踏み台としての類似説
🐪 素朴な類似説
説明
絵はそれが描く内容に似ているという点で(たとえば言語とは違う)独特の特徴を持つ、という考え。
とくに誰々の立場というわけではないが、伝統的によく言われる主張ではある。
パースの有名な三分法(記号とその対象の関係についての三分法)は、類似説の一例として考えていいかもしれない:
イコン
類似関係によって対象に結びついている記号。
たとえば、画像やオノマトペなど。
インデックス
因果関係などの現実的な関係によって対象に結びついている記号。
たとえば、煙が火を示す、風見鶏が風向きを示すなど。
≒自然的記号
シンボル
取り決めによって対象に結びついている記号。
例はたくさんあるが、言語がわかりやすい。
俗な意味で「記号」「記号的」と言われるのは基本的にこれだろう。
注意
このパースの意味での意味の"symbol"(規約的記号)と、「寓意」と対比されて「象徴」と訳される意味での"symbol"は微妙に別概念なので注意。
ついでに、あとで紹介するグッドマンも"symbol"という語を使うが、これはどちらの意味でもなく、規約的記号も自然的記号も象徴もすべて含めた一般的な意味での「記号」の意味である。
🐪 指摘されてきた素朴な類似説の難点
一般に言われる難点
写実的な絵や写真については言えるとしても、デフォルメされた絵についてはぜんぜん成り立たない。
「絵がその対象に似ている」と言われる場合、それは画像表面と描写内容が似ているのではなくて、描写内容(〈うちに見える〉内容)と絵の主題が似ているのである。たとえば似顔絵のケース。
絵 → 主題
絵 → 描写内容 → 主題
仮に絵に何らかの類似を感じる場合でも、絵の描写内容を把握したあとで類似に気づいているというケースも少なくない。
グッドマンが指摘した難点(とにかくたくさんダメ出しをしている)
類似は対称関係(AがBに似ていればBはAに似ている)だが、描写はそうではない(AがBを描写するからと言ってBがAを描写するわけではない)。
類似があると描写が成り立つなどということはぜんぜんない。双子は似ているが描写関係にはないし、同じタイプの車は似ているが描写関係にはない。
猫の絵は、猫よりもほかの絵(たとえば猫を描いた絵や猫を描いていない絵)に似ている。しかし、猫の絵はそうした絵を描写するのではなく、猫を描写する。
類似のポイントを特定しようとしてもうまくいかない。
たとえば、線遠近法を絵の典型と考えるような論者が言いがちな、〈理想的な環境下で標準的な目(あるいは無垢の目)のもとで見られる事物の姿と、画像表面が視覚的に似ている〉という主張はうまくいかない。
よくできた絵であっても、そういう「理想的な環境下」で見られた事物の姿をまるで模倣していないことがある。
むしろ、絵を「それらしく」見せているのは、絵を描いたり解釈したりするための伝統・慣習である。
「遠くから見られる彫刻や巨大な彫刻が写実的であるには――つまり「正しく見える」には――その描写対象とはまったく異なるふうに形作られる必要がある。そして、その「正しく見える」ようにする方法は、なんらかの定まった普遍的な規則には還元できない。というのも、ある事物がどのように見えるかは、その向きや距離や光の具合に左右されるだけでなく、われわれがその事物について知っていることのすべてにも左右されるし、さらにわれわれがどのように教育され、どういう習慣や関心を持っているかにも左右されるからである。」(『芸術の言語』p. 22、強調松永)
グッドマンの見解
このように画像とその内容の結びつきは、ある種の慣習(convention)によって成り立っている。
その意味で、画像は他のさまざまな記号(symbol)と変わらない。
画像がそれ以外の種類の記号と異なるのは、それを特定の記号として分類し、特定の意味内容を割り当てるためのシステム(=記号システム)が独特だからである。