第6回リアぺのQ&A
🙇‍♀️ すべての質問を取り上げているわけではありません。
🐪 授業内で答える質問
Q. グッドマンはある対象が特定の特徴をつけて描かれることをトシテ描写と呼んだようだが、あらゆる描写は何かしらの特徴・属性を持つものであるから、トシテ描写は全ての描写に当てはまるという解釈で良いのだろうか。
A. 基本的に、描かれた特徴を帰属するべき特定の対象がないケース(不特定なものを描く画像)は、トシテ画像にならないと考えてよいと思います(反例はあるかもしれません)。あとでトシテ描写の説明をするところでまた言及します。
Q. 今回の講義で出された事例は全てナナイの説では十分に説明しきれないということで大丈夫でしょうか。少女漫画を例に挙げると、ナナイの説によれば我々は画面に目の大きな人間という対象が描かれていると認識しているはずなのに、実際は馬鹿正直にそう認知しているとは言い難い部分があるのでナナイ説には瑕疵があるのだ、という理解をしています。
A. 説明不足でした。具体例で言えば、〈デフォルメや白黒の絵〉の特徴と〈特定の対象をしかじかのものトシテ描く絵〉の特徴が「三重」という言い方で混ざってしまっているのでは、という難点です。前者は、描かれた性質に2つのレイヤーがあることを示す例、後者は、描かれた対象とそれに帰属される性質が分けられることを示す例です。今回の描写内容の理論の図でたぶんわかると思います。
Q. なぜ理論があった方がいいのかという部分について、ある理論がある複雑な描写内容を十分説明できているということがどういうことなのかイメージができませんでした。複雑な描写内容を持つ画像を、十分に説明していると言える理論の例が欲しいのですが、これは次回の内容になるということでしょうか。
A. 今回の授業で「十分に説明していると言える理論の例」と考えられるものを提案します。ただ「そもそも(理論的な)説明とは何か」ということを考えると科学哲学のかなり難しい話になっていくので(僕もよくわかっていません)、その点は十分には答えられません。基本的には、「その理論で記述しにくい現象がより少ない」、「その理論のおかげでいままでよりも物事の理解度が上がる」くらいのことだとお考えください。
Q. 複雑な画像のあり方をうまく整理・分析して理解するというモチベーションのもと、理論の有用性があるという話は理解できましたが、一方で理論には境界的なものが必ずあるという話も授業でしていたと思います。そうした境界的なものがなるべく少なくするのが理論構築の目的になるのでしょうか。それとも逆に「これは微妙だ」とはっきりさせることが重要なのでしょうか。
A. 両者の関係は深く考えてなかったですが、難しいですね。ひとまずのお答えとしては、両方の面が同居しているイメージかなと思います。前者は理論構築の理念であり目的でしょうが、究極的にはおそらく達成が難しいものです。後者はそれ自体が理論構築の目的になるわけではないかもしれませんが、理念をもって理論が作られた結果得られる利益のひとつです。これは哲学的な理論に限った話ではなく、理論的な研究一般(たとえば理論物理学など)にも同様の事情があると思います。どこまでもたどりつけない現実を追い求めるという話なので、ロマン主義的な理論観かもしれませんが。
👉 理論の意義
🐪 この例はどうなるんですか
Q. 描写内容を全く持たない抽象画の例として挙げられていたニューマンの絵は、そもそも純粋な形式しかなく、ウォルハイムによると「うちにみる」が生じていないとのことだったが、ウォルハイムは画像の定義を、「画像(描写の働きを持つもの)とは、〈うちに見る〉をもたらす事物のうち、正しさの基準を持つものである」としていた。彼自身はこの抽象画を画像として認めていなかったということだろうか。また、自分はこの絵を見て、「真っ赤な画面を表示する、少し壊れているモニター」のように見えたのだが、これは描写内容が発生しているとみていいのか。
A.
👉 Barnett Newman. Vir Heroicus Sublimis. 1950-51 | MoMA
おっしゃる通り、ウォルハイムはニューマンの作品をこの授業で言う意味での画像とは見なさないでしょうね。
「少し壊れているモニター」はおそらく意図はされてないはずなので、ウォルハイム的には描写内容と言っていいかはわかりませんが、〈うちに見る〉知覚およびそれにもとづく解釈の内容ではあると思います。
ちなみに〈うちに見る〉の内容がモニターのような二次元平面であってもいいのかというのはけっこう微妙な問題なのですが、ウォルハイム自身はジャスパー・ジョーンズの《Flag》を〈うちに見る〉の変則的な事例として取り上げています。
ゲームのHer Storyの表現なども似たケースですね。
https://www.youtube.com/watch?v=FgAZSnU8LLU&ab_channel=Polygon
Q. 抽象画とキュビズムの差において、描写内容を把握できるか否かという点を挙げていましたが、ピカソの絵の「ゲルニカ」や「泣く女」はそれに当てはまると思いますが、ジョルジュ・ブラックの「ギターを持つ男」は描写内容を把握するのが困難だと思います。題名を見ても把握できるかわからない程度の絵がキュビズムにもあると思いますが、この場合、どのように考えるべきですか。
A.
👉 MoMA | Georges Braque. Man with a Guitar. Céret, summer 1911–early 1912
たしかにピカソはともかくブラックまでいくと、描写内容が明確にあるケース(様式化のケース)とは言いづらいですね。おおよそ書かれている通り、「題名などから描写内容があることが示唆されるが、それを〈うちに見る〉を通して把握するのが困難な絵」くらいの理解でいいかなと思います。
Q. ホフマンの作品を見て、これルーチョ・フォンタナの「空間概念」の例はどうなるんだろ?と思いました。実際、画面(画布)に切り込みを入れているから、3次元に「なってしまった」とも言い換えられると思いますが、それでも実際に(のぞくとかいうことをせずに)「見る」ということだけを考えたときに、ホフマンとフォンタナの作品を通して見られる3次元の違いは一体どこにあるのかなと疑問に思った次第です(つまりマテリアルの使用のことなりは、描写の異なりに影響するのかどうかということ)。あと、patrick hughesとか(トランプルイユのような感じもしますが、あれはフラットで、hughesは3次元なので。でも見てる分には2次元という不思議な感じ。。。。これは、絵画の遠近法と同等なものと考えれば良いのでしょうか。)参照:youtube(https://www.youtube.com/watch?v=PdunlkS0os8)
A.
フォンタナの例はおっしゃるように実際に三次元の変化だと思います(なので描写や〈うちに見る〉の働きとは明らかに別物です)。ただ、それが画布であるがゆえに二次元であることへの期待があり、その期待が裏切られることで違和感が生じるケースとして説明できるかもしれません。いずれにせよ、描写の話ではないですね。
ヒューズの例は立体錯視の一種だと思います。線遠近法やトロンプルイユとは逆方向の錯視(三次元のものが二次元のものに見えるわけなので)ではありますが、錯視の種類としては同類でしょうね。ナナイの議論にならえば、おそらく背側皮質視覚路のほうがバグっているということであり、その点でトロンプルイユと大差ないからです。
👉 〈うちに見る〉説の難点と展開
Q. マンガやアニメの主要キャラクターは髪の色がピンクや青、金、銀などかなり派手であることに対して視聴している際には違和感を抱かないが(例:黒子のバスケetc...)、コスプレ画像など現実世界でそのキャラクター(に扮している者)を見ると異様に浮いて見えて、好きなキャラクターであったとしても現実にいたら近寄りたくないな、と思ってしまうことがある。この感覚も、今回の講義のデフォルメの例と同様のものなのかもしれないと考えた。
A. コスプレは「キャラクター」の回で少しだけ取り上げると思います。コスプレイヤーがキャラクターに扮するのと、通常の実写映像において俳優がキャラクターを演じるのとで何が違うのかという論点です。
Q. 白黒の画像の例でふと思ったのが、漫画のキャラクターの髪の毛の色のことです。よく漫画のキャラクターがカラーで描かれた際に髪色が思ってもないような色であることがあります。(例えば金髪だと思っていたら緑髮だったなど)こういった場合は、一般的な白黒画像の理解のされ方とは少し違うのではないかと思いました。どちらかというと講義で挙げられたマティスの絵画の理解のされ方に近いと思われます。(ナナイの三重説的にいうと視覚の上では金髪?のキャラクターで心的イメージは緑髮のキャラクター)ただ、画像を見ている人がカラーのキャラクターを見たことがない場合や、一般的な白黒画像のように理解できる人がいる場合など色々考えられるのでこれだと言うのは難しいなと思いました。
A. たしかに独特のケースですね。モノクロ画像には、描かれた対象の色が不確定ではあるものの、実際にはある程度どういう色かの予期が働いているケースもあるということかもしれません。その結果として、予期していたのとは異なる色がその対象につけられた場合に意外さを感じるという説明です。
Q. 身近なところでデジタル画像(CG)について考えてみた場合、写真(スチール)そっくりのCGとそれとはパノフスキーの分類で、「自然的主題」は同じであるように思います(また,写真(スチール)をデジタルスキャンした画像との比較なども同様かと考えます)。ただ、「形式」は異なるように思います。このようなマチエールの差異が、主題に差異を生み出さないと考えられる場合でも、それを同じものと考えるのは不適切であるように思いますが,これは適切でしょうか?
A. おっしゃるように描写内容が同じであることは、画像として同じであることを意味しません。画像表面と描写内容の二面を区別するもっとも基本的な動機はその点にあります。ウォルハイムの〈うちに見る〉説もグッドマンの記号説も、その事実を明らかに重視しています(グッドマンの理論では、マチエールの違いは、記号と内容の違いというよりは、記号トークンと記号タイプの違いとして説明されることになりそうですが)。
Q. 主題とモデルの食い違いについて。主題とモデルが一致するかどうかという話で、実在の人物を描く映像作品がこれに近いと感じた。昨年ご逝去なさった志村けんさんの半生を描くドラマ作品「志村けんとドリフの大爆笑物語」の政策が発表され、故志村さん役を人気俳優の山田裕貴さんが演じるのだという。作品の主題は「志村けん」だが、実際に演じるのは別人だ。この現象は演技が介在するコンテンツ一般に通じるものがあるとも思うのだが、次回以降触れていただけるとありがたい。
A. 画像というよりフィクション一般の問題ですが、関係する話ではあります。画像がフィクションとして使われるケース(実写を使ったフィクションも含む)とそうでないケースの区別は、おそらく次々回くらいで取り上げます。
Q. アニメや漫画におけるデフォルメに興味を抱いた。例えば、アニメではある程度現実に比べて目が大きいなどは許容されているが、あまりにも目が大きいキャラデザ(または作画)だと作画崩壊などと言われてしまうことがある。授業の本題からは離れているが、その線引きについて考えていきたい。
A. 作画崩壊も説明すべき面白事例でしょうね。一般化すると、デフォルメの絵と下手な絵の区別をどう説明すればいいかという話かもしれません。
Q. 画像には、大きく分けて、〈不特定のものを描く画像〉と〈特定の個体を描く画像〉があるという話がありましたが、特定の個体か不特定のものかというのは、言語においてはthe appleやan appleのように、冠詞で判断することができますが、描写内容においては作者の描写時の状況に関することであって、画像を見るだけでは判断するのは難しいように思いました。例えば、りんごの絵があったとして、不特定のりんごとして描いたのか、何か実物のりんごを見て描いたのか、そのりんごの絵を見るだけでは分からないこともあるということです。ただ、不特定のりんごなら平面的に、特定のりんごなら写実的・立体的に描くような傾向にあるので、そのような点で判断するということなのでしょうか。
A.
大まかにはその通りです。言い換えれば、〈不特定のものを描く画像〉と〈特定の個体を描く画像〉を見分けるためのマーカーが画像には(少なくとも内在的には)存在しません。グッドマン風の言い方で言えば、両者の区別をつけるための統語論的な要素が画像的な記号システムには用意されていません。とはいえ、その点では日本語も同じなので、画像と言語の違いというよりは、個々の記号システムの分解能の違いだと思います。
細かいところで以下の2点については違うと思います。
「描写内容においては作者の描写時の状況に関することであって」
→ 描写時の状況が直接関わるのはモデルが何であるかであって、主題が何であるかではありません。もちろん両者が一致することも多いですが。
「不特定のりんごなら平面的に、特定のりんごなら写実的・立体的に描くような傾向にあるので、そのような点で判断するということなのでしょうか。」
→ これは様式化された画像とリアリスティックな画像の違いです。不特定/特定の区別には重なりません。
いずれにせよ、「では不特定/特定の区別が何によってつけられるのか」というのは、描写内容の理論に回答が求められる問題ではあります。
Q. 補色画像は色相や彩度について明確に描写しているにもかかわらず、その画像の光景そのものを描写しているとは解釈されないと思うのですが、このように解釈されるのは現実との乖離が大きいからでしょうか?
A. グッドマン的な発想をするのであれば、「現実との乖離が大きい」(類似度が低い)からではなく、単純にそのような記号システム(解釈の体系)が適用されるから、という答えになると思います。再認説的な発想なら、おっしゃるように現実との乖離が大きいせいで再認能力が働かないから、といった答えになるでしょうね。
Q. 主題とモデルの食い違いに関連して、犯罪者の似顔絵など、実物ではなく記憶を頼りにして描いたものもこうした食い違いと呼べるのかと疑問に思った。たとえばAさんが犯罪を行ったとして、警察官が目撃者Bさんの証言をもとに似顔絵を作成したとする。そのとき、描かれた似顔絵の主題はAさんだが、実際に描写されているのは「Bさんの記憶にある、Bさんから見たAさん」であり、そこには記憶違いや、Bさんによるフィルターがかかっていることがおおいにあり得る。もともと絵を描くときには記憶をたどって描くことも多いだろうが、一度見ただけだとか、遠い昔のことを思い出して描くときには、主題とモデルは大きく異なるのではないかと思った。
A. 目撃者による容疑者の似顔絵は興味深い例だと思っています。主題はAさんと言っていいでしょうが、Aさんの実際の属性と描かれた人物の属性が一致することがあまり期待できないというケースでしょうね。この場合にモデルがAさんであると言っていいのかどうかもわかりません。
Q. ゼンリンの写真の炎上については、画像加工全般を「なんとなくわるいこと」とみなす考え方と絡んでいる気がしました。Snowで加工した画像や、肌荒れを隠したり輪郭を細くしたような画像を「加工詐欺」のように叩く行為を目にする機会があります。(それとわかる形で)画像を加工すること=よくないこととされるために赤を強調するゼンリンの画像加工が非難されたとすれば、白黒写真は(白黒のなかの色調なりなんなりも加工できうるのでしょうが)一括で画像を白黒にしている=ウソをついていないことになって非難されないということで納得できる気もします。という感想と通じる理論にはどのようなものがあるでしょうか。
A.
画像が嘘をつくとは何なのか、あるいはそもそも嘘をつくとはどういうことなのか、という話はどこかですると思います。嘘やミスリードを説明するための理論(言語行為論)が、おっしゃるケースを十全に説明できるかどうかはわかりません。
それとは別に、「加工」とはそもそも何なのかというのはけっこう難しい問題だと思います。あらゆる写真はある意味で加工されたものですし、そこまでいかなくても最近のスマホは普通に撮影するだけでいろいろな「補正」が自動でかかるわけなので。
Q. 五稜郭の紅葉の加工写真のようにカラー写真の彩度を加工すると、描写の真偽を批判するが、ナナイの例の打ち水の写真のように白黒であるならば、白黒の光景を描写しているという解釈はなされないとありました。すると、白黒写真で彩度以外の加工(打ち水の水が宙を舞っている範囲を拡大するなど)をしても、それは水の形状は虚偽のものでありますが、色が違うという時点で元の光景を描写してはいないため、描写に関する真偽の批判がされないのか、気になりました。
A. 白黒写真が真偽判定を免除されるのは、色(そのうちの彩度や色相)に関する情報のみだと思います。物の形状についての誇張や加工があれば、その点で嘘だと言われうるでしょう(正確に言えば、われわれはそのように解釈すべきものとして白黒写真を見ているでしょう)。
Q. プリクラや写真アプリで撮った写真は目が大きくなったり肌が白くなったりしたものができあがる。程度にもよるが、カラー写真の加工といっても人物写真のカラー加工は五稜郭の加工写真のように「嘘をついている」とまでは言われないことが多いのではないか(例えば証明写真機でも美白や美肌仕上げができる)。そうして出来上がった写真は撮影対象の本人を描写していると解釈できる一方で、肌が白く目が大きい人物としても解釈できると思われる。モノクロ写真やデフォルメ化と同様の事例と思われた。
A. おおむね同意しますが、実際のところ、嘘つき画像と見なされるかどうかは「プリクラだとこう、白黒写真だとこう」のように画像の種類による違いではなく、個々のケースによる違いと思います。この「ケースによる違い」を具体的にどういう違いなのかについては、そのうち「画像の使用」という論点の中で取り上げると思います。
🐪 その他
Q. 描いた人と画像と見る人とで持つ情報量に差があったときに、理論の上ではどのように解釈されるかまだよくわかっていないのでさらに復習しなければついていけなくなりそうだなと思いました。
A.
その点はこの授業ではほぼ問題にしていません。画像の「正しい」描写内容は、標準的なケースでは、個々の人が見てそれを把握できるかどうかとは別に決まっていると考えてよいです。以下の「正しさの基準」の話です。
👉 ウォルハイムの〈うちに見る〉説
一般化すると、作品の「正しい」解釈とは何かという話になります。以下参照。
👉 分析美学における作品解釈をめぐる議論
Q. ウォルハイムの区別では、平面ではなく何か奥行きを感じさせる絵画は「うちに見る」が生じているため描写内容があり、完全に平面上に完結しているものは描写内容がないという理解でいいのでしょうか。抽象画の描写内容の有無を考える基準が非常に難しいと思いました。
A. その理解で問題ないです。
Q. 具体例があることで、一口に描写内容といっても様々な複雑性があるということがよくわかったのですが、肖像画とトシテ描写における問題点が個人的には捉えづらかったです。グッドマンの「トシテ描写」という理論によってかなりすっきりと説明されているように感じたのですが、他にどういった問題があるのでしょうか。
A. 肖像画などの特定の個体を描く画像だけであれば、「トシテ描写」で問題なく説明できると思います。問題はそれの説明にしか使えない概念だということです。
Q. グッドマンは特定のものをしかじかの特徴を持つものとして描く表象の在り方をトシテ描写と呼ぶ、とありましたが、風刺画は、何かを風刺するために、その特徴を強く描き出していると思うので、風刺画はほぼほぼトシテ描写が使われているのではないかな、と思った。
A. たしかにそうかもしれませんね。
Q. レンブラントに関する「微妙な例」としてあげられている絵画に関して、豪華な布や柱といった情報から女性が宮殿に呼ばれた場面と判断したり、乳がんの可能性について言及するのは「慣習的主題」への言及に当たらないのかな、と疑問に思った。
A. 少なくとも乳がんのほうは明らかに取り決めのもとでの解釈ではないので、慣習的主題ではないですね。「絵から何らかの事実が推測できる」くらいのことだとは思いますが、これを内在的意味と言えるかどうかは微妙です(広い意味では言えるでしょうが)。
Q. 授業で出たついでにパノフスキーについてもっと解説をききたいと思った。具体的には、既に解説されたパノフスキーの描写哲学的な分析と、「象徴形態」みたいな話がつながっているか知りたい。参考文献だけでも教えていただけるとありがたい。
A.
「象徴形態」が何を指しているのかわかっていないので答えられませんが(象徴形式のこと?)、パノフスキーがカッシーラーと相互に影響を与えあったという話はよく知られています。パノフスキーの業績のうち、イコノロジーの話というより遠近法の話だとは思いますが(イコノロジーとの関係があるかはわかりません)。喜屋武盛也さんがいくつか論文を書いているので参考になると思います。他の文献・研究者は知りません。
喜屋武 盛也 (Moriya Kiyatake) - マイポータル - researchmap
カッシーラー『象徴形式の哲学』の形成と展開 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
ちなみに線遠近法がある種の認識の型であると考える点では、グッドマンも基本的に同じ路線です。「記号システムがほぼイコールで世界の見かたである(なんなら「世界」そのものである)」という発想なので。
Q. パノフスキーの意味の三層構造について大まかに理解できた思います。内在的意味に関してですが、これは描かれている対象そのものの意味以外にもその作品自体の存在の意味が含まれるという理解でよろしいでしょうか。(例えば画家がその作品を描き出そうとした意図、時代背景...など)内在的意味を読み取るためには慣習的主題を読み取ることが必須になるのかどうかについても教えていただきたいです。
A. その理解でいいと思います。パノフスキー自身は慣習的主題の解釈規則(イコノグラフィー)をベースにして内在的意味を読み取るという方向を基本的に想定しているようですが、慣習的主題以外の経路でも内在的意味を読み取ることはできると思いますし、パノフスキーもそれは否定しないと思います。前回少し紹介した様式論はおそらくその一例です。
Q. 美術史の方法論について他にどんなものがあるのか知りたいのですが、参考文献等を挙げていただけると嬉しいです。
A.
美術史の先生に聞いたほうがいいと思いますが、以下2冊はいい入門書かなと思います。
マイナー『美術史の歴史』北原他訳、ブリュッケ、2003年
アーノルド『1冊でわかる美術史』鈴木訳、岩波書店、2006年
ちょっとひねった独特の方法論を提示しているものとして個人的に以下をおすすめします(美術史学が幅広く学べるというものではありません)。
ケンプ『レンブラント《聖家族》:描かれたカーテンの内と外』加藤訳、三元社、2003年(訳者解説含む)
岸『絵画行為論:浮世絵のプラグマティクス』醍醐書房、2008年
Q. 多くの分析方法を知っていらっしゃる美学者の方は、美術館の絵を一目見て良さが分かるのでしょうか。私なんかはピカソの絵を見ても、キュビズムだと言われてもさっぱり良さが分からないのですが、一目見てとまではいかなくても、なぜ名画が名画とされているのかは分かるものなのでしょうか。分析方法というのは、別に良さを説明づけるためのものではないのでしょうか?
A. 作品の良さがわかるかどうかは、むしろ芸術史的な知識(当の作品やジャンルの文脈を知っているかどうか)と感性(その対象の見どころを把握する能力があるかどうか)に依存すると思います。最初のほうで紹介したマリメッコの良さがわかるかどうか問題と同じですね。理論的な概念を持っているだけでは、ふつう美的な良し悪しはわかりません。とはいえ、どういう訓練をすればそうした能力が身につくのかとか、自分の経験・知覚の言語化がしやすくなるとかいう点で、美学を勉強することのメリットはあるでしょうね。個人的にも、美学の勉強を続けているうちに美的な物事についてのメタ理解と言語化の解像度が上がった感触はあります。