第10回リアぺのQ&A
Q. 年末の動画に関して、配信を見逃したのかと少し焦っていましたが、なかったと聞いて安心しました。
A. ごめんなさいです。
Q. バースの三分法について、インデックスの例として赤ずきんちゃんが赤ずきんというのがそれをかぶっている女の子と結びついて、それだけで女の子の名称(あだな)として記号となるという説明があったが、これは突き詰めるとシンボルなのではないかと思った。インデックスとシンボルの違いはどこにあるのか。
A. ある記号が最初に使われはじめたきっかけはインデックスやアイコンとしての働きだったとしても、その記号と内容の関係が定着し定型化することで、ほとんどシンボルと言ってよくなるケースはありますね。隠喩についても同様の現象があります(「死んだ隠喩 dead metaphor」と言われます)。
Q. 自己中心的な位置情報の伝達について、それが自分の位置を基準としたときにその対象がどの方向にどの程度離れているかの情報を伝える、ということはわかった。しかし、「私」が鏡にうつった「私」を見ているとき、これはどう説明できるのか疑問に思った。というのは、見ているのも対象もどちらも「私」であるため、見ている「私」の位置からの離れ具合や離れている方向というのはがイメージしにくかったからである。「私」が鏡にうつった「私」を見ているときは、そこに自己中心的な位置情報の伝達はあるのだろうか。
Q. 鏡を通して自分を見るとき、見る人と対象は同一の(ゼロ距離の)自分ということになるのだろうか。鏡は見る人と対象の位置関係についての情報を実際に持っているということだが、これは自分を見るときにもあてはまることなのだろうか。鏡との距離や傾きを変えると、自分の像も変わって見えるが、こうした時、反映されているのは自分自身の位置関係というより、見る人と鏡の位置関係となっているのではないか気になった。
A. たしかにそのとおりですね。鏡を通じて自分との距離を測れると言いうる対象がもしあるとすれば、それは自分ではなく〈鏡の向こう側にいるかのように見える自分〉だと思いますが、そのような謎の存在者を導入したくはないですね。
Q. ウォルトンの透明性は手書きの絵画にあてはまらないとされていたが、模倣を旨とする、「開かれた窓として」描かれた絵画にも本当に当てはまらないだろうか。写生にも信念を要するとされるが、一口に信念といえどもこのような絵画における信念とは、「このような絵にしよう」でなく「カメラのような画家であろう」という信念で、つまりは絵の描写内容に関わらない信念なのではないか。
A. ゴンブリッチやグッドマンがさかんに批判している「無垢の目」という理論上の前提を持ち出せば、そう言ってもいいとは思います。
Q. 今まではなんとなく写真は事実を映すものだと思っていたが、今回の講義を聞いて写真を通して「見る」という行為が実際に見たことになるのかという議論は興味深かった。場所や時間も異なるもの(写真)を見て実物を見たというのは違和感を感じるが、そう考えると顕微鏡や胃カメラを通して見ているのは実物であるとするのにも検討の余地があると感じた。
A. そうですね。もっと言えば、じゃあメガネを通して見るのはどうなのかという話にもなるかもしれません。補綴(義肢、人工臓器、etc.)一般にも言えることですが、身体とその拡張は(少なくとも機能の上では)そこまで明確に区別できるものではないのかもしれません。
Q. 最近は写真の加工技術が非常に発達しており、たとえば脚を細く長く見せる加工や、顔の輪郭をなぞると細くなるような加工もある。そのような加工写真について、透明性に関しては授業でも言及があったように、加工部分は不透明で、加工されていない部分は透明であるという説明ができるかもしれないが、「写真は、そのような何かが存在したことを不可避に示してしまう」という写真と特徴には当てはまらないのではないかと考える。なぜなら、他者の脚や輪郭を合成したわけではなく、自らの脚を画面上で細くしているので、加工でできた「私の細い脚」はどこにも存在していないからだ。この点はどのように考えるとよいのか疑問に思った。
A. その細さの脚は存在しないとしても、「それに似た何かは存在した」くらいのことは言えそうです(「そこに何もなければそのような写真はできなかった」という反事実条件文が言えるという意味で)。とはいえ、「それに似た何か」の「似た」がどの程度までの似てなさを許容するのかはよくわかりません。突き詰めれば「とにかく何かは存在した」としか言えないということになるのかもしれませんが、それだと情報量がほぼないですね。
Q. 現在ではプリクラだけでなく、スマホのアプリで簡単に写真を「盛る」ことができる。また、出会い系アプリなどにおいては、自分の写真を加工して載せる人もいる。このような事例では、写真のモデルは本人ではあるものの、見た目は実物よりかなり美化される。これは、写真で「嘘をついている」というべきなのだろうか。個人的には「誤解を与える」と表現されると思う。
A. 写真というより画像一般の話ですが、まさに嘘とミスリードの違いについての論文があって、銭さんがまとめています。基本的に言い逃れ可能性の有無で区別されるようですが、けっこうややこしい話ではあります。
レジュメ|エマニュエル・フィーバーン「画像で嘘をつく」(2019) - obakeweb
Q. ウォルトンの写真の透明性について、写真が視覚的な補助であり、本当に見ることと同じであるという論は衝撃的ですが、確かに納得してしまうなと思いました。コーエンとメスキンの自己中心的な情報の伝達についても、確かに写真がそのような情報を持っていないことは事実ですが、位置的な制約を受けずに対象を見るという補助をしているだけと言ってしまえばそれを否定するのは難しいように思います。肉眼で対象を見ることの制約を取り去ってきたのが顕微鏡や鏡などの視覚的な補助装置なので、写真も時間、空間の制約を取り去っただけで対象を見ているという意味では変わらないと言えるように感じます。他の視覚的な補助装置と決定的に違うのは対象に反射した光が肉眼に入ってこないことだと思います。他の視覚的な補助装置は対象に反射した光がその装置を経由はするものの肉眼に入ってきますが、写真は写真に反射した光が目に入ってくるだけで、実際に対象に反射した光が目に入ってはきません。しかしながら、テレビやパソコンなどその装置自体が光を放っているものに関しては、対象に反射した光をデータとして保存し、それを光に戻したものが目に入ってきていると考えることができるのでこれも批判としては微妙かもしれないなと思いました。
A. 的確な疑問だと思います。疑問への答えはとくに持っていませんが、全体的に同意します。光の同一性をどう考えるか(「あるものに反射した光」とは何なのか)という問題なのかもしれません。
Q. デジタル画像(たとえばGoogleマップのストリートビューの画像)は「どこからどこを見ている」というような情報を視覚としても数値的な情報としても伝えられるものではないかと考えました。VRゴーグルを通してみる映像は、空間的な位置関係を(擬似的に)伝えているおり「自己中心的な位置情報を擬似的に伝えている」とみなすことはできるという話が共有いただいたYouTubeの動画内の講義でも触れられていましたが、「触れるかどうか」といったようなことはどのように考えうるのでしょうか。ストリートビューでは移動はできても触ることはできませんが、動画内で触れられていたボールや「触れる」という操作をあらかじめ規定されているゲームであれば可能であるように思いました。「インタラクティブ性」をもとに考えることができる話でしょうか。
A. 表象がインタラクティブな場合(あるいはもっと直接的に遠隔で現実の何かを操作する場合)でも、操作者の身体に対する触覚的なレスポンスがないかぎりは、少なくとも文字通りには「触った」ことにはならないんじゃないかと思います(そういうレスポンスがありさえすれば「触った」ことになるのかどうかも微妙ですが)。とはいえ、「疑似的に触った」くらいは言えそうですね。VRとは別の文脈ですが、ゲームなどのフィクションがある種の疑似的な「手ごたえ」を持つことがあるという特徴を、シミュレーション(操作可能なモデルによる表象)という概念から説明しようとしたことがあります。説明があまりうまくいっていないかもしれませんが。
https://researchmap.jp/zmz/presentations/16293343
Q. 写真について、自撮りカメラなどで見られるような「存在するものは人為の介入なく写すが、存在しないもの(エフェクトなど)もリアルタイムで写しこむ」状況は定義的に信念独立とは言えないのだろうか。
A. 全体としてはどっちなんでしょうね。機械的な処理の部分は(少なくとも写真をとる人の)信念からは独立でしょうが、どのエフェクトが選ばれるかは撮影者の信念に依存しますし、そのエフェクトの内容は(その処理が機械的であったとしても)写真アプリの開発者の信念に依存すると言っていいとは思います。
Q. 加工された写真のなかでも、自動的に画像が処理されるもの(グリーンバックに他の映像が差し込まれるだけのものなど)と、加工アプリを使って「目を大きく、顔の輪郭を小さく」などと画像を変化させる例では、因果性も信念独立の性質も、前者が大きく、後者が小さいのかなと思いました。プリクラは、この中間であるように思いました。機械的に目や輪郭といった要素を認識しているのと、プリ機の制作者の判断(「目が多き方がいい」など)がかかわる点では信念独立の程度は低いですが、そのプログラムに基づいて機械的に操作していることはかわりないと思います。
A. そう思います。
Q. コーエンとメスキンの理論が面白いなあと思いました。銭さんのブログもザッと読みましたが、確かに「自己中心的な空間的位置情報」が写真には欠けているという点で、「通常の知覚」と「写真の知覚」は区別できるのかもしれません。一つ疑問に思うのは、この「自己中心的な空間的位置情報」がどれほど知覚ないし認識にとって本質的なのでしょうか?「望遠鏡を覗いているとき、わからなくても情報があるんだよ」というのは別に納得するのですが、望遠鏡を介した(例えば)木星の知覚にとって本質的なのでしょうか?「知覚」と「当の情報」の関係は、文脈によって「心臓を持つ生物」にとっての「腎臓がある」くらいの関係に思えます(つまり情報が知覚にとって非本質的になる文脈がある)。こうなると写真に「透明性」があると言ってもいいような気もします。
A. 情報から知覚を含めた心的表象を特徴づけるのはドレツキ流なんだと思いますが、別の立場もいろいろあるんじゃないかと思います。たとえばミリカンの固有機能の観点から同じ話が成り立つのかどうかは考えてみてもいいかもしれません。それとは別に、ウォルトンにせよコーエンとメスキンにせよ、「写真はこれこれのグループとこの点で共通していて、この点でちょっと違う」くらいの言い方にしておけば、「見ることの本質とは何なのか」という面倒な話題を迂回できたんじゃないかなと思います。
Q. コーエン&メスキンによるウォルトンの主張への反論は、自己中心的な位置情報云々よりは単に写真の後の時点や離れた場所から見られるという性質の話なのではないのか。眼鏡や鏡による像は継続性がなく(停止できない)当事者しか観測し得ないのだから自己中心的な位置情報がわかるのは当たり前なのでは?逆に、写真は瞬間を切り取るものだから、他者(撮影者でない人物)が見た時は当然そこに写った像の位置情報はわからない。撮影者であれば、ファインダーから覗いた像の位置情報はわかるし、撮影した直後やその時の記憶があるうちもやはり位置情報がわかると言えるのではないか。
Q. 音楽のライブやスポーツの試合などをパブリックビューイングなどで見る場合、そのライブや試合を本当に見たといえるかどうか。仮にある人が東京で行われている音楽ライブを、大阪の映画館などで映像中継を通して見る場合を考えてみたい。映像の被写体であるミュージシャンが、大阪でパブリックビューイングが行われていることを認識していてそのことに言及した(「パブリックビューイング会場のみんなも盛り上がってるかー」等の語りかけなど)場合は、自己中心的な位置情報の伝達が起きているように思え、実際に見たといっても差し支えないように見える。一方で、同じ人がライブDVD化された映像を後日自宅で見る場合、全く同じ映像であっても 位置情報の伝達は起きていないだろう。自己中心的な位置情報の伝達が起きるには、リアルタイムの映像であることが重要な要素なのかもしれない。
Q. ウォルトンの透明性の議論について、ウォルトンは写真が望遠鏡や眼鏡と同様の視覚の補助であるとし、コーエンとメスキンは写真が知覚者と対象の位置関係についての情報を伝えていない点からそれに反論したという流れとして理解しました。私は写真と望遠鏡や眼鏡の違いとして、認知と対象の存在の間に時間的な断絶があり、そのためそれぞれを介した視覚は経験として別物になるということを考えたのですが、こうした観点からの指摘はあるのでしょうか。オペラグラスによる観劇、そのライブビューイング、その映像を後から観ることはそれぞれ同じ"to see"ではないように思えます。
A. 写真とその他の視覚の補助との大きな違いは、空間の問題というよりは直接には時間の問題(像の固定・定着があるかどうか、像の生成からどれだけ時間が立っているか)なのではないか、というのはそう思います。
Q. ウォルトンの理論は突飛ですが興味深いと感じました。反論として自己中心的な位置情報の話が挙げられていましたが、VRがVR内での自己中心的な位置情報の伝達を行い、ドローンにカメラをつけて飛ばす場合ドローン=自分の目としてやはり自己中心的な位置情報の伝達が行われていると考えるなら、写真を見る場合もカメラの位置=自分の目の位置として自己中心的な位置情報が存在するとは言えないのでしょうか。例えばカメラをオンにしてzoomをするとか、ビデオ通話をする場合は写真を通してみる場合よりも違和感なく「本当に通話相手を見ている」と言えると思いますが、この場合も写真のケースと同様に望遠鏡や鏡などを介するときに比べて自己中心的な位置情報が曖昧だと思います。そう考えると「写真を通して見ることが本当に見ることになる」とは言い難いと感じるのは、自己中心的な位置情報の有無というよりは純粋にそこに大きな時間的隔たりがあるからではないかと感じました。ウォルトンは「望遠鏡で見る星の光は過去のものなのだから時間は関係ない」と言っていましたが、その光が観測者の網膜に届いているのは現在なので反論にならないのではないかと思いました。
A. VRドローンの例は「疑似的」な自己中心的な位置情報の伝達ですね。リアルタイムのカメラ映像も、(カメラが操作可能かどうか、見る人がVRデバイスをつけるかどうか、などでいろいろなバリエーションが考えられるにせよ)構造としては似たものですね。時間の話についてはひとつまえのコメントと同じくそのとおりだと思います。
Q. コーエンとメスキンの主張では防犯カメラやスポーツ中継も本当には見ていないということですか?
A. そうなるでしょうね。
Q. 写真を見る人が「写真に写されている場所(撮影者が立っていた場所・被写体の場所)」を実際に知っていた(行ったことがある)場合も、写真は位置情報を欠いていると言えるのだろうか。写真を見る人はそれを通して写真に撮られた場所のことを思い出し、撮影場所と被写体の位置関係を尊像することができる。それともこれはあくまで、実際に「見た」体験を写真が思い出させているだけで、写真を通して現実の位置関係を読み取ったとは言えないのだろうか?
A. 「自己中心的」な情報ではないですね。