この春から高校の美術の教員(と言っても週一回の講師のような立場)をすることに決めた。急募の声がかかって、教員免許なくてもいいというからやってみようと思い、引き受けた。人々に会わなすぎるのと、定収入を少しでも増やしたくて。
今日は打合せと事務手続きの日。ひと通りシラバス、道具類についてや去年の課題を見せてもらってから、臨時の教員免許の申請手続きの説明を受ける。あれ?どうやっても最初の授業日に間に合わないではないですか?という事が判明して、事務の方と教頭先生と共に青くなる。帰宅後慌てて必要な項目の健診をしてくれる病院を探して予約したり、戸籍抄本や卒業証明書の郵送申請したり、履歴書書いたり。履歴書といっても教員用のもので、書き方が普通と違い、そして私の履歴はその様式に合わないし、それより普段旧姓及びカタカナの名前で活動してて(専任の先生にその名で呼ばれてて)、どうしよう名前候補が3つあるってなり、しばらく迷って、私、これから免許貰う新任教員だと理解して戸籍名にした。
28木曜日
夫が春から町内会長になることになり、未だ班長経験もないのに、急に13班もある大きな町内の仕事をすることに。もうすぐ大学も始まり忙しくなるから、雑務は私がやることになるかもというので、一緒に地図を頼りに最初の回覧板の書類を各班長さん宅に届けて回った。こんな所に道があったんだ!くらいの界隈に迷い込むなど。
春めいて、いいお天気で、美術クラブの前に体育館に集合するから、なんというか、卒業式とか新生活の雰囲気があるけれど、少年院ではそういう区切りはない。出院日は私に知らされることがなくて、不意にいなくなってしまうのが結構さびしいのだけれど、髪が伸びた子はそろそろその時期が近いことがわかる。今日はその中に晴れ晴れとした表情があった。
27水曜日
その表記の仕方ではちょっと伝達に不自由があるけど、それをそのやり方でやり切る、をやって、というか苦戦してたのをやり終えた。それでそれでは無理のあるところを補うように図を入れようと思うのだけど、それはそれで元の木阿弥というか、最初にやりたかったことを棄損してしまう。でもとりあえず、一式揃えてみてからというか、その作業の過程で考えていこうと思う。間抜けなくらい遠回りだけれど。
不自然で不自由な状態から、どうやって軽快になるか。
26火曜日
地域の若者がはじめた柿川沿いのお散歩マーケットイベント、かきがわひらきに今春も工房このすく(有志で始めた版画工房で、私は創設メンバー。今は月曜版画部に参加している)が参加するので、そのワークショップのデモ写真撮影と、版画部展用の額縁の在庫確認と、出品者の作品サイズに合わせた額サイズやマット紙のサイズの確認など。午前中には、工房このすくの個人利用でコツコツ制作を進めてきたa-koさんが、柏崎の海の目の前のカフェで初めての個展を開催したので、その初日に行ってきた。美大を出ていても施設がないと本格的な銅版画制作は難しい。アクアチントの繊細な表現に粘り強く取り組まれていた様子に岡谷は胸熱になっていた。質問もとても具体的なので、その技術的な問題を解消するための方法についてのやりとりをしているのを暫く見ていた。
帰りの車の中で、播磨さんにオススメされた佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』の冒頭からを音読した。震災後に幾人かに勧められたけど読んでなかった。辛辣で、今読んでいいタイミングだったかもと。バートルビーよりもっと攻撃的に土俵から降りて、積み上げることを拒否する方へ向かう道が開かれていたのは世代の問題もある気がするのだけれど、これを真に受けて行う人がいることも、これを真に受けて批判する人がいるだろうことも、希望のように思える。それに情報についての指摘と閉じた教養と専門性についての指摘も、今でも妥当だと思うし、美術館までもが刹那的な祭典のような機会を多く催すように加速的になっていく様子には疲労感を覚えて、荒れて、灰色の海と空の帰路にちょうどよかった。
25月曜日
この日記をバックヤードとして、SNSに記事を投稿することがある。今日はInstagramに3月に経験したことを3つ日記から引いて少し推敲してから投稿した。それで前から思っていたけれど、Webサイトの記事、つまりブログの頃から時系列は逆に記載されるようになった。新しいことが先頭に表記される。でも記事内では時系列に出来事や思考が記述される。今回それがなんか嫌で、一つの投稿に3つの出来事をまとめて書こうかと思った。自分の中では、主軸ではなくても連なったことによる何かがあって、主軸ではないものだからこそ、その順番は大切に思えるのだけど、流石に量が多すぎてひとつにまとめることはできなかった。仕方がないので出来事ごとに切り分けてしまう。投稿は古い順から行い、表記は新しい順になる。サイトの先頭から新しいことが古い時間から順番に書かれ、次の投稿は先頭の投稿より古い出来事で、さらに古い時間から順番に書かれる。先頭の投稿のおしまいが一番新しいことで、2つ目の投稿の一番先頭の後に、先頭の投稿の先頭が続いている。この日記もそうだ。時々、フィジカルな日記帳のように時系列に並べ直したくなる。分断して短く切り取られることで、忙しく、せわしなく、慌てていて、プツッと糸の切れた凧のように飛んでいってしまう気がする。そのことに贖うように、まとまったものを、量のあるものをしっかり書きたいと思うようになるのだろうか。
「フィジカルな日記帳」って、おかしな言い方だけど、身体のなかで自分を同定する機関はほんのささやかなもので、自己同一性を保つために必死に働いていると読んだことがある。自分に起きたことの時系列に意味があるようにうっすら感じてその喪失を気にするのは、そういう欲動なのかな、ささやかでいて必死な。
24日曜日
実家から引き取って来た父の遺品の使いかけのレポート用紙パッドに、メモ書きが1枚残ってた。観た映画のタイトルや監督名が羅列してある。独特の頼りない文字。
エイゼン・シュタイン「戦艦ポチョムキン」、「ラストエンペラー」、「北京の五十五日」、「砲艦サンパウロ」、黒澤明の初期の「のら犬」、アンディーウィダ「灰とダイヤモンド」、新田次郎「八甲田山」、「戦場にかける橋」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」、「静かなるドン」ショーロホフ、松本清チョウ「日本の黒い霧」、キャロルリード「第三の男」、「ホタルのハカ」野坂アキヨシ、「黒い雨」、リーダースーダイジェスト「ブロンディ」、ディズニー「白雪姫」、「アラビアのロレンス」ディビット・リーン、ナチス パリせんリョウス、「将軍たちの夜」、「カサブランカ」、「鉄路の戦い」、「天井サジキの人々」(マルセル・カロネ)ジャン・ルイ・バロー
多分映画のことを何か書こうと思ってたんだと思う。大学の同窓生たちの同人誌にいつも何かを寄稿していた。お父さんの記憶に残っている映画のリスト。
23土曜日
「眼差し」展の会場に、追加1週間分の記事内容の出力紙を足しに行く。さとうゆかさんと陳情について話す。UNRWAの件1つとっても、他国は次々に拠出再開しているのに、日本にはその気配がなくて、体質的なものに思えてしまう。
息子が富井くんちでの顕微鏡体験の影響で、夢の中でも顕微鏡を覗いてたと嬉しそうに話し、家の周りの溜まった水や、近所の小さな川の水を採集して来て、顕微鏡で覗きながら、度々声を上げていた。寝食を忘れて絵を描く幼子だった頃みたい。
22金曜日
住み慣れた家を失う経験は辛いものだけど段階を踏めばなんとか乗り越えられたりするのと、その経験はやはり何か考え方を変える。今言うのは不謹慎に聞こえるかもだけど。次に何処にどう住むのかを自ら選べるというのが重要な尊厳かもしれない。と、朝、反射的に思った。
今日は午後から家族で木工作家の富井貴志さんのお宅へ。彼が暫く前から顕微鏡で池の水の中の生物を見ることを日課にしていて、SNSの投稿を興味深く見ていた。顕微鏡が大中小3台!そのうち2台はPCにつながれていて、鮮明で美しい映像が見える。映像というか、まさに今ここの小さなプレパラートに生息しているものを見ているという興奮は実際にその場で見ないと得られない種の興奮だった。普通の?ワムシ、蛙泳ぎをするワムシ(泳ぎが下手くそなのと、上手で速いのがいた)、ミジンコ、ツリガネソウ、ラッパムシ、クマムシまで! 藻の種類も豊富で、とても美しい。私たち大興奮だった。
彼は電子顕微鏡にも詳しいが、光学顕微鏡で見るのが面白いと言っていた。カバーガラスをそっと乗せて、水に厚みを持たせることで、生物が動いて像は立体的だし、ピントを動かすと前景と後景に順にフォーカスするので、奥行きの見え方もドラマチックだ。
科学者は観測することを「見る」と言う。「見ること」が例えば言語の領域で言ったら「自然言語」に当たるものではないものを指しているらしいことを、先日のipmuでの交流でうけとった。富井君は、顕微鏡に関しては、対象の構造がよく見えることが大事なので、コントラストをいかに上げるかが機械の性能の要点だと教えてくれた。
21木曜日
市内の友人の投稿する庭には雪がたくさん積もっているのに、うちの方はそうでもない。午後出掛けに降り出してきて、といってもいつもの大きな雪ではなくて、小さくてころころしていて、霰のようだけれど、軽いらしくふわふわ飛んでいる。施設に着くと、体育館脇の先々週には雪像がかすかに残っていたところの雪が全くなくなっていた。体育館での合唱を終え、各クラブの部屋に移動する頃には空が晴れて光が差しているのに、そのころころした小さな丸い雪が振っていて、とても美しく神々しい風景だった。けれどその間外を見ながら移動できるような空気ではなく、ただ前だけを見て行進して廊下を進む隊列の後ろを、教務官と並んで歩いた。私だけが外を見ていた。
久しぶりすぎるドゥルーズの『フーコー』音読会。それぞれの近況の報告を。ワークショップのこと、ipmuは黒板だらけだったこと、見た展示のことなど。本の内容をもう一度確認したくて、結局前回読んだところをもう一度読んだ。前回読んだ時とは違うように読んだ箇所があり、素晴らしいとつい小さな声が漏れた。
20水曜日
帰宅の安堵による弛緩でか、疲労が噴き出す感じで全身筋肉痛みたいになっていた。といってもそれほど苦ではない、のになぜわざわざ書くのか?
出かける直前、出かけている間に印刷物のデザイン仕事がポロポロ入って、帰ってから内容の全体を把握するだけのことにも時間がかかる。個人のお客さんが主で、それぞれ連絡方法もデータの受け渡しも、やり取りの進め方もまちまち。勿論効率でいったら、それらをこちらからお願いして一元化すればいいわけだけれども、温度差なり、こだわりなり、スマートさや不器用さが各々で異なることをこそ私が楽しんでいる面がある。その面倒さを引き受けて、私の方で私の仕事を管理する。勿論過去の印刷物のデジタルデータは取ってあるのだけれど、それとは別に一年前から一冊のノートに仕事のログも。ところが、記載が面倒な上に閲覧も結構不便で、過去のものを探すのにも今抱えてる複数仕事の進捗状況の全体把握にもあまり向いていない。それで、このやり方をもっと簡易なものに変えようと思い、色々ガントチャートなどの特殊なノート類を閲覧していて、父の使わなくなったB4の集計用紙を2冊実家から引き取ったけど使い道がなかったことを思い出し、それに記載してみることに決めた。いい感じである。
テスト前なのに部屋の模様替えをはじめてしまうのと同じように、仕事を進めるでなく、管理のための方法を整理した。
ひとつ、初稿を出した。
19火曜日
昨日の件で緊張していたから、弛緩してどっと疲れて、偏頭痛が出た。薬を飲んで痛みが治るのを待ってから上野へ。
VOCA展を久しぶりに見た。地方住みにとって、そうとは限らないけど遠いと思っているから、SNS等の情報の方が過多になっていて、オンサイトで見ると全く違う。さらに、主題として情報が扱われていることも多い昨今、というのも雑な誤解の部分もあるかも。今リストが手元になくて、名前を覚えないから失礼だけど、1番最初の拳法について2人が語っている映像、証書とテクスト、そして写真の作品を1番強い印象で持ち帰るという、なんというか、書いてて矛盾だらけだけど。馴染んだ情報の受け取り方が素直に物語と現実をアシストしてるのかな?
西洋美術館で企画展と常設展を見て帰る。企画展はちょっと文化祭みたいに空間が狭く仕切られてたのが気になったかな。そのことしか書かないのはちょっとわざとではなくて、疲れていたので日記には書かないことにする。
小田原さんのスペースに展示されてた上野の大仏には個人的な縁故があるので、なんかしみじみした。
ゴヤの作品を長岡の近美で見た時とは違って、入口のテクストのハマスの扱いと、館の看板が「西洋」なことに複雑な感情を持つような自分の性根を感じながら鑑賞してしまった。
帰りの新幹線車内でポケットからスマホを出した時に切符を落としたらしく、数席後ろの老婦人が拾って声をかけて下さった。
星占いで今日はミラクルなことがおきるとあったけど、どれだかわからない。でも昨日のことがとても良かったことに自分の中で変換されてたのはミラクルなのかも。
18月曜日
今日は朝からつくばエクスプレスに乗って、柏市にあるipmuカブリ数物連携宇宙研究機構へ。アーティストと科学者が交流して普遍を目指すというファンダメンタルズという企画にエントリーしていて、各々色々な交流が試みられている。私は他3人のアーティストと共に、素粒子物理学の白井智さんと月に一回のペースでzoomミーティングをしi'm ていて、今回はオンサイトで、アーティスト側がそれぞれ用意したワークショップを通して、自分の制作や興味について共有する機会だった。自分の制作を事後的に言葉にすることが多いけれど、それを元にもう一回やってみると、またそこに、先のテクストでは拾えてなかったことというより、他のことが起きてきて、というか見えて来るのが面白い。ワークショップは子供向けにすることが多かったから、一方向的だったけど、今回はそうではないことがあった。
ティータイムという、施設内研究者が全員集まる時間に自作を紹介し、その後もこれからの交流についてのミーティングや、夕食を共にして、聞いてみて良かったこと(ヒュームのこととか)沢山だった。ちゃんとまとめたい。
17日曜日
興奮と緊張で眠れないので、深夜に起き出してきて今日の日記を。
藤沢のobi galleryへ。ホームに帰ってきた気持ち。浅井真理子さんの個展。彼女は暫く海外や遠方での展示が続いていたからか、展示を拝見するのが久し振りだったが、時間をかけた設営と聞いていたのがわかるような含みの深さがあって、浅井さん播磨さんと一緒にゆっくり過ごす。大塚聡さんがいらしてお会いするのがはじめまして。福島出身とのことから、先日の家族旅行の話など。
播磨さんとは遅いお昼をご一緒して、西美の件(というよりあれで湧き上がったSNSへの苦言等)や、彼女が最近読んだ佐々木中の本のこと、あと肉体労働で整う話しなど。
遅れてしまって慌てて西荻の忘日舎で。沢山の編集や出版や写真家の方達の濃い集まりになってて、伊藤幸太さんとのここでのそれぞれの日々を紹介しあって、かけがえなかった。私は故桂川潤さんの形見として奥様から送っていただいた丸い計算尺を皆に見てもらった。お守りです。これを持って明日。
ここ2日盛りだくさんで何も準備できてないけれど、ただよく眠りたい。疲れて血管が痛い気がする。
16土曜日
新幹線で上京。車内で楓画廊の三ッ井さんが持たせてくれた『本は、これから』(岩波新書/池澤夏樹編/2010)の、岡﨑乾二郎さんの「生きられた(自然としての)「本」」と、桂川潤さんの「装丁と「書物の身体性」」を読む。本を題材にしたり素材にしたりの制作をする私にとって、それから物事を記述すること/読むことについて考え中の私にとっては心強い内容のテクストだった。
銀座のカメリアで小島敏男展「彫刻/素描/写真」野暮なことを質問責めしてしまったけど、作品を前に見ることについて、どうやって見ているか伺えて幸せな時間。
神楽坂のマキファインアーツで末永史尚「軽い絵」。SNSの画像では分かり用のない1マスづつの塗りの様子の差異やノイズが、元々ゲームの中の図像なので架空を設計したドット絵なのに、それがまるで粗い解像度で撮られた写真で、そのドットの奥に詳細な実体物があるような、逆転を空想して見たりした。何を何処まで見てるのかの抽象的な内容と、支持体に塗られた絵の具の物質感が意味を逆転させているみたいで面白かった。
麹町のフラットリバーギャラリー、ナカダマコト展。この詳細な木彫?は何なのか不思議だったのだけど、実見して、特別に作業場も見せていただいて成る程。木のハンコを彫る機械を初めて見た!メカニカルな図柄も好きだけれど、印章故の文字、般若心経をギュッとまとめた、もはや文字とわからないものを見せてもらったのが福眼でした。荒井さんにも久し振りに会えて良かった。
竹橋に戻って中平卓馬「火/氾濫」こういう大きな写真展を見るのは久し振りだった。私の個人的な好みで粒子の粗いモノクロ写真は好きだし、懐かしい感覚と、今見ても強い画面に安定して安心して鑑賞してしまった。で、それより、コレクション展の方でやけにボナールの《プロバンス風景》が迫ってきて、それは個人的な印象以上の何ものでもないけれど、直前に見た中平の『氾濫』のお陰のように思えた。
閉館ギリギリまでいて帰路につき、練馬の母の家で遅れた晩御飯。アスパラの肉巻きを頂く。今日は1人で回ったが、道中時々おかざきさんと近況のやりとりをぽつりぽつり、少し弱音を吐くなど。昨晩に続き、よく眠る。朝方地震で目を覚まし、もう少し眠る。
15金曜日
きっと私はだいぶ前から脳みそのネジが何処か飛んでしまっているのだと思う。明日から4日間首都圏に出るにあたって、行くところをどういう順番に組んだら良いのか、何処に行って何処を諦めるか決めるのが苦手で、その計画に時間がかかった。しかも結局は開き切った、決まったことの少ない内容である。記憶力に自信がないのだと思う。あと欲張りなのだ。
お世話になってるギャラリーから、能登地震のチャリティオークションへの出品依頼があって、旧作の中から1点決めていたのだけど、発送する今日になって違う作品に変えた。判断をギリギリまで確定させない癖というか、そうする方が良いと思うようになって、宙ぶらりんに抱えてるものが多くて草臥れてしまっているのだと思う。でもこの件はもう決めたつもりでいたから、直前に見直しただけだ。切り分けて、今考えなくて良いことを考えないように整理することは、体力が落ちた今ではとても必要なことだと思う。何か明確な印を決めたい。
それから、東日本大震災の時は、思うところあって、チャリティー展を全部断っていた。今回も考えて、今は気持ちも考え方も変わってた。
14木曜日
昨日の帰りが遅かったのと、雑務が溜まってオロオロする。
午後から美術クラブ。溶接講習に出席している子が多くて、4人だった。東京矯正管区の文芸等作品コンクールの作品集が届いたので、絵画部門の審査員の総評を読んで、絵から色々感じてくれたり読み取ってくれたりしている話をして、今の描きかけのみんなの絵を鑑賞して、思ったことを発話しあってから制作をはじめた。
絵の具を混ぜて色が変わること、それを微調整する中でもダイナミックに色が変わることに驚けるような、静かな時間を過ごせる環境で絵を描いている。その冊子の中の読書感想文を熱心に読んでいる子もいた。
帰りにコメダ珈琲に寄って、月曜日に科学者の前で短い時間で話をする予定があり、自分の制作の何について話すかについてまだまとまらない内容をノートにメモ書きする。具体的な誰かにではなくて、ぼんやりした相手に何かするが私にはとても困難に感じる。誰にとってもそうかもしれないけれど。
13水曜日
朝、宿泊した施設の管理人さんにこの後震災遺構に行くと告げると、宮城県で消防隊員だった当時の話を聞かせて下さった。福島は放射能の件で被害が複雑だけど、津波とその死者の規模は宮城がとても酷かった旨、自身のPTSDのこと、時々俯いてキャップのつばに涙を溜めた目を隠しながら話された内容は、直で生々しく、お互いに思いがけなく強い出来事だった。
浪江町立請戸小学校と、原子力災害伝承館へ行ってきた。
津波の被害を受けた小学校が残っていることで辛うじて伝わるものがあるなと思う。その周りには本当に何もない。展示では見開きの絵本のパネルが所々にあり、写真とは別の仕方で親密に子供たちの様子が見えるようだった。
原子力災害伝承館は、原発を作る前からの地域のこと、事故当時、その後のこと、放射能の汚染の現状などとても詳しい内容だった。そして随所に色々な立場の人々が語る映像があって、事の規模の大きさを、きちんと人々の大きさに戻して知ることができるようになっていて、行って良かったなと思う。
被災する前の小学校も、伝承館もとても立派で、何もない広い工事中の土地はこれから大きな公園ができるという。乱暴な開発では全くないのだけど、鶏と卵の関係というか、それを手放しでは喜べないような複雑な気持ちも残った。
海側は新しい防波堤がずっと続いていた。ほんの少しだけ、数百メートル南下しただけで立ち入り禁止区域になり、伝承館の外にあるモニタリングポストの数値は0.062μSv/hだったのに、禁止区域入口のは0.072だった。微細な数値だけど不穏に思う。うちの近所の小学校にもある。数値の変動はあるけど、だいたい普段0.034くらい。
12火曜日
家族旅行で福島へ。昨日はさざえ堂とあぶくま洞行ってから、廃校の複合施設に宿泊。音楽室でセッションしたり、麻雀して過ごす。
11月曜日
買い物を終え、車で帰宅途中に午後2:46分を迎えた。丁度信号で停車していたタイミングだったので、少しだけ黙祷し手を合わせた。この時に亡くなった人、この後に亡くなる人がたくさんいたんだと、何か別の時間の世界が並行してあって、何度もループ再生されているように感じた。
私は印刷会社で工場の上のプレハブの制作室にいて、DTPの仕事をしていた。部屋は乗り物みたいに大きく揺れて、大型のレーザープリンターの部屋にある、普段はつけない小さなテレビを時々見に行って状況を確認していた。津波が映っていた。あ、子を迎えに行かないとだと暫く経ってから思い至り、早退して保育園と小学校へ寄って帰った。
息子に記憶を聞くと、小さい頃のことはあまり覚えてないけど、地震の時のことは微かに覚えていて、保育園はとても優しくて不安はなかったと言った。
10日曜日
午後から日本認知科学会「学習と対話」研究分科会の『創造性はどこからやってくるか』を探るという企画をオンラインで聞く。この本の複数の読書会の成果を持ち寄って、郡司ペギオ幸男さんをお呼びして話をするというもの。私もこの本をとても面白く読んで、読書会ではないけれど、播磨みどりさんと岡谷とワタナベメイさんと一緒に話す会をしたりしていた。高橋裕行さんも別に読書会を開いていて、彼が登壇者の一人で、肯定的矛盾と否定的矛盾の対立から、それぞれそれではないものを項として用意し、そこからさらなる外部を想定する関係の図式化を行った後に、ロランバルトの『明るい部屋』の母の写真についてをいくつか引いてきて重ねて話されたのが面白かった。「外側」と「外部」の差についての話などから、ペギオさんが、あらゆるものが外部に開かれているのに、内側に入れた途端にそれを隠蔽してしまうと言って、よく知ったものの外部に遠いものがあるなぁと、すっと入って来た。けれどもなお、外部のイメージの困難さも会場の参加者から投げられたり、一度読んだだけでは難解と評されたりして、このような人の読書を垣間見れる機会は本当に面白いなと思った。
数日前に播磨さんが、ペギオさんと中村恭子さんの展示を見にいかれて、そのテクストや会場の様子を教えてくれた。突然やってくるものを引き受けて、例えば会場に置くときに、その経緯などをテクストでしっかり書かれているわけなのだけれど、これがナラティブに回収されない状態で存在できてることが凄いなと思って、そのことについて質問すれば良かったなと後で思ったけど、どう聞いていいのかもわからないというか、聞くことではないのかも。相対的についやってしまう因果の結び方とか、ナラティブ回収について懐疑的になる視点を贈ってもらえたことをペギオさんに感謝したい。加えて、このようなメタ視点がつくるものに特権的なものであることと、そうではないことについても気になるところです。
9土曜日
長岡アートコレクティブ模様での「眼差し」展へ。先日新潟日報に記事が掲載されて、その効果はあるとのこと。それでも来る人の数は少ない。13:00からパレスチナ・イスラエルの問題の話をする会。出品者4人と関係者2人の6人で会話(+乳幼児1人)。現状の認識と、問題を特に感じている部分について、請願や陳情の進行中の話、近隣地域の政治状況、議員さんの話、政治活動について、この話題にコミットするきっかけ、発言しないことの内心、身近な幸せと自分の人生と未来の話など、あんまりできなかった話しを気兼ねなくして来た。
昨年の9/2に父が亡くなり、その最期と見送りの日々、四九日の法要と重なるように10/7の事があり、私のかけがえのない父の葬いと彼の地で積み重なる不全の死と不全な葬いに直面する人々のことがとても近かったことが私には大きい。南無阿弥陀仏と唱えればどんな人でも極楽浄土に最速で行けた父の元に大量に押し寄せるイスラム教徒の死。いや異教徒だからそれは違うけどでも、彼らの大切な葬送のことが、バラバラになった肉を拾い集めることが、とても具体的に私や私の家族の身体と交換可能であり、そして不可能だから、何かせずにはいられない。
読書会、ドゥルーズの『フーコー』p106の「なぜフーコーは、現象学や言語学のような普遍的傾向に陥ってしまうことがないのだろうか。」をめぐり、「美術の話であまり「普遍」を言うことないよね?」「いや、普遍を言い出す先生がいる、、、」「昔はもっと言葉が一様というかそのままで他を慮らない感じだった?」等、いつも以上に横道にそれた。
8金曜日
もういちど、佐藤忠良の大判の本を今朝になって開いてみると印象がかわる。私の感覚もいい加減なものだなと思う。
プロトタイプ的な箱をつくる。わかってたつもりだけどやはり寸法が狂う。板の厚みのせい。このパーツを貼り合わせていく過程で加算されていく誤差の分を、実際そのときどきに経験からちょっと増したり削ったりをその場でしているのを、意識的に記録に残すは本当にやりにくい。字義通りのシャドーワークの部分だな。でも、しっかり仕上げるには、本当にここだけが勝負といってもいいわけで、寸法の数値と、実際につくることの相性の悪さって、変換問題って感じがしてきた。
Dr.スランプアラレちゃんのアニメをを、数年前に動画で見たときに、まだ全然色あせない唐突さみたいなのがあって、これの出たての頃の驚きをその時代に味わえたことは私世代の幸福だったなと思う。
7木曜日
クラブの子に本人と相談しつつ個別の課題を用意しようと思い、図書館に行くととてもぴったりの本を何冊か見つけて楽しみにしていたけど、その子たちが不在で今日は出番がなかった。
そのうちの一冊が『佐藤忠良のクロッキー入門』という古い(昭和58年刊)大判の本で、閉架から出してきてもらったから、中を確認していなかった。家に戻って開いてみると、女性のヌードが大半を占めている、さもありなんだ。禁欲状況の少年の更生施設に持っていくのに躊躇するのもあるけれど、その状況を抜きにしてもすっかり、なぜ女性の裸でなくてはいけないのだろうか?って見ながら思う感覚に自分がなっていることにちょっと驚いた。アトリエ内のモデルの写真も掲載されている。女性の裸はやはり元来性的なものだと思う。例えば、人前で乳を出して子に授乳していても平気だった頃のその状況も、卑猥とは全く違う意味で性的だと思う。絵を描く対象としてもそうだと思う。それがあえて抜け落ちてることの違和感があって、特に紙面の、アトリエのモチーフ台の上の敷物の上に横たわる裸婦の白黒写真は、特に所在無さげというか、居心地が誰にとっても悪く写っていたし、彼の絵の雰囲気とは相入れないものに見えた。
読ませようと思ったうちの一冊は、荒木飛呂彦の新書で、帰りにコメダ珈琲で第3章のキャラクターの設定についての箇所を読んだ。とても平易で書かれている内容よりも、そのことが面白かった。
読書会で、ドゥルーズの『フーコー』p.98〜。内容の形態の切り開きでドローネが出てきたところで胸熱になり、さらに念を押してキュビズムを当てて差異化しているところも良かったし、その次の段落の、性的言説と政治の話で言表が直接でなく、でも隠されているわけではなく、そしてより強固に居座る様が見事で、毛穴が逆立つ感じがした。あと、一つの言表に対して主体の位置に変わりがある(位置が一つでない)話は、制作においては十分に経験していることだねと、皆で話した。
6水曜日
朝、旧Twitter見ていて、根石院の人(名前を思いだせず(調べてわかった。久保田弘成さん)、演歌を流しながら上半身裸で、背中に黒塗りの刺青で車をぐるんぐるんそのエンジンを使って回転させるアーティストで、知り合いではないけれど、石原さん(この頃彼女のことに触れることが多くて、私の大切な友達で影響を受ける人。彼女のことを書くのは多分、私自身のことも誰かに時々思い出してほしいと思っていることの鏡像だと思う。)の友人だったと思う。)が言葉の引用をされていて、彼の前後の投稿で『夜と霧』のAudibleの画像を貼っているのを流し見して、あ、私もAudible入っているのに最近使ってなかったと思い、聴き始めた。収容所で朝起きた時の残酷さについて語られていたことが印象に強く残って、というのも、多分経験者ではないものには想像し得ないだろう心理的な状況がたくさん告げられる中で、このことくらいがやっとリアルに移入できるはなしだったからかもしれない。冷たく湿って縮んだようになった靴に足を無理やり押し込もうとすることや、靴紐代わりの針金が折れた時に発せられる絶望的な声が聞こえるなど、仕方なく裸足で冷たく湿った外へ出ていく憂鬱と呼ぶのでは足りない過酷。これが割とまだ普通の人間の反応と地続きの絶望の入口の感覚についての言表だった。でもそうやって、わかりやすいところだけ消費してしまわずに、丁寧に拾われたものを受け取らないと。
根石院の人(を調べて見つけられなかったのは石根院と勘違いしていたから)の投稿を探したくて「夜と霧」で検索をかけたら、豊嶋康子さんが過去に映画『日本の夜と霧』の予告編のリンクを投稿しているのを見つけて何気なくいいねをつけた。知った名前の俳優の若い頃の演技映像、これが数十年前の映画、そして若者像、運動(とその失敗)。フランクルの『夜と霧』とは関係なさそうでいて、そこからも関連を読み取ってしまおうとする自分自身の個人の運動について、ちょっと接続しすぎだよなと書いていて思う。
5火曜日
達観していることと、精神的に未熟なことは時々混同される、時には同じ意味かもしれない。これからはそういう時代になるのかなと私にはそう見えて、再び暗い気持ちになる。
全く別の話題だけど、書いておく。私には身体がそんな確かなまとまりを持った継続的なものとは思えない。というか、そのように自認することがそもそもできないだろうと思ってしまう。それをするにも相当の、例えば修行のような何かが必要で、それによって掴めるものだって、ごく一部分なのではないかと。それを求める人も多くはないだろう。
ワークショップの企画を家族に試してもらって、出た会話からヒントをもらう。2人とも割とつくる人だからこその視点と解像度だったので、誰とでもこういう話になるかはわからない。夜の読書会でも、言表の優先性と可視性の場のはなしや(『知の考古学』を読んでないせいかもしれないけれど)、「敷居」についてなど、アーティストの集まりで、みなイメージを頭に描きながら読む(ことによって躓いたり、話題が広がったりする)から、そのあたりの標準度合いがよくわからなくなる。でもフーコーはここからさらに可視性について論をすすめてくれる(ことをドゥルーズが丁寧に拾ってくれる)のかもと期待。
4月曜日
「重なる箱」をつくるときはまず製図をする。複数の箱(部材)を実際に組み合わせたり解体する機能を持たせるためには、遊びというか隙間をほんの少し用意しなくてはで、しかも規格品の合板とはいえ、板厚がやはり完璧に数値通りではなく、誤差が出る。大体隙間を1〜1.5mm見るのだけど、組み立ててみると緩すぎたり、キツすぎたり、入らなかったりするから板を切った時に実際にブツに当ててみて切削を微調整する。それは現場仕事だから記録としていちいち残していない。今回必要があって、一つの作品の図面を正確にしたくて作品を実測しながら図面を修正した。測ってみると、物の寸法というのはどこまで行っても近似でしかないのだと志賀浩二さんが本の冒頭で書いていたことが思い出される(『現代数学への招待』で糸の長さを測るはなしが最初に出てくる)。せいぜい0.5mmくらいまでしか定規をあてて判断できないけれど、その寸法の集積では、実際の大きさと異なってしまったりする。箱同士の組み合わせをすると、その摩擦の加減はとてもはっきりと具合に段階が感じられるのに、寸法としての数値はずっと雑なのだ。厳密に、コンマ以下延々と測れて数値が出せたところで、それを図面に用い、実際に板を切るときに反映させるは現実的ではないということが事の本来だから、数値の問題ではないけれど、ここでは視覚的な判断より、触覚的な出来事でわかる内容の方が多くて正確だということになるかな。理屈として理解することと、現実の抵抗。
3日曜日
ひな祭りだったのか。おでんにした。はんぺんを食べたことはあったけれど、今まで買ったことがなかったことに気がついた。袋から出したはんぺんは、美味しい匂いこそすれ、食べものとは思えない色と質感でびっくりした。ビニール袋から取り出すと、最近売っている軽い紙粘土みたいだった。そっちの時もとても驚いた。紙粘土といえば、一番最初は幼稚園の時に持ち寄った新聞紙で皆で作ったドロドロの汚いものだったし、その時からずっととても重たいものだったのに、いつの間にか、ふわふわでぱふぱふで、他にないくらい真っ白で、実体感が乏しく扱うのにとても戸惑う。食べながら客人が「はんぺんには質量がない」と繰り返していた。このくらいのサイズだろうと思うよりもう半分小さい三角に切ったはんぺんは、予想通り鍋の中で大きく膨らんでいた。
2土曜日
見えないものを見ようとする、極小の世界を無理やり見えるように表してみる。顕微鏡のような機器を用いて、裸眼では見えないものを見ようとすることよりもっと先に、もっとミクロなものを見るというのは、観測して発見されるだけのことで、そのものの通常の様子、どのように存在しているかが見えるわけではない。
写真のはなしを。写真が光学的に等価値にそのレンズに入り込む光を写しとってしまうとはいえ、その写真から象や状況を人が見てとれる、読み取ることができるのはやはり経験による。私たちが時間をかけることができて、動きながらものを見ることができる生物だということは大きい。
ミクロの世界が宇宙に感じられるのは、実際にそうだからだといえる。私たちが日常的に知っている世界には、重力が支配している世界とそうでない世界(厳密には、地球上に展開されている世界と、地球外の宇宙空間の世界)があって、ミクロの世界は無重力の世界に似ている。
見る経験のないものを見たように表した場合、それを示すことは見ることを遡行して変容させるかもしれない。
その分野を研究している人はそうでない人と異なる経験によって異なるものを見ている。それは私の経験ともまた違う。私の経験からそれについて見えるように示すことは、翻訳作業/変換作業だと思う。何か入れ子を転覆させるような効果があったりするだろうか?
という内容を、息子の吹奏楽演奏会の20分の幕間に本を少し開いて考えが巡り出したのでメモしておいた。直前に演奏されたのは、サン=デグジュペリの『星の王子さま』をもとにスペインの作曲家フェレール・フェランの作曲した『星の王子さまの冒険』。
1金曜日
請願書の件が手を離れたから、自分の仕事に集中できると思ったけれど、飢餓の状況の急激な悪化に気持ちが暗くなってしまう。国会が超党派でガザの問題に取り組み始めたニュースが流れていて、主に野党議員が写っていたから、これからこの問題に党派性が明確に顕になると、地方での請願の方が難しくなるのだろうということが頭をよぎり、本末転倒な人治主義的な領域に迎合しようとする自分に本当に嫌気がさした。誰がどう言っているかと利害関係のみで自分のスタンスを決めるという、どこもかしこもそういうことかとまた暗い気持ちになる。
自分が今取り組んでいる仕事(制作)は少しづつだけど、着実にやっただけのことが積み上がっていく。楽しいとか幸せというのとは今は違うけれど、やればやるだけ平常心で過ごせる内容だし、やればやるほど見えてくるはずのものだから、泣きっ面でもやるべし。