2024年1月
31水曜日
嘘つきが居て、そのせいで心配な案件が持ち上がり、事実確認に行って杞憂だということがわかってホッとしたのだけれど、別件でその人がまたびっくりするような嘘をついた話が流れてきた。それは私周辺に関係ないことだからまあ放置案件だけれど、どうしてめいめい白白の事実を変更できるのか、大きな嘘は意外と通ってしまうものなのかなと苦笑するしかない。とここにオブラートに包みながらも書いているのは、証拠を残しておきたいような気持ちがあってのことだ。
短い骨子を作り、それに則って編集作業をしたら、ただのつぎはぎになってしまい、完全なる失敗だった。骨の通りがよくなかったのだと思う。または、もっとパッチワークらしくそっけなく並置するコツはあるのだろうか?
ランダウアーの『懐疑と神秘思想』が届く。ヒルマ・アフ・クリントに興味を持った時には、昔通った神秘主義界隈に再び惹かれたりすることはなかったのだけれど、ホフマンスタールからこっち方面に戻って来ることになるとは思わなかった。
30火曜日
晩のうちに書いてしまう。
冷蔵庫に晩御飯作るのに足る食材がなくて、午後明るいうちに歩いてスーパーへ買い物に出た。遠回りして信濃川の土手の方へ行ってみる。この時期いつもなら土手には辿り着けない、雪で。でも今は雪が溶けていて、水道公園の入口に行ってみたら、雪に足跡がついていて、それを辿って土手に出てみた。雪はシャーベットのような質で、人の通った跡はボコボコになっていた。庭仕事をするときの長靴で1キロくらい歩いた。川までは遠く、野球のグラウンドも畑も全部同様に白くなっていて、解け始めて表面が少しもこもこしている。晴れていて、日焼け止めを塗ってきたのはよかったけど、サングラスが欲しいくらいに眩しい。雪のない季節にはここを歩く人はそれなりにいる。健康のために歩く人、走る人、犬の散歩の人。誰にも会わなかったのは初めてだと思う。けれど幾人もの人が通った足跡は沢山ついていて、少し不思議な感じがした。今いない人達が沢山。途中少しベンチでぼーっとして、体が冷えてきたので慌てて店に向かった。
帰路、家が近づいた頃、歩いたら何か思い付いたり、考えが巡ったりするかな?と思って外へ出たのだったことを思い出し、でも全く何も考えなかったことに気がついた。足元の感触や、遠くへ通る視界、水、光。ただ見えるものに満たされて過ごしていた。
29月曜日
岡﨑乾二郎さんの『抽象の力』を引っ張り出してきて、恩物のところを再読する。あ、そうだった、ここにヒルマ・アフ・クリントのことも書いてあったんだったと。私にとっては岡﨑さんの言葉それぞれが宝石みたいなページで、重要より好きが突出してくる。ここは私にはホフマンスタールや、まだこれから知るフリッツ・マウトナーに繋がっていくんだなと自覚した。
日付変わって朝布団の中で日記を書くのにあれこれ考えてて、それは上記の内容ではなかったのだけどすっかり忘れてしまった。というのは、寝返りを打って、目の前に部屋干しの鮮やかな緑色のハンカチーフが渦を巻いてぶら下がっていて、白い天井に光が透けて鮮やかで、本当に引き込まれてしまい、言葉を失っていたのでした。こういうことに関われている幸運を満喫した。
日記を書くことで昨日と今日が繋がれていく。夜眠って夢を見ているところは糊代で、朝起きて日記を書くのはそれを貼り合わせる作業みたいだな。
頭が疲れていてリフレッシュしたくて折り紙を折った。難しくて1つ折るのに2時間かかった。
28日曜日
「視覚障害のある児童生徒は、視覚による情報収集が困難なために、限られた情報や経験の範囲内で概念を形成する場合がある。特に実体や具体的経験を伴わない、言葉による説明だけで事物・事象や動作を理解してしまう傾向が見られる。これは、いわゆるバーバリズム(唯言語主義)と言われるものであるが」と、幾つか検索をかけてみて行き着いた長崎県教育センターのPDFにあって、「唯言語主義=野蛮なこと」という結びつけのところが感覚的に納得いかない。
「盲目の詩人」で検索をかけてみると、そのままの本のタイトルで、ワシーリー・エロシェンコという人についての本の情報を見つける。日本にも縁のあったようで、彼の書いた童話集がKindleで読めた。童話の素朴さに触れるのが久しぶりで、子どもの頃の感覚を思い出した。親や祖母から聞いた話や、まんが日本昔ばなしや、高学年の時に父が買ってくれたアジアの民話の本を思い出した。他にはないくらい、中性的に、平板に語られる感じがする。
古代ギリシャの詩人の多くは盲人だったと言われていたらしい。
明日が娘の誕生日なので本を贈った。『チャンドス卿の手紙』とドゥルーズの『フーコー』。ギフト扱いにしたのだけれど、置き配指定になってて、私の方へ娘のアパートの玄関先に置かれた小さな段ボールの画像が送られてきてしまったので、今部屋にいるの?荷物届いてるよ、とLINEで知らせた。
27土曜日
本を何冊か読んだ。直近に読んでいるものにそれぞれがつい影響を受けるなと感じながら。
ホフマンスタール『詩についての対話』再読。クレメンスとガブリエルの対話の中、ガブリエルが引用するヘッベルの詩の中の一行に目が止まる。「ほのじろく白鳥が二羽すべりくる」。私の中で「白鳥」ではなくて「二羽」の方が物体化する感じがする、なぜだろう?数え上げられることが名より実体のあることに感じられるからなのかな。「風、風はおもむろに」「波をふくらまし」と続き、数えぐせのついた私には、風も波も、ごろっと感じる。詩が終わり、ガブリエルが話しはじめる。その中で「この眼で見るとき、生き物は文字どおりの象形文字であり、言葉にあらわしがたい物事を世界に書き入れるときに神の用いた生命ある神秘の暗号なのだ。」を読んで、え、漢字のような文字を持つ言語でなくても、生き物を象形文字のように感じられるのか、どんなか?ということと、眼が見えない人にとっての言語のありようについて全くわからないな/自分が言葉についてあまりにも視覚偏重なのだな、ということを思った。
26金曜日
描き溜めたドローイングを必要にせまられて展示のたびにリストにしてたけど、自分のために統一ルールでリスト化しないと混乱すると思って、エクセルで作業を始めるも、PCの都合で保存出来なくて中断する。エクセルが嫌い。
仕事の全体を把握して進める必要があることはとても多い。例えばフライヤー作るとかも、入れる情報全部を把握して、その内容の重要度によって、または把握させたい順番によって視覚的に編集をする。そう、視覚的に編集するような把握の方が慣れてるな、書いてて今気づいた。デザイン仕事ではない、ちょっとキャパオーバー気味の内容量のものを、図化してみよう。この量は把握しきれなそうと、途方に暮れていたところだった。
25木曜日
朝起きて日記を書くので、今は26日の朝。慌てて息子の弁当を作り、送り出してからついついTwitterを見てしまう。主に私のタイムラインはアルゴリズムによってパレスチナ、イスラエルと西側諸国の問題についての投稿を見てしまうし、他のものをさっと飛ばして、自ら、それらの投稿の中に入って見てしまう。朝のはじめ方として良くないと思っているけれど、私が安眠している間に、遠くの土地で苦しんでいる人がいるということを考えてしまう。痛みを私の中で勝手に募らせないように、何かのルサンチマンと接続してしまわないように、罪悪感というのは、本当に猛毒だから。
昨日は(というか25日は)、仕事に出るタイミングで凄く吹雪いていて、町場なのにホワイトアウトするかと怖かったのに、到着の頃には、車中まで紫外線がさして、頬がチリチリするくらいの晴天になっていた。色相環と混色の話をして人の仕事を見守り、帰りにコメダ珈琲で数日前に見つけた論考を読みながら、読んでは想起されることを書き、読んでは書きと、書きたいことがたくさん出てきてその状況自体が面白かった。書き殴りなので、読み返すと酷そうだけれど、思ってたけど口に出したことがなかったことが勝手に口から出てきたみたいに、ポロポロこぼれ出てくるのが面白かった。私がどのくらい無責任なことが言えてしまうかの確認も、それにこれからうっすら重なってくるだろうなと考えることも並走していた。
24水曜日
昨日耳鼻科に行った不調とは、時々急に咳き込むことなのだけれど、薬飲んでもあまり改善したかわからない。もしかしたら中年女性に多い症状かもしれない。とにかく喉の状態にフォーカスしないようにしないと。整体に詳ししい友人は、咳は薬で止めてはいけない、体を緩める効能があると言っていた。止めるには水をゆっくりコップ一杯飲む。実際、咳き込んだ時、ゆっくり落ち着いてぬるい水を飲むのが一番効果的だ。冷たい水では刺激が強すぎる。明日出先で咳き込むと困るなと、気にすると良くないのだけれども。
吹雪いたり、雷が鳴ったり、晴れたりを繰り返す忙しない空模様だった。
今日の読書会で、シュルレアリスムの役割が思っていたより大きくて、前時代を批判的に乗り越えるとかだけではなく、文化のごった煮のような粘土っぽさがあっていいなと思った。むしろ皆ここを経てポピュラーに時代に現前化していたりするのかな。
23火曜日
不調で耳鼻科へ。ずっとかかりつけだった耳鼻科は少し遠くへ移転してしまい、一度行ってみたことあるけれど、新しい場所で新しい医院だからか急に混み合っていて、以前の古い医院独特のしつらえが失われたことを残念に思い、今日は他の近くの耳鼻科へ行く。薬が6袋も出た。暗示にかかりやすいので、小さな一粒でも体調が激変するような心持ちになることもあるけれど、今回はなぜか何も効かない気がする。
私は古い医院と老齢の医者を好ましく思う。小学生の頃、度々結膜炎になる子供で、しょっちゅう眼科に通っていた時がある。高学年になって、一人でバスに乗って行く。とても混んでいる眼科で、通院する日は放課後の時間を全て費やす。診察室は広く、診察台は3つあって、水色の白衣(あれ?語が矛盾している)と帽子に、丸い鏡の中央に穴の空いている(あ、書いている今、外がすごい吹雪いている)なんていうんだろう、あの器具、片目につけるやつ、それを3人がお揃いで身につけているので、ついには先生を個人の人とは思い出せない。
そう、結膜炎で何度も数ヶ月も通うなんてちょっと普通じゃないことは、病院を変えて知った。大体2、3回行けばもう来なくていいと言われる。病院を変えることにしたきっかけは思い出せないけれど、母か祖母と初診を受けに行ったその眼科医院は、ずっと通ってた病院と同じバス停で、そこから少し離れている。待合室には2、3人、または誰もいないこともあった。受付に老女が一人、看護婦も先生も高齢の女性で、ゆっくり診てくれた。点眼もゆっくりで乱暴でなくて、丁寧に眼に沁みて気持ちよかった。
長岡に越して、眼科は古いお爺さんのお医者のところに通っていたけれど、いつの間にか閉院していた。かかりつけの内科の先生も引退されて、医院は新しく移転して息子さんが開院した。その息子さんはとてもいい人なんだよと、近所のギャラリーの喫茶室で、この地域のことをよく知る老婦人が話すのを聞いたことがある。
22月曜日
夕方から近所の工房このすくへ月曜版画部に参加しに行った。有志の工房を開いて版画を制作する部活をしている。仕事帰りの人や、仕事は引退しているけれど忙しい人も来て、昨日は皆で5人。それぞれが制作を進めていく状況は面白いのと、あと普通に井戸端会議のようなお喋りをたくさんできる。おやつを持ち寄って(というよりいつも持ってきてくださる方がいて)、お茶を入れて(今日はお湯だったけど)団欒する。私はパレスチナのこととかドイツでは新パレスチナを言うだけで展覧会の機会を失うらしいなどの話をして、聞いてもらえる。パレスチナが大虐殺状態のことは皆さん知らない感じだった。残虐な話まではできなかった。パレスチナのことは年末自分の実家では話せた。正月夫の実家では話せなかった。楽しい気分に水を刺すことができるかできないかはそのままその相手との距離なのかもしれない。赤ん坊や小さな子の肉の塊としての幸せな温もりの頼りなさよ。父の遺体の粘土のような土けった黄色い肌の質感が思い出される。
パレスチナのお爺さんが亡くなった赤ん坊の遺体を掲げて惨状を訴えている動画に、あれは人形だとする反論が巻き上がったことがあった。あの物になった赤ん坊、土けて、何か知らない樹脂のような違和感のある質感になった赤ん坊はまさに、私が数日間見ていた死んだ父と同じ色をしていた。穏やかな父と、苛烈な土地のそれと、そのことはぐるぐる回ってる。
Tさんが帰りに「ここがとても好き。本当に部活みたいだし、優しい人しかいない。」と言ってくれたのを夫に伝える。
娘から、修論の発表を無事終えたとLINEが来た。先生には「最小限の努力で最大の結果を得ましたね」と評されたらしい。私は卒業制作しかしたことないから想像しただけで身がすくむ。たくさんの質問にも耐えられたと。よく頑張りました。
21日曜日
今日は本当にぼんやりして過ごした。行く予定だった美術館に行くのもやめてしまい、デザイン仕事も予定の半分くらいしかできなかった。
物が捨てられないたちで、学生時代に一人暮らししていた頃から重宝していた料理雑誌のオレンジページがまだ残っていた。特集「基本の和食」は、表紙全面に油をこぼしてしまったシミをそのままにとってあった。それら約20冊にパーっと目を通して、私が作ってみたいレシピのページを切り取って残し、古紙に出すことにした。食器棚に11cmくらいの空きができた。
気がつくと冷蔵庫の野菜室に野菜があまりなくて、雨で雪が消えた庭に出て、残しておいた大根を抜いてきた。とても小さい大根で、1本で家族3人分の味噌汁になった。
20土曜日
比喩的に言っている言葉、例えば「自分の中の熱を育てて」みたいな時に、その「熱」という言葉を慣用句的に聞き流してしまうか、文脈の中での比喩の意味として実感するかとはさらに別に、「熱」というものをまるで物体みたいに異物としてイメージしてみる。実際比喩的な表現を実感する時は、ある程度長い意味内容を一般化して、でもその輪郭の曖昧さを担保することによって、受け手がそれを解凍するときに能動的に再生され、それがどういうことかをリアルに理解する、みたいな一連の流れがあると思うのだけれど、ここに言葉がそれを言えてしまうことによって、出現した「熱」という文字や、「ねつ」という音が、一個の物や音楽のモチーフのように手の上に乗せられるもののようにイメージしてみる。そんな遊びをする人は私のように相当な暇人だろうけれども。
と、書いていて「音楽のモチーフ」が「手に乗せられる」が既に普通ではないけれど、そう感じられる人はいますよね、どうだろう? フーガは私にはわかりやすくそういう感じ。
去年の夏くらいに受けた依頼で、結構まとまってテクストを書くことになっている。ずっと手付かずでいたけれど、展示の後は色々考えが巡って、ちょっと変な状態になっている(←以前一緒にトークした絵画の作家曰く)のは本当で、今日はたくさん書いた。飽きっぽい私はこの「熱」をある程度の期間、保って育てて行けるように、日々の生活のルーティーンを何か考えた方がいいかな?と。他の労働をしたくないけれど、うまく切り替えて、回して、それぞれが気分転換になるように。
19金曜日
小さな依頼で書いたテクストのタイトルが思いつかず、妹にラインして一緒に考えて貰う。あれこれ出し合っているうちに、良いのを思いついた。妹とはよく、デザインやテクストのことでお互い相談に乗り合う。
荷物の荷解き。作品は全て無事で、梱包材を片付け、アトリエを全部ではないけれど掃除してすっきりする。晴れていて、庭の少なくなった雪が眩しい。少しだけ抜かずに残しておいた大根が頭を出す。
折目正しい番組で、話し続けている人の言葉をそのまま文章にしたような昔の本を教えて貰って読んでいる。ふんわりした思い出ばなしの散文が、急にカットインで具体的で説明的な内容に変化し、また元に戻ったりを、つらつらとした流れの中で自然にやってしまっている。最近はこういうの見かけないかも。
18木曜日
年明け最初の更生施設での美術クラブの日だった。描きかけの水彩の静物画を最初に皆で見て、自分の作品や人の作品について発言し合ってからはじめた。
帰って来て、少年法改正して初めて19歳への死刑判決が出たニュースを見てとても暗い気持ちになった。
17水曜日
昨日の夜、家に帰ってきて、仕事(労働の方)で出していたチラシの色校をやっと確認できた。思ったようによく色が出ていてほっとした。先方も気に入ってくれた様子。
佐川のラージ便で送った荷物が予定より早く今日届いた。外から見た限り、無事な様子でほっとする。
今年度から参加しているファンダメンタルズという企画の中で定期で開催しているzoom、オンラインで素粒子物理学の白井さんを囲んで、私を含むアーティスト4人で話をする、と言っても実質は白井さんから物理のことをいろいろ教えてもらう会だった。話を聞いていて、いずれ何か自分の思っている世界観とパラフレーズさせてみようと思ったりするけれど、毎回想像の斜め上行く研究の内容に、未知の宇宙が爆誕し続けている。物理周りは名称が面白くて、今日初めて聞いたものの一つは「量子色力学」。
16火曜日
今日は朝ゆっくり目。ラジオで岸井ゆきのさんが「いつも頭の中で自分が何か問いのようなことを喋り続けてるんですけど大丈夫でしょうか?」という主旨のことを言っていた。私もそんなだよと思った。
obi galleryへ展示の撤収に向かう。小田急線で、お爺ちゃんとお母さんと小さな女の子が乗って来て隣に座った。富士山見えるよ!とお爺ちゃんが促し子が窓に貼り付く。え、見えるの?と思って私も勝手にご一緒する。目の前を猛スピードで隣の列車が駆け抜けていき、子は心底驚いて、お爺ちゃんお母さんに慰められていた。そんな風に驚きたい。雪をかぶった美しい富士山は、家家の隙間から、時に開けた土地からほんの短い間見えた。藤沢は富士沢でもあるのかなとほんの少し思った。
片付け梱包をして、大きいサイズに対応してくれる運送会社に集荷を頼む。個人で大きいものを運ぶのに、運送会社の規定サイズが時々変わるので、以前送れたものが送れなかったりするので勿論事前に調べておいた。(搬入はうちのパッソで夫と一緒に来た。額縁も什器もうちのパッソに乗るサイズであることが、一つの基準になっている。)
小尾さんとご主人に展示台の梱包をしていただいた。小尾さんのご主人は漆の塗りの仕事をされている。正月の地震の話になって、やはり輪島にお知り合いが多く、その殆どが被災し、半分くらいはもう事業を再建することはないという。何もなくても継続の難しい伝統工芸の世界。その直接的な影響が小尾さんのところに時間をおいて及ぶだろうとも。美術の仕事と工芸の仕事の違いについて、お互いを思い合うような会話ができて嬉しかった。職人さんの仕事の仕方に憧れはあるのです、でも自分には向かない。日々たくさん仕事があれば、ただ続けていれば腕は上がるけれど、やらなければ上がらないどころか下がってしまうから、自分で何か仕事か仕事にならないものでもやらないと技術は保てないとおっしゃられていたのが印象的だった。
小尾さんはいつも「凄い、凄い」と言ってくださって、作家の仕事に寄り添って支えてくれた。良い機会をいただけて本当に有り難かった。
15月曜日
個展最終日。約束があって、11:00から在廊を目指して行く。藤沢駅でヒロイクミさんと同じバスになる。他にも沢山の人が来てくれて沢山お喋りしたから、思い出すと1日が1ヶ月間くらいの出来事に感じられる。モルゲンシュテルンの『絞首台の歌』や、フリツマウトナー、鼻行類のことを教わる。面白そう。ベルリンやニューヨークでの話を聞いたり、同世代のアーティストの来訪が兎に角多いので、作品を前に、皆さんの来た分厚い道のことを伺えたりして嬉しい時間でした。ありがとうございます。
多摩センターで娘と待ち合わせて極楽湯へ。学生アパートに一泊した後だから、大きなお風呂は本当に極楽。一緒に部屋に帰ると、娘が日記をつけはじめる。私は全く知らないのだけど、お笑いのマユリカさんのラジオが好きで聞いてて、彼が中学生からつけていた日記の話に感銘を受けて自分もはじめたらしい。私も書いてるー!ってここを見せたりした。娘はマユリカの相方もオタク友達として慕ってたらしく、M1に出てるのかと見てみたら、「皆喋りが速すぎる」という感想を持ったとのこと。
14日曜日
川崎の岡本太郎美術館へ行くのに間違えて遠回りし、ハイキングのような道行になる。ひとりで少し心細い。TARO賞の作家たち展へ来てよかった。
夕方から在廊。人が途切れず来てくださって、色々会話が弾んで楽しい時間。懐かしい人や、会いたかったはじめましての方も。
修論提出したての長女が来て、小木曽瑞枝さんと3人で終廊後に呑んで、私は寝袋をキャリーケースに入れて娘のアパートへ。学生時代の暮らしを久しぶりに味わった。
13土曜日
息子を隣の隣の市、三条市の公民会館まで朝送る。行きは高速を利用し、帰りは下道で。雪が少し降っていて、特に見附の辺りは平たくて、地平もモノクローム、空は彩度の低い鈍く暗い白で、遠近感が無いのに無限感はある。1人音楽を消して車も疎な道路を走っていると、失いかけるスケール感の中、人間を引き留めるようにして、自分がいつか見たことがあるロードムービーの主人公になったように思えてくる。そうするともう私は、このスリルを気を楽にして愉しめるようになる。どっちに転んでも最高なのだ。
12金曜日
数学の知りたい内容についての動画を2つ見る。パズルみたいな内容で楽しい。でもざっくりした概念を知るためのもので、実際は計算をするのだと思うから、何ていうか、いつまで経っても平行線で本来の感覚に踏み入れることは叶わない感じがする。それを習得したいわけではなくて、多分その乗り越えるところに落ちている幾つかを拾いたい気持ちがある。ファンタジーかもだけれど。
3年前から外部の協力者として出入りしている更生施設の二十歳を祝う会に来賓として出席する。「おめでとうございます」と心を込めて言いたかったのに、上滑りした虚な声になってしまった。いくつかの祝辞や発表を聞いていて、先日「メタなコミュニケーションが不可能になっている」と水野くんが話しているのを聞いた時に、youtubeに向かって「まじか!」って声が出ちゃったことを思い出していた。彼らに、絵を描いているときに起きていることを信じてもらえたらいいな。
11木曜日
いついつまでにこれを読んでおきたい、みたいな本や記事がいくつかあり、どれも果たせそうもない。特に数学に関連するものは短くても、面白いと思った箇所をきちんと理解したいと思ったら、全くわかっていないことを思い知るし、一朝一夕に学べるものでもないことがわかるし、質問できる宛もあるけれど、まともな質問ができる感じがしない。まあ、学ぶこと自体面白いから、締め切りを自ら切らなければ良いのだけど、後に回しにするとずっと進まない。
「漢字は意思を持っていて石のようにはたらき、ひらがなは唇が勝手に息をしてしまうみたいに、いつでも声を発している。」これは私の制作実感。文字(漢字)を開ききって一旦霧散させ、引力で再び閉じて再生するのは福田尚代さんの仕事だなと以前思ったことを思い出した。
自分のサイトにこの日記のscrapboxをリンクづけしているわけだけど、私がこれを書いている時、推敲している作業はライブ状態で見れるのかな?と思って夫のスマホで見てみたけど、リロードしないと見れないみたい。ちょっと残念。
南アフリカがイスラエルをパレスチナに対するジェノサイドで提訴した弁論をライブで一部聞いた。人間の真っ当な訴えで、数々の非道が挙げられていて、こういう自然な言葉が聞きたかったから心が緩んで、胸が熱くなり悲しみも押し寄せる。これに感動していることに罪悪感を覚える。地球上の大人は愚かなことをしている。
10水曜日
日記書くようになってなのか、個展会期中だからか、いつもより頭がぐるぐるしていて、よく考えているかといえば、そんなこともなく散らかったものが来ては去っていく中で、ああ、と腑に落ちたことがあったのに、午後には忘れていて、思い出せない夢みたいに残念に思っていた。夜になって、幸運な偶然の一致でまさにそのことについて口に出す人の声を聞いて思い出した。
ヘレンケラーの井戸端の奇跡が、「水」という言葉を理解したからではなくて、これまでサリバン先生とやってきたことは、対象と名前の一対一対応の遊びではなく、体系があるということ、言語とは体系だということについて理解したということだったって読んで面白いと思った時に、私が素通りしていた内容があった。それは、いわゆる生活に必要な準言語的なコミュニケーションはそれまでに家族の間でなされていたとあったことだった。私は多分そういうところの発生内容や工夫や、自然に流れてなされる形態のようなことに興味があって、でも、確かにそこだけやってても、それがいくつもパターンとして生み出せてもすぐに閉じてしまう。その先のことをもうちょっと見るようにしたほうがいいのかもなと思ったという内容。それを思いがけず思い出せた。
9火曜日
昨日のことから思い巡らせたことを今日の日記に書こうと午前中にピンクのメモ用紙2枚に渡って書いたものがあったのだけれど、それはやめる。そのメモ用紙は目が覚めるような派手なピンクで、だいぶ薄い紙。表紙があったけれど、使い勝手が良いように破り取ってしまってある。これはどこから手に入れたものだろうとしばし考えると、友人の台湾土産のひとつだったことを思い出した。そうだった、表紙に「計算用紙」と書いてあった。派手なピンクは何故か、書く気持ちを後押しして燃料を足し続けてくれるような気がする。まさに計算するのに相応しいもののように思う。こんな派手すぎる、つまり文房具としては少し下品に思える用紙だったから、実は早く消費したいと思って使っていたのだけれど、こう書いているうちに無くなるのが惜しくなってきた。
なぜそのメモ内容を日記に書くのをやめたかというと、書きたい内容なのに、私にはそれをちゃんと書けない気がするから。そうやって取り置くことがちっとも良い方策とは思えないけれど。自分にがっかりする元気が今日はないのだ。
日記を書いていて気づくのは、私は度々形容詞を歪な位置にくっつけてしまうこと。形容詞の位置を動かす修正をすることが多い。気持ちが前のめりな感じがする。
8月曜日
成人の日?で休日。「ゴミかご当番」というごみ収集の場所に蓋付きの柵状のかごを朝広げて用意するという輪番制のしくみがあり、今日から一週間当番だった連絡を夫が私に伝えるのを忘れていて、誰かが代わりに出してくれていた。
久しぶりの積雪。労働の方の仕事で急遽色校をとるのに、先方が資料を届けてくれることになり、来訪車を止められるように慌てて雪かきをする。雪が好きで、ずっと雪かきも好きだったけれど、体力も落ちてきて、昨年くらいから面倒に思うようになった。長岡はそれほど寒くない分、雪が大きくて重くて、力のない私は面倒くさがらずに小刻みに何度も雪を押しのけるより仕方がない。これを書きながら今朝のことを思い出している。雪は嘘みたいに白くて、というか、雪によって「白」という色は違うものになっている。雪かきしている時も綺麗だったなと今思い返すと、そんなに雪かきが嫌ではなかったかも知れない気がしてきた。
7日曜日
今日の音読会は哲学初学者の会でロックのところ。諸観念の分類で一次性質、二次性質の話になり、二次性質の方に色が分類されることについて、理屈ではわかる(可視光線とか、内的に再現されて感覚されるなど)のだけど、そのことの違和感についてあれこれ話し合う。絵の具の色が鉱物自体の色だったり、物質自体から色を剥ぎ取れる感覚がないこととか。パール材の色は着色ではなくて、同じ構造のものの異なる厚みによって色が違って見える話などなど。
メイさんが、江戸時代とかに犯人の似顔絵を筆で描いたもので、あ、あいつだ!みたいに捕まえる物語とか、モノクロだし、その絵の様子で人が見分けられるのだろうかと思うと、昔の人が見ていたところは今とちょっと違うのかも、という話題を振ってくれて、ああ、確かに今は色が鮮やかすぎる世界に暮らしていて、色を取り出して名指しできるけれど、昔はむしろ色が物体と不可分なのは当たり前で、それを色として取り出すことの方が少なかったからということがあるのかもといった話になった。シャーロックホームズのドラマなどを思い出しても、着ている服の色は地味で、素材の色は、「あの人は赤いシャツを着ていた」と色を取り出して言えるような状況ではなかったななど。もちろんそのせいで色がそのように扱われていたのかはわからないけれど。
そこでは言わなかったけれど、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』にもよく色の話が出てきて、それを読んでいるタイミングでマチス展を見たら、特にはじめの方の部屋の絵が、マチスが色と形をバラバラに考えながら崩壊しそうな絵を描いているように見えて、彫刻作品を作ることはそれを崩壊させないための確認作業だったように私には見えたことを思い出したりした。
太宰治の『正義と微笑』は後半に入って、日記味が薄くなり小説味が濃くなった。
6土曜日
ホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』で「言葉が腐れ茸のように口の中で崩れてしまう」と読んだときに、日本語話者の私には1文字1文字が意味や音を表す漢字やひらがなの物体感が染み付いていて、それが崩れることは比喩よりもっと実体があるまま受け取っていた。漢字ではなくもっと記号的なアルファベットを文字とする言語の言葉の物体感ってあるのだろうか?
と、今日メモしてあって、どういう脈絡からこう思ったのか既に忘れている。また別のノートに赤いペンで、「ことばを/音声である場合・文字である場合/(それぞれに)ノイズから切り分けて受け取るとき、視覚的でない方、喋り言葉を理解するとはどういうことなのか」と書いてあった。中学生くらいの時かな、宇宙人が出てくる夢を見て、よくあるイメージと思うのだけれど、テレパシーで脳内に意味が直接与えられるような状態で命令されたことがあって、まあでも、喋り言葉を理解するのってその状況とそれほど変わらない気もしてきた。
夫がある案件について、来週の集まりで皆に聞いてほしいと言い出して、あれ?一昨日の話では、その件は運営の集まりでもう一回相談してからにしようって言ってなかったっけ?と返すと、いつもなら言った言わないでごたごたしそうなところ、すんなり思い返してくれた。喋った言葉は残ってないから。ではそのコンセンサスを取り直すときに、その話をもう一回し直すことになるので、持ち出すべきは整理されたその時の議論の内容なのだろうけれど、私の頭の中で再生されていたのは、その会話をした時のスーパーの精肉売り場を背景にした夫の像と、音声ではない意味内容だった。
5金曜日
作業のながら聞していた朗読や対談から、幾つか自分にとって実感の強い言葉が置石のように残って自動的に思考が繋がれる。
非日常という言葉がなぜ好きだったかといえば、それは高校生の頃の未熟さゆえだったと今日は思う。タルコフスキーの映画をたまたま深夜のテレビで見たのは救済だった。ぽっと、外界の時の流れから宙に浮いたような空間を見る時があり、とても孤独で美しく、できれば他の人たち各々が共有していてくれたらいいのにと願ったものだった。それは意識することによって霊的または宗教的、精神的な何かに回収された。私はその辺りをうろうろし続け、その神秘が在ることを証明したかったのかもしれない。でも今はそのことをそんな風には思っていない。非日常というのはもともと相応しい名ではなかったように思っている。それはむしろ日常であって、常でもあり、常ではないものでもあり、奇跡的に時々あるのではなく寧ろ、常に暴力的に強い力を発揮しつつ、でも権力のようには志向性がないもの。そしてそれによってこの世がずっと保たれていることへの畏怖だと思う。
私は世界観の変容についての話をよくするし考えるが、同じものを見て、違うように自分自身勘違いし続けている気がする。捉え損ね、つなぎ間違える。でもその時々に実感があるかどうかは大事で、実体はないのにほんの少し実現する。
4木曜日
今日やろうと思っていた仕事は原稿がまだ届かなくてできず、入稿しようと思っていたデータは、印刷所のサーバーのメンテナンスでできなかったので、アトリエの片付けをしたり、本を読んで過ごした。
小さな依頼を受けて再読しはじめた太宰治の『正義と微笑』はそうそう!日記形式の小説で、つい最近この日記を書き始めた自分にとっては、日記を書くということと、ところがそれが小説だということと、17歳の主人公の身の上と、私がその年頃だった頃のことと、今の私がその年頃の主人公を想定して日記を書こうとしてみたらということと、私の息子が丁度17歳だということが多重に重なって、時々読み手の私の側で「多身体性」が発生する状況になっている。
片付け中に昔買った本を見つけた。『図の体系 図的思考とその表現』(出原栄一、吉田武夫、渥美浩章著 日科技連)。「絵」と「字」の中間的な第3の記号である「図や表」という視覚言語の表現方法と形式についてまとめられている。ちゃんと読んだことなかったけど、まさに今読みたい本だった。図版多数で、一つづつ見ていると時間かかるけど面白い。
年明け最初のオンラインの音読会は誰も来なくて私と夫だけ。なので予定を変更して福尾さんの「言葉と物2」を読み合わせた。夫はこれ読んで面白くて納得だけど、人の愚かさにがっかりした(僕はどうすればいいんだ)と言い、私はこの頃の雑さを明確に指摘してもらえて、相対的に私が大事にしたいと思っているものの価値が見えるような気がして(見せてもらえたような気がして)愉快だった。
3水曜日
息子が夜中に酷く痰を絡ませてゼロゼロ言いながら咳き込んでいたので、対処法を検索してみたら咳に効果のあるツボを見つけた。自分でやるように教えてあげたら落ち着いて眠れたよう。中府(ちゅうふ)と尺沢(しゃくたく)というツボなら自分で押せる。勿論その効果があるだろうけれど、慣れない行為をしようとしたり、喉ではない体の部位の感覚に意識を集中することで、患部から気を反らせるし、気持ちを落ち着かせることができるのは大きいと思う。私自身、身体の内的な感覚に集中することはますます減っていて、痛みなどの苦痛ばかりを拾いに行ってしまうから。
家を留守にしている間に溜まった仕事の、今日やろうと思っていたことの半分しかできなかった。
先日ヒエログリフを書いている動画がタイムラインに流れてきて、ほぼ絵(図)なので、絵と文字の境目はどこなのだろう?と思った。脳の絵(図)を見る時に反応する部位と、文字を見る時に反応する部位は異なるって聞いたけれども。
人が制作全般について対話している動画を少し見始めた。惑うことなく間髪入れずに本題に入っている様子に魅了された。これはながら聞きができないと思い、PCを閉じた。
2火曜日
年末30日には長女も合流。学生時代最後のお正月。今日長岡へ帰る途中に長女を下宿先に送り、彼女が下車した席に長女所有のジャンベを乗せる。息子がせがんで借り受けた。ジャンベというのは西アフリカ起源の太鼓とのこと(wiki)。(今目の前にない状態で記憶で書くと、)直径40cmくらいの叩くところ、その膜を半球状の形が受けていて、その下には若干下方が太くなっている円柱形の足が中央に。全体で高さ65cmくらい。ボンゴやコンガの乾いた響きのイメージより、もう少し湿り気やノイズのあるジャーンという音が出せる楽器に感じられたけれど、素人の私には他の経験が乏しいのでよくわからない。
地震の被害の状況がよくわからないまま、道路情報のみを頼りに、高速道路の一時閉鎖していた区間も開通していたので出発したら、何事もなかったかのようにスムーズに帰ってこれた。自宅内も被害と呼べるようなことはなく、壁にかけてあったいくつもの額が、踊ったみたいに曲がっていたのと、陶器の球状の小さなオブジェが棚から落下した程度。新潟県内の揺れ方にも相当ムラがありそう。テレビで見る状況も、SNSで見る状況も、個人の現場の状況も皆局地的で、被害の規模や具体的なことをどこでどのくらいと把握するのは本当に難しいのだろうなと思ったり。必要なところに救済の手が一刻も早く届くように願うばかり。
昨日、ゆっくり休めたし、湿度の高い日本海側に帰宅したおかげで、具合はだいぶ良くなった。
1月曜日
私のアレルギー症状が悪化して鼻水と咳が酷く、頭も痛い。体温は低過ぎるくらい。具合が悪い辛さを吐露する。
そういえば、父は自分の老いの苦労について、全く口にしない人だった。肺気腫になりかけて煙草を辞めた時も、スタスタと大きな歩幅で早く歩いていたのが、とてもヨタヨタ小さく歩くようになった事についても、もの忘れを指摘されても、手が震えて絵が描けなくなっても、そのことについて言うことがなかった。具合が悪くなっても、母に何も言わずに寝巻きに着替えて寝てしまうという。亡くなる前にお見舞いに行った時、よく聞き取れなかったけど、何も苦言を言わなかった。少し痴呆があり、病室に飾ってあった風景の油画を見て、祖父の絵だと勘違いして何か言っていた。あと散歩に行きたいなと言っていた。
父不在の正月を後にして夫の実家へ。夫の兄弟家族も集まり賑やかなうちに、揺れには気付かず、大きな地震と津波の危険から避難を呼びかける緊迫したTV放送に、新年を迎えた実感のないまま元日が終わった。