美的なものと客観性
Q. 美的判断が主観的ではなく客観的であるなら、それは先天的なものなのでしょうか。
Q. 個人的に美的判断は主観的なものであると思います。なぜならある客観的な物体が美しいと認識するのは、私たちが美しいと認識して初めて美しい存在と位置付けられるからである。
Q. 美的判断が客観性を持つ(持ちうる?)場合というのが今の自分には全くピンと来ていないので、これからの授業でどう扱われるのかがとても楽しみです。
A.
「美的判断は客観的がどうか」を考えるまえに、「客観的」をどういう意味でとるかをはっきりさせないといけないでしょうね。
【余談】最近出た本:ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』名古屋大学出版会、2021年
日本語でこのへんの議論の雰囲気とモチベーションがわかる文献として以下がおすすめです。
源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』慶應義塾大学出版会、2019年、2~3章
「客観的かどうか」が論点になるのは、たとえば以下のような事実があるからです。
美的性質の知覚は、色知覚のあり方にけっこう近い。
美的性質の知覚は、うまくやれば、他人と共有する(あるいは他人に伝達する)ことが可能に思える。
美的性質は、基礎的な非美的性質(たとえば色や形)に依存している(基礎的な性質が変われば美的性質も変わる)。
美的判断は、正誤が問題にされることが多い。少なくとも、意見が食い違ったときに論争になりえる(ただの好き嫌いの話では、そういう論争は起きない)。
以下、マリメッコと昭和の家電の違いを強調するツイート:
「昭和家電の花柄はマリメッコみたいな花首チョンパ!ぎっしり!て感じじゃなくて、花瓶から花が脱出したよ!びたーん!て感じだろがい」
「マリメッコと昭和の家電は、絵柄は似てるけどプロポーションがかなり違うわね。現代的なプロポーションに、サイケな20世紀的絵柄だから面白いのでは。」
「マリメッコの柄模様って一見シンプルでありながら絶妙に不安定な輪郭や輪郭間のバランスが一番重要だと思うので、単純にシンプルで静的な柄の昭和家電を引き合いに出すのに関しては「わかってない」と思う。」
ちなみに伝統的には、美的なものを主観のあり方から特徴づけようとする「主観主義美学」が圧倒的に主流でした。
また現代でも、美的性質の知覚において主観的な諸条件が関わること自体を否定する論者は(客観性を擁護する論者も含めて)いないと思います。
ついでに現代の議論では、美的性質の知覚に関わる主観的な諸条件として、(先天的な条件もあるかもしれませんが)当の対象をとりまく文脈についてのなじみや知識といった後天的な条件が必ず挙げられます。
代表的な考えとしてケンダル・ウォルトンの「カテゴリー」の議論があります。